奇跡のように美しい人
2章:謳歌 - 8 -
夏の終わり。
地方伯の庭園喫茶に招かれた佳蓮は、同席しているシリウスを冷静に眺めていた。
彼は、地味な容姿をしていると思う。切れ長の一重や平坦な顔立ちは、よくよく見れば整っていなくもないが、レインジールと比べたら雲泥万里の差がある。
しかし、佳蓮以外の人にとって、彼は非の打ちどころの無い麗しの皇子様なのだ。実際、娘達は少しでも彼の眼に留まりたくて、妍 を競っている。
シリウスのすごいところは、毀誉褒貶 に動じず、柔和な態度を崩さないところだろう。今も令嬢に囲まれて、四方から声をかけられているが、菩薩のような笑みを湛えている。リグレットが、彼を権謀術数の百戦錬磨と評していたのも頷ける。
ふと眼が合い、佳蓮は誤魔化すように微笑んだ。
シリウスは眼を瞬かせると、ほんのりと目元を染めた。はにかむ皇子を見て、令嬢達はうっとりとしている。キララだけは、不倶戴天 の仇を見るような瞳で睨んできた。
彼女は彼に恋をしているから、佳蓮に惹かれているシリウスの姿を見るのは苦痛だろう。
人の恋路の邪魔はしたくないのに、美しすぎる我が身を時々疎ましく感じる。すごい悩みだな、と佳蓮は自嘲気味に席を立った。
「少し庭園を歩いてきます。皆さま、どうぞごゆっくりなさっていてください」
「私もご一緒してよろしいでしょうか?」
追い駆けるようにシリウスが席を立ったので、佳蓮は慌てた。
「主役が抜けてはいけませんよ。気ままに歩きたいので、どうかお気遣いなく」
名残惜しげな皇子に軽く会釈をして、佳蓮は逃げるように背を向けた。
素敵な庭園喫茶だが、やはりシリウスがいると気疲れしてしまう。
そろそろ帰ろうかしら……ぼんやり考えながら、藤やクレマチスのからまる石柱の回廊を歩いていると、
「ハスミ様」
背中に声をかけられて、心臓が撥ねた。振り向くと、優雅な足取りでシリウスが近付いてくる。
「あら?」
「共もつけずに、お一人で歩いてはなりません」
「でも、庭園の中ですし」
困ったように笑う佳蓮を見て、シリウスはため息をついた。
「油断は禁物です。一般公開もされている庭園ですよ。貴方のような佳人が一人でいれば、声をかけたくなる男が後を絶たないでしょう」
「それは……ご心配いただき、ありがとうございます。そろそろ戻りますね」
もう少し庭園を見ていたかったが、二人きりになるのは勘弁して欲しい。
「良ければ、一緒に歩きませんか?」
「え、でも……キララ様は?」
「まだ席で茶会を楽しんでいますよ。私もちょうど、歩きたい気分だったのです」
はにかむシリウスを見て、佳蓮は眼を眇めた。
「いけませんね、婚約者を置いてくるなんて。他の令嬢も、残念に思っているのでは?」
「ハスミ様は、残念に思ってくださらないのですか?」
苦笑で返されて、佳蓮は言葉に詰まった。適切な言葉が見つからず、戻りますね、と呟いて背を向ける。
「お待ちください」
シリウスにさり気なく手を取られて、佳蓮は渋々並んで歩き始めた。
「時計塔の暮らしは、いかがですか?」
注がれる、賞賛に満ちた熱っぽい眼差し。
居心地の悪さを感じながら、佳蓮はさり気なく視線を落とした。
「よくしていただいております」
「困ったことがあれば、いつでもおっしゃてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
望まぬ展開に佳蓮は困っていたが、シリウスも落ち着かない気分にさせられていた。これまで、何でも選ぶ立場にあった彼にとって、女性の関心を得られないというのは初めての体験である。
柔和な笑みの下に隠された戸惑いを、佳蓮は知らない。ただ無関心に口を閉ざしていた。
逃げ道を探していたところへレインジールの姿を見つけて、雲間から射す光を見た心地がした。
「レイン!」
シリウスの腕に添えていた手を外し、スカートの裾を摘まむ。駆け出そうとした瞬間、シリウスに腕を引かれた。
「シリウス皇子?」
「そんな風にいってしまわないで。せめて、送らせてください」
