奇跡のように美しい人

2章:謳歌 - 9 -

 それからの日々は、記憶がおぼろだ。
 これまでにも何度かあったことで、嫌なことがあったり、気が動転した後は、どういうわけか記憶が飛ぶのだ。
 今回は、朦朧としている間に七日が過ぎていた。
 思い当たる要因といえば、二人の関係が変わることを恐れたことくらいだ。あれだって、小さな胸のしこ りくらいのものだと思うが、他に思い当たる節がない。
 七日の間、どのように過ごしていたのかまるで覚えていない。
 眼を醒ました時、佳蓮は夢とうつつの区別がつかなかった。
 飛び降りた直後のように、思考が朧で、視界に映る光景に現実味を感じられなかった。
 いつもに増して重い、意識障害後にやってくる副作用を引き起こした。幾度も捻じ伏せてきた疑問を掘り起こして、自ら混乱に陥っていく。
 ここはどこ?
 どうして生きているの?
 死んだんじゃないの?
 自問自答を繰り返す佳蓮を、泣きそうな顔でレインジールが見ている。名前を呼ばれると、麻痺した心を揺さぶられた。

「……時々思うんだ。何もかも妄想で、レインは私が生んだ、私を否定しない美しい存在なんじゃないかって」

 ベッドの上でぼんやり呟く佳蓮を、レインジールはきつく抱きしめた。

「な、何?」

「夢ではありません」

「判ってるよ。放して」

「私は、貴方の創造物ではありません」

「判ってるってば」

「なら、どうしてそのように心を彷徨わせるのですか?」

 責める口調に、佳蓮は怒りを覚えた。

「じゃぁ、聞くけど、死後の世界でもなければ想像の世界でもない、ここはどこなの?」

 反論する隙を与えずに続ける。

「納得のいく説明が一度でもあったと思う? 私は死んで、どうなったの? ちゃんと死んだの? 本気で考えたら、一秒だってまともでいられやしない。自分の世界に籠るしかないじゃない」

「堕天したことは」

「違う、自殺したの。何度いえば判るの? 屋上から飛び降りたんだってばッ!」

「尊い堕天です。天界での貴方を知ることはできませんが、この国にとっては、貴方は間違いなく流星の女神です」

「やめてッ! 私は女神じゃない、女神なんかじゃない、女神なんかじゃないッ!!」

「佳蓮、佳蓮、落ち着いて。どうして否定するのですか? 貴方は、地上に堕ちても変わらずに、穢れない光輝ですのに」

 佳蓮の眼が据わった。宥めようとする腕を、力任せに振り払う。
 怒りを孕んだ勁烈けいれつな眼差しに、レインジールはおののいたように息を呑んだ。

「レインってどうしてそうなの? 本気で私が女神だと思ってるの?」

「もちろんです」

「……凄いね。自分でも信じられないのに、よく信じられるね」

 驚くほど冷たい声が出た。
 彼のこうした真っ直ぐな姿勢を見る度に、完璧なまでに整った容姿が嫌味に思えてくる。

「ねぇ、生まれながらの咎があるって、いっていたよね」

「はい」

「レインも?」

「え?」

「ここへ堕ちる前は、何をしていたの?」

「輪廻は上位次元アストラルの領域です。私を含め、地上に生まれた者に、推し測る術はありません」

「どうしようもない、悪人だったのかもよ? そのザマだもんね。ご愁傷様! あ、でも違うか。私の傍にいられて、嬉しくて仕方ないのか。あはははっ!」

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
 剣呑な光を眼に灯して、レインジールはベッドの上に佳蓮を押し倒した。両手首をシーツにきつく縫い留めて、射抜くように見下ろしている。
 品行方正で礼儀正しいレインジールとは思えぬ、荒々しい仕草だ。

「どいて!」

「私の女神。お願いですから、私の想いを軽んじるのはお止めください」

 爛と見下ろす瞳に、見紛うなき熱が灯っている。気付きたくなかった……ずっと居心地の良い関係でいられると信じていたのに――

「放して」

 視線から逃げるように顔を傾けて、四肢に力を込めるが、たやすく封じられた。

「私を怒らせるのは、得策ではありませんよ。翼を手折られた貴方は、私を追い払えやしないのだから」

「レインのくせに、何……ッ……」

 感情が昂り、熱い雫となって瞳から零れ落ちた。はっとしたように、レインジールは佳蓮を離した。

「ッ、申し訳ありません、こんなつもりでは」

「出ていって」

 まるで佳蓮を恐れるように、レインジールは部屋の隅へ寄った。

「……私はただ、佳蓮の聖杯を満たしたくて……私を見ようとしない貴方を見るのが、辛くて……」

 美しい顔を両手に沈めて、血を吐くような、沈痛な声を絞り出した。見せるつもりはなかったであろう、感情の吐露だ。
 やるせない沈黙が流れる。
 ふと、佳蓮の脳裏に断片的な記憶がよぎった。哀しそうな声を、以前にも聴いたことがある。

“佳蓮。心地いい風ですよ。庭に出てみませんか?”

 愛おしそうに髪を撫でながら、囁きかける声……

“佳蓮。何を見ているのか、教えてください……”

 結ばぬ焦点を辿って、心を汲むように笑みかける。

“佳蓮。怖くありませんよ。どうか、ここへ戻ってきてください……”

 あの優しい声は、確かにレインジールだった。
 佳蓮が朦朧としている間、いつもそうやって傍にいてくれたのだろうか?
 疑問はすぐに確信に変わる。
 彼はいつだって佳蓮を第一に気遣ってくれるのに、佳蓮ときたら、癇癪を起して悲憤慷慨ひふんこうがいぶりをまき散らしている。

「……ごめん」

 頭が冷えると、羞恥が込み上げてきた。
 ゆっくりと傍へ寄り、白銀の髪を撫でると、レインジールは恐る恐る顔を上げた。動揺したことを恥じるように、首を緩く左右に振る。

「いいえ、とんでもない醜態でした。自分が嫌になる……」

「お互い様だよ。私の方がずっと酷いし」

「自制が利かず……お恥ずかしい。自分に、これほど衝動的な一面があるとは知りませんでした」

「レインは私よりずっと大人だよ」

「佳蓮……」

「面倒くさい性格で、ごめん」

 悄然と呟くと、レインジールは歯痒そうな表情を浮かべた。

「そんな風におっしゃらないでください。今のは私に非があったのです。貴方はもっと、私を責めてくださっていいのです」

「レインは悪くないよ……でも、私の恐がることはしないで」

 小声で告げると、レインジールは姿勢を正した。

「決して。何よりも大切にすると誓います」

 ぎこちなく笑みかけると、レインジールも儚げにほほえんだ。かと思えば、さて、と空気を変えるように明るい声を発する。

「仲直りをしましょう」

「仲直り?」

 きょとんとする佳蓮を見て、レインジールは微笑んだ。

「紅茶を煎れますね。テラスで涼みながら飲みましょうか」

 それは、とても素敵な提案に聴こえた。
 自分より相手の気持ちをおもんばかり、喫茶に誘ってくれるレインジールは、やはり佳蓮より遥かに大人だ。
 夕涼みしながら紅茶を飲むうちに、気持ちは凪いでいった。
 思えば、気まずい思いをした相手と仲直りをするのは、初めての経験かもしれない。仲直り……縁遠い言葉だと思っていた。
 暖かな紅茶が、心に染み入る。
 喧嘩をした後の仲直りだと思うからだろうか? とても優しい味をしていた。