奇跡のように美しい人
3章:決意 - 8 -
眼が醒めると、見知らぬベッドで寝ていた。
爆 ぜる薪の音。
優しい香りの正体は、すぐに判った。
天井から束ねた月桂樹の枝が吊るされており、ベッドの傍らには、花弁をあしらったタッジー・マッジーが飾られている。
見知らぬ部屋なのに、なぜかノスタルジーな寂寥感に襲われた。
「気がついたかい?」
はっとして扉を見ると、感じの良い老女が部屋に入ってきた。手にしている真鍮の盆には、湯気の立つ硝子ポットがのっている。
「あの、すみません。ベッドをお借りして」
「いいんだよ。眼が醒めて良かった。ここへ運んだ時は、ずぶ濡れで、随分冷たったからね」
「ご迷惑をおかけしました」
「謝ることはない。天の思し召しさ。私はオルガノ。眼が不自由でね、うちの子が、雨の中で倒れているお前さんを見つけて、ここへ連れてきたんだ」
オルガノは、殆ど白に近い銀色の瞳で佳蓮を見た。硝子のような瞳だ。何もかも見透かしてしまいそうな、不思議な光を讃えている。
「これをお飲みなさい。温まるよ」
「ありがとうございます」
オルガノは、摘みたてのハーブティーに、琥珀色の蜂蜜を溶かしてカップに注いでくれた。
「美味しい」
すっきりした香りに、仄かな甘み。レインジールの煎れてくれる紅茶の味を思い出した。
名乗ろうとした時、卓上の情報誌が眼に飛び込んできて、思わずむせそうになった。一面に大きく、佳蓮の姿が印刷されていたのだ。
「……私、クレハといいます」
咄嗟に偽名を名乗ると、オルガノはにっこりとほほ笑んだ。
「いい名前だね、クレハ。よく休むといいよ。ほら、これをお食べなさい」
親切なオルガのは、優しい味付けのハーブ粥を振る舞ってくれた。頭を下げる様子が見えているのか、銀色の瞳を細めてほほえんでいる。
「どこからきたんだい?」
「……アンガスという田舎町なのですが、ご存知でしょうか?」
「知っているよ。遠いところから、よくきてくれたねぇ」
まるで昔から佳蓮を知っているかのように、オルガノは暖かくほほえんだ。それは佳蓮も同じで、初めて会った気がしないことを不思議に思いながら、小さく会釈を返した。
「お世話になりっぱなしで、すみません」
「クレハがきてくれたことを、天に感謝しないとね。めぐり逢わせてくださって、ありがとうございます」
オルガノは、しわがれた手を胸の前で組み合わせ、敬虔な信徒のように項垂れた。
彼女の素朴な仕草は、不思議なほど痩せた心に沁み入り、視界が潤んだ。
「ここにいなさい」
何もかも知っているかのように、オルガノはいった。両手で顔を覆う佳蓮の背を、暖かい手で摩ってくれる。
そうして、新しい生活が始まった。
日常において、オルガノは微塵も盲目を気取らせなかった。
身の周りのことや、庭園の手入れまで何もかも自分でやってしまう。
外へ出ることを恐れず、めかしこんで茶飲み友達と街に繰り出したりもする。
情深く小粋な人で、偽名だと気付いているだろうに、詮索もせず、居候を許してくれる。
彼女は、薬草に非常に精通していた。
二〇〇坪を越える野草園には、数百ものハーブが植えられている。遠い昔から伝わる、古い薔薇も豊富に植えられていて、時計塔の庭園とは、また違った魅力があった。
「素敵な庭ですね。なんだか落ち着きます」
「隣合った宿根草が馴染みあいながら成長していくから、どの草も自然体なのさ」
「へぇ、オルガノさんが丹精込めて世話をしているから、輝いているんですね」
「私はちょっとした手伝いをしているだけさ。草花の自由にさせてやった方が、庭は生きる」
植物のことは判らない佳蓮だが、無数の薬草が織りなす庭の光景は、素朴ながら優美で美しかった。
「佳蓮がきてから、庭が明るくなったよ。どんな魔法をかけたんだい?」
オルガノが笑って、佳蓮もつられたように笑った。
お屋敷の中にも緑があちこちに配置されていて、どことなくレインジールの工房に雰囲気が似ている。
自給自足の生活は単調なようでいて、驚きと発見に満ちていた。
自分の口に入れるものを、自ら育て、摘み取り、調理する。土を耕し、家畜の世話をする。衣服を洗う。床を掃き清める。
家事の一つ一つが、生きていると実感させてくれる。
日常に価値を見出す尊さを、オルガノは教えてくれた。
彼女の手は暖かくて、まるで娘にでもするように頭を撫でられると、不思議なほど心が安らいだ。
親切でお茶目で博識なオルガノのことを、佳蓮はすぐに好きになった。
彼女の隣で庭仕事をしていると、心は安らぎ、新たな知識を得るごとに気分は高揚した。
二人きりの生活でも、優秀な自動人形がいてくれるので、広大な庭のメンテナンスも苦ではない。
多くの園芸家が悩まされるように、オルガノも腰痛持ちで、しゃがんで作業をするのは辛いとよく愚痴をこぼした。
夜の団欒に、佳蓮が腰を摩ってやると、気持ち良さそうに表情を綻ばせた。
「佳蓮の手は暖かくて気持ちがいいねぇ」
そういって笑うオルガノは、お礼にとハーブ茶を煎れてくれたり、香りのよい入浴剤を作ってくれる。
大きな鍋をぐつぐつさせている様子は黒魔術にしか見えなかったが、本人いわく薬草学の一環だそうだ。
瞬く間に日は過ぎてゆく――
毎日のように庭仕事をしていたが、ある朝、庭が凍っていて佳蓮は驚いた。
「ここは高原だから、冬が近付くと地面が凍っちまうのさ」
「庭の手入れは?」
「しばらくお休みだよ」
それでは、庭が荒れてしまわないだろうか?