予想外に真摯な眼差しを向けられて、佳蓮はドキリとした。
視線から逃げるようにレインジールを見ると、物憂げな表情でこちらを見ていた。
「ハスミ様!」
気付けば駆け出していた。背中にシリウスが声をかけるが、佳蓮は振り向かなかった。
「レイン」
呼吸を整えながら上目遣いに仰ぐと、レインジールは驚いたように佳蓮を見つめた。
「きてるなら、声をかけてよ」
拗ねたように佳蓮がいうと、レインジールは表情を綻ばせた。佳蓮の頬を両手に包みこみ、額に唇を落とす。いきなり何をするのだ。顔を思いきり逸らすと、レインジールは嬉しそうに微笑んだ。
「お迎えにあがりました」
「羨ましいですね。レインジールを見て、思わず駆け出してしまうとは」
柔和な笑みを湛えて、シリウスは傍へやってきた。レインジールは胸に手を当てて、忠実な騎士のように一礼する。シリウスは鷹揚に片手で応えながら、金色の瞳を佳蓮に向けた。
「残念ですが、時間のようですね。今度は私にエスコートをさせてくださいね」
困ったように黙す佳蓮の手を取り、シリウスは眼を合せたまま、ゆっくり唇を落とした。素振りではなく、本当に唇が肌に触れた。手を放されると、思わず胸の前で手を組み合わせる。
「それでは、また」
爽やかな笑顔でシリウスが去っていった後、二人の間に何ともいえぬ気まずさが流れた。
「……今日は茶会に呼ばれていたはずでしょう? こんなところで、殿下と何をしていたのですか?」
「見つかったから、一緒に少し歩いていただけだよ。途中で抜けたら、皇子が後を追い駆けてきたからさ」
「抜けた?」
「うん。そろそろ帰ろうと思ってた。いいところにきてくれたよ」
レインジールは強張った表情で口を開いた。
「……佳蓮も、シリウス皇子に惹かれているのではありませんか?」
「えぇ?」
胡乱げに睨 めつけると、レインジールは失言を悔いるように視線を逸らした。
まるで嫉妬しているようだ。いや、気のせいではなく、シリウスに嫉妬している。
今でも信じ難いが、ここでは、恐ろしいほどの美貌を持つレインジールは凡人以下の容姿で、凡人たるシリウスこそが麗しの皇子様なのだ。
「シリウス皇子のことは、嫌いじゃないけど好きでもないよ。それに私、キララ様を影ながら応援しているから」
ニベもなく佳蓮がいい放つと、レインジールは俄かには信じ難い、といった表情を浮かべた。
「彼はアズラピス殿下と共に、帝国の碧玉、光芒を放つ天子と、波濤 を越えて讃えられる、アディール帝国の皇太子ですよ」
「知ってるよ。否定はしないけど、別に惹かれない」
「……前から思っていましたが、佳蓮の好みは少々変わっていますね」
「レインにだけはいわれたくない」
「は?」
「別に。文句ある?」
「いいえ。殿下の魅力が貴方に通じなくて、ほっとしています」
「私の一番は、レインだから」
大好きの証 。そんなつもりで告げたが、レインジールは黙ってしまった。
「あ、そういう意味じゃなくて」
「そういう意味?」
「えっと……」
「教えてください」
「だから、弟のように気安いというか、レインは本当に特別だから」
「……弟?」
「うん」
大分目線は近くなったが、彼はまだ一四歳だ。
嘘はいっていないはずのに、軽薄な言葉に聞こえてしまうのは、レインジールが苦しそうな顔をするからだろうか。
「光栄です。でも、貴方は私が想うようには、想ってくださらないのですね」
「レインー……」
いかにも困ったという声が出た。レインジールは悲しそうに顔を俯ける。
「私の気持ちを、知っているのでしょう?」
言外に責められて、佳蓮は俯いた。
両手首を掴まれて、肩が震える。顔を上げられずにいると、さらりと流れた銀髪が頬に触れた。
「ッ!」
朱くなっているだろう耳朶に、柔らかな唇が触れる。とろりと蜜を流し込むように、佳蓮、と囁かれた。
「困らせてすみません……どうしようもないほど、貴方に惹かれてしまう私を、どうか許してください」
言葉の意味を理解すると共に、カッと身体が熱くなった。
