奇跡のように美しい人

2章:謳歌 - 5 -

 六月の時計塔。
 資料館の帰り道、佳蓮は中庭へ降りて晴れた空を仰いだ。
 爽やかな空気に薔薇の香気が溶けこみ、花々の向こうでは噴水の飛沫が煌めいて、七色の虹を織りなしている。
 思わずどこかへ遊びにいきたくなる陽気だ。
 足取り軽くレインジールの工房へ向かうと、よたよたと筒状の資料を運ぶ、見知った少年の後ろ姿を見つけた。

「ジラン、ジラン、引きずってるよ」

 後を追い駆けて、ひょいと筒の後ろを持ち上げた。

「ハスミ様!」

 澄んだアメシストの瞳を丸くして、愛らしい顔立ちの少年が振り向いた。塔に勤める魔導師見習いで、レインジールの工房にもよく出入りしている少年である。

「後ろ持つよ」

「え!? だ、大丈夫です!」

「いいからいいから。どこまで運ぶの?」

「えっと、第二会議室です」

「そうなの。この資料はジランには大き過ぎるよね。他の人に頼めば良かったのに」

「いえ、本当は別の人が持っていくはずだったのですが、その、代わるよう頼まれて……」

「断らなかったの?」

「ちょうど手が空いていましたから」

「偉いね」

「いえ……ハスミ様はお優しいですね」

 頬を紅潮させて、ジランはうっとりと呟いた。憧憬の眼差しを遮るように、佳蓮は顔の前で手を振った。

「別に優しくないよ」

「そんなことありません。僕なんかに声をかけてくださるハスミ様は、とてもお優しいと思います」

 佳蓮視点では、精緻に整った顔立ちをしているジランは、容姿に深い劣等感を抱えている。他の人に比べて“僕なんか”という認識なのだ。
 彼も、地球に生まれていれば、薔薇色の人生を歩めたろうに……
 もっとも、恵まれた容姿を意識して育ったら、全く別の人格が形成されたかもしれないが。
 第二会議室へ資料を届けると、この気のいい少年ともう少し一緒に過ごしてみたくて、お茶に誘ってみた。

「よろしいのですか?」

「もちろん。ジランが良ければ」

「ぜひ、ご一緒させてください!」

 明るい返事に気を良くして、二人で中庭に面する喫茶に入った。
 ジランは最初こそ緊張していたが、佳蓮の方からあれこれと話しかけるうちに、屈託のない笑みを見せるようになった。時々冗談もいう。ジランから見たレインジールの話は、とても興味深かった。
 佳蓮には格別に優しいレインジールは、星詠機関では意外と恐がられているらしい。まぁ、あの若さで長官を務めているから、周囲もやりにくいのだろう。
 話は尽きず、楽しくおしゃべりしていると、十五、六歳の学生が近付いてきた。
 ジランの身体が強張ったのを見て、ピンときた。彼等はいじめっ子に違いない。

「こんにちは、女神様……」

 少年達は、佳蓮を見てぼぅっとなった。如才ない笑みを顔に貼りつけ、佳蓮は唇を開いた。

「ご機嫌よう。何かご用かしら?」

「後輩の姿を見かけたので、様子を見にきました。ジラン、いつの間に女神様と親しくなったんだ?」

 気のいい先輩を装っているが、声には嫉妬が滲んでいる。
 委縮するジランの肩を、佳蓮はそっと抱き寄せた。呆気にとられている上級生を座ったまま見据えて、嫣然えんぜんと微笑む。

「ジランは私のお気に入りなの。話し相手になってもらっていたんです」

「ジランが?」

「ええ、そうなの。あら、リグレット様だわ」

「えっ!?」

 少年達は慌てて振り向いた。リグレットを認めるや、ぴんと背筋を伸ばし、行儀よく両手を身体の側面に張りつけた。
 リグレットは、五つ塔の西塔を管理する上級魔導士だ。
 白金髪のオールバックに銀縁の片眼鏡モノクルをかけた、怜悧な美貌の青年である。人を見下したような、無機質な冷たさがあり、大抵の生徒に恐れられていた。