信じられないほど、心臓が早鐘を打っている。心は浮き立ち、酩酊したように頭がクラクラする。
甘い感情に戸惑いながら、漠然とした恐怖も感じていた。
この先、どうなってしまうのだろう……知ることが怖い。少しも定まらない未来に戦慄する。
心に蟠 る疑問から逃れるように、佳蓮きつく眼を瞑った。
地方伯の庭園喫茶に招かれた佳蓮は、同席しているシリウスを冷静に眺めていた。
彼は、地味な容姿をしていると思う。切れ長の一重や平坦な顔立ちは、よくよく見れば整っていなくもないが、レインジールと比べたら雲泥万里の差がある。
しかし、佳蓮以外の人にとって、彼は非の打ちどころの無い麗しの皇子様なのだ。実際、娘達は少しでも彼の眼に留まりたくて、
シリウスのすごいところは、
ふと眼が合い、佳蓮は誤魔化すように微笑んだ。
シリウスは眼を瞬かせると、ほんのりと目元を染めた。はにかむ皇子を見て、令嬢達はうっとりとしている。キララだけは、
彼女は彼に恋をしているから、佳蓮に惹かれているシリウスの姿を見るのは苦痛だろう。
人の恋路の邪魔はしたくないのに、美しすぎる我が身を時々疎ましく感じる。すごい悩みだな、と佳蓮は自嘲気味に席を立った。
「少し庭園を歩いてきます。皆さま、どうぞごゆっくりなさっていてください」
「私もご一緒してよろしいでしょうか?」
追い駆けるようにシリウスが席を立ったので、佳蓮は慌てた。
「主役が抜けてはいけませんよ。気ままに歩きたいので、どうかお気遣いなく」
名残惜しげな皇子に軽く会釈をして、佳蓮は逃げるように背を向けた。
素敵な庭園喫茶だが、やはりシリウスがいると気疲れしてしまう。
そろそろ帰ろうかしら……ぼんやり考えながら、藤やクレマチスのからまる石柱の回廊を歩いていると、
「ハスミ様」
背中に声をかけられて、心臓が撥ねた。振り向くと、優雅な足取りでシリウスが近付いてくる。
「あら?」
「共もつけずに、お一人で歩いてはなりません」
「でも、庭園の中ですし」
困ったように笑う佳蓮を見て、シリウスはため息をついた。
「油断は禁物です。一般公開もされている庭園ですよ。貴方のような佳人が一人でいれば、声をかけたくなる男が後を絶たないでしょう」
「それは……ご心配いただき、ありがとうございます。そろそろ戻りますね」
もう少し庭園を見ていたかったが、二人きりになるのは勘弁して欲しい。
「良ければ、一緒に歩きませんか?」
「え、でも……キララ様は?」
「まだ席で茶会を楽しんでいますよ。私もちょうど、歩きたい気分だったのです」
はにかむシリウスを見て、佳蓮は眼を眇めた。
「いけませんね、婚約者を置いてくるなんて。他の令嬢も、残念に思っているのでは?」
「ハスミ様は、残念に思ってくださらないのですか?」
苦笑で返されて、佳蓮は言葉に詰まった。適切な言葉が見つからず、戻りますね、と呟いて背を向ける。
「お待ちください」
シリウスにさり気なく手を取られて、佳蓮は渋々並んで歩き始めた。
「時計塔の暮らしは、いかがですか?」
注がれる、賞賛に満ちた熱っぽい眼差し。
居心地の悪さを感じながら、佳蓮はさり気なく視線を落とした。
「よくしていただいております」
「困ったことがあれば、いつでもおっしゃてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
望まぬ展開に佳蓮は困っていたが、シリウスも落ち着かない気分にさせられていた。これまで、何でも選ぶ立場にあった彼にとって、女性の関心を得られないというのは初めての体験である。
柔和な笑みの下に隠された戸惑いを、佳蓮は知らない。ただ無関心に口を閉ざしていた。
逃げ道を探していたところへレインジールの姿を見つけて、雲間から射す光を見た心地がした。
「レイン!」
シリウスの腕に添えていた手を外し、スカートの裾を摘まむ。駆け出そうとした瞬間、シリウスに腕を引かれた。
「シリウス皇子?」
「そんな風にいってしまわないで。せめて、送らせてください」
予想外に真摯な眼差しを向けられて、佳蓮はドキリとした。
視線から逃げるようにレインジールを見ると、物憂げな表情でこちらを見ていた。
「ハスミ様!」
気付けば駆け出していた。背中にシリウスが声をかけるが、佳蓮は振り向かなかった。
「レイン」
呼吸を整えながら上目遣いに仰ぐと、レインジールは驚いたように佳蓮を見つめた。
「きてるなら、声をかけてよ」
拗ねたように佳蓮がいうと、レインジールは表情を綻ばせた。佳蓮の頬を両手に包みこみ、額に唇を落とす。いきなり何をするのだ。顔を思いきり逸らすと、レインジールは嬉しそうに微笑んだ。
「お迎えにあがりました」
「羨ましいですね。レインジールを見て、思わず駆け出してしまうとは」
柔和な笑みを湛えて、シリウスは傍へやってきた。レインジールは胸に手を当てて、忠実な騎士のように一礼する。シリウスは鷹揚に片手で応えながら、金色の瞳を佳蓮に向けた。
「残念ですが、時間のようですね。今度は私にエスコートをさせてくださいね」
困ったように黙す佳蓮の手を取り、シリウスは眼を合せたまま、ゆっくり唇を落とした。素振りではなく、本当に唇が肌に触れた。手を放されると、思わず胸の前で手を組み合わせる。
「それでは、また」
爽やかな笑顔でシリウスが去っていった後、二人の間に何ともいえぬ気まずさが流れた。
「……今日は茶会に呼ばれていたはずでしょう? こんなところで、殿下と何をしていたのですか?」
「見つかったから、一緒に少し歩いていただけだよ。途中で抜けたら、皇子が後を追い駆けてきたからさ」
「抜けた?」
「うん。そろそろ帰ろうと思ってた。いいところにきてくれたよ」
レインジールは強張った表情で口を開いた。
「……佳蓮も、シリウス皇子に惹かれているのではありませんか?」
「えぇ?」
胡乱げに
まるで嫉妬しているようだ。いや、気のせいではなく、シリウスに嫉妬している。
今でも信じ難いが、ここでは、恐ろしいほどの美貌を持つレインジールは凡人以下の容姿で、凡人たるシリウスこそが麗しの皇子様なのだ。
「シリウス皇子のことは、嫌いじゃないけど好きでもないよ。それに私、キララ様を影ながら応援しているから」
ニベもなく佳蓮がいい放つと、レインジールは俄かには信じ難い、といった表情を浮かべた。
「彼はアズラピス殿下と共に、帝国の碧玉、光芒を放つ天子と、
「知ってるよ。否定はしないけど、別に惹かれない」
「……前から思っていましたが、佳蓮の好みは少々変わっていますね」
「レインにだけはいわれたくない」
「は?」
「別に。文句ある?」
「いいえ。殿下の魅力が貴方に通じなくて、ほっとしています」
「私の一番は、レインだから」
大好きの
「あ、そういう意味じゃなくて」
「そういう意味?」
「えっと……」
「教えてください」
「だから、弟のように気安いというか、レインは本当に特別だから」
「……弟?」
「うん」
大分目線は近くなったが、彼はまだ一四歳だ。
嘘はいっていないはずのに、軽薄な言葉に聞こえてしまうのは、レインジールが苦しそうな顔をするからだろうか。
「光栄です。でも、貴方は私が想うようには、想ってくださらないのですね」
「レインー……」
いかにも困ったという声が出た。レインジールは悲しそうに顔を俯ける。
「私の気持ちを、知っているのでしょう?」
言外に責められて、佳蓮は俯いた。
両手首を掴まれて、肩が震える。顔を上げられずにいると、さらりと流れた銀髪が頬に触れた。
「ッ!」
朱くなっているだろう耳朶に、柔らかな唇が触れる。とろりと蜜を流し込むように、佳蓮、と囁かれた。
「困らせてすみません……どうしようもないほど、貴方に惹かれてしまう私を、どうか許してください」
言葉の意味を理解すると共に、カッと身体が熱くなった。
信じられないほど、心臓が早鐘を打っている。心は浮き立ち、酩酊したように頭がクラクラする。
甘い感情に戸惑いながら、漠然とした恐怖も感じていた。
この先、どうなってしまうのだろう……知ることが怖い。少しも定まらない未来に戦慄する。
心に