「リュウ、シバ、アラン。こんなところで油を売っていないで、研究に励みなさい」

 片眼鏡の奥から、冴えた蒼氷色アイス・ブルーと金眼に睥睨されて、全員が怯んだように黙った。

「すみません、すぐに戻ります」

 最初に唇を割ったのは、三人の中でボス格の、リュウと呼ばれた少年だ。

「僕も戻らないと。ハスミ様、ありがとうございました!」

 叱られたわけでもないのに、ジランは焦ったようにいってしまう。リグレットと二人になるのが嫌で、佳蓮もさり気なく席を立った。

「ハスミ様」

 低い美声に呼び止められた。恐る恐る振り向くと、神秘的なオッドアイがまっすぐ佳蓮を見ていた。

「……ご機嫌よう、リグレットさん」

「女神におかれましては、ご機嫌麗しく」

「ありがとうございます」

「どちらへ?」

「えっと、レインに会いにいこうかと」

「彼も貴方を探していましたよ。なかなか工房にお見えにならないから、待ちきれずに探しにいきましたが」

「え、本当ですか?」

「研究の途中だったんですけどね。貴方がきていると聞いた途端に、上の空になってしまいました。困ったものです」

 迷惑そうな口調に、佳蓮は肩をすくめて項垂れた。叱れらた生徒の気分だ。

「入れ違いになると面倒です。長官に知らせるので、ここにいてください」

「あ、それなら」

 自分でいきます、と断る前にリグレットは小型通信盤を取り出し、起動してしまった。懐中時計のような形状のそれは、アディール版スマートフォンである。

「すぐに、きてくださるそうですよ」

「ありがとうございます」

 佳蓮が頭を下げると、リグレットはその正面の石垣に腰を下ろした。

「最近、女神が頻繁にいらっしゃるので、“魔導師達は女神の寵愛を競っている”と噂になっているようですね」

「すみません……」

「貴方が謝ることでもないでしょう」

 冷めた表情からは、心を読み取れない。顔が整っているだけに、表情を消していると怜悧な雰囲気が増して怖い。

「あの、あまりこない方が良いでしょうか?」

 佳蓮は神妙な面持ちで仰いだ。

「いいえ。貴方の訪れを喜ばない男はいないでしょう」

 甘い台詞にも聞こえるが、熱が伴っていない。反応に困って、佳蓮は愛想笑いを浮かべた。

「長官も貴方に夢中だ」

「……どうでしょう」

「そうですよ。貴方は、彼の堅牢な厭世観えんせいかんに、光を射したのですから……」

 おもむろに伸ばされた手が、佳蓮の黒髪に触れた。
 視線を俯けて言葉を探していると、小走りで駆けてくる足音が聞えた。期待を込めて顔を上げると、走り寄るレインジールの姿が見えた。
 安堵に表情を緩めた佳蓮と違い、息を弾ませているレインジールは強張った顔をしている。

「リグレット。何をしているのですか」

「長官殿。幸運にも女神にお会いできたので、ご挨拶をしておりました」

 空気がわだかまるのを感じて、佳蓮は努めて明るい声を出した。

「レイン、探してたの。迎えにきてくれてありがとう」

「こちらの台詞ですよ。もう、こんなところにいるなんて」

「ごめん。ちょっとジランと喋ってたの」

「喫茶で寛いでいるのなら、一言教えてくださればいいのに。探しましたよ」

「ごめん……」

「次はお知らせください。工房にいきますか?」

「うん」

 差し伸べられた掌に手を重ねると、リグレットと瞳が合った。

「長官。研究の途中だということをお忘れですか? ハスミ様は私がお連れしますから、お戻りになってはいかがです?」

 眉をひそめるレインジール、冷たく見下ろすリグレットを見て、佳蓮は慌てた。

「あの、お邪魔したみたいでごめんなさい。忙しいなら、私はもう帰るから」

 睨み合っていた二人は不穏な空気を散らして、同時に佳蓮を見た。

「貴方が遠慮する必要はありませんよ」

「そうですよ。せっかくいらしてくださったのに。ゆっくりしていってください」

 畳み掛けるようにいわれた。断る間もなく、左右から手を取られる。二人に挟まれて、そのまま工房へ連行された。
 険悪な空気を懸念していたが、二人はよくった間柄のようで、工房で寛いでいるうちに緊張は解けた。意外と、三人でいるのは楽しかった。