「私は眼が見えないから、季節ごとに咲く苗の植え込みやら、手間のかかる育成は苦手なんだ。だから気候に適した、手間のさほどかからない宿根草を主に植えているんだよ」
「なるほど……」
庭仕事ができないことを、佳蓮は残念に思った。
じっとしていると、思考は悪い方へ転がっていく。おまけに、気の滅入るような曇り空が続き、佳蓮は口数少なく、毎日を塞ぎこんで過ごすようになった。
長い、雨の夜。
佳蓮は、窓辺で降りしきる雨を眺めていた。暖炉の前に蹲り、クッションを抱えて寝転んでいる。
あの遠い十二月。
飛び降りた真冬の空。凍てつく吐息。十七歳。青春の花の盛りを生きていたはずなのに、心は死んでいた。
涯 ての大地をさすらい、こんな遠くへきてしまった。
これまで過ごしてきた月日は、全て幻の出来事で、本当はもうとっくに、死んでいるような気もする。
「いけないよ」
心が虚ろになりかけた時、頭を優しく撫でられた。
「オルガノさん……」
盲 いたとは思えぬ、賢者のような瞳だ。この不思議な女性は、佳蓮の複雑な事情を何もかも見通しているのではないか? 時々そんな気分にさせられる。
「オルガノさん。私ね、年を取らないんです」
「へぇ?」
「もう九年も、同じ姿なんです。髪は伸びないし、切っても、すぐに元の長さに戻ってしまうんです」
「そうかい」
「本当なんです」
「疑っちゃいないさ。そういうことがあったって、不思議じゃない」
軽んじるでもない、慈母のような笑みを見て、佳蓮は続けた。
「……オルガノさん。あの、私、いっていないことがあって」
「いいよ。無理にいわなくても」
穏やかなオルガノの言葉に、佳蓮は会話を続けることを一瞬ためらった。
「私、呪われているのかもしれません」
「どうしてそう思うんだい?」
「年を取らないし……生きているのか、死んでいるのか、もうよく判らないんです」
「生きていなけりゃ、なんだっていうんだい?」
「幽霊」
大真面目に呟く佳蓮を見て、オルガノは喧 しく笑った。
「こんなに暖かな頬をして、死者だなんて馬鹿をいっちゃいけないよ」
「でも……」
「盲いた瞳でも、クレハはまばゆいくらいに、輝いていると判るよ。傍にいると、日射しに照らされているように、暖かいからね」
「ッ……」
真っ暗な心の中に、小さな明かりが灯る。嗚咽を堪える佳蓮の背中を、オルガノは優しく撫でた。
「人も草花と一緒さ。大地に根づいて生きていくんだ。冷たい霜が降りても、春がくれば芽吹いて花をつける。拠り所があれば、何度でも再生できるんだよ」
暖かな手に撫でられると、説明しようのない郷愁に襲われた。遠い故郷を想い、レインジールを想い、静かに涙を流す佳蓮の頭を、オルガノは優しく包みこんだ。
「クレハさえよければ、いつまでもここにいていいんだよ」
「ありがとう、ありがとう、オルガノさん。ごめんなさい……ッ……」
この優しい女性は、きっと佳蓮の正体に気付ている。承知した上で、ここにいていいといってくれているのだ。
いつかは明かさねばならないだろう。でも、あともう少しだけ……流星の女神ではなく、流れ者の佳蓮としてここにいたかった。
優しい香りの正体は、すぐに判った。
天井から束ねた月桂樹の枝が吊るされており、ベッドの傍らには、花弁をあしらったタッジー・マッジーが飾られている。
見知らぬ部屋なのに、なぜかノスタルジーな寂寥感に襲われた。
「気がついたかい?」
はっとして扉を見ると、感じの良い老女が部屋に入ってきた。手にしている真鍮の盆には、湯気の立つ硝子ポットがのっている。
「あの、すみません。ベッドをお借りして」
「いいんだよ。眼が醒めて良かった。ここへ運んだ時は、ずぶ濡れで、随分冷たったからね」
「ご迷惑をおかけしました」
「謝ることはない。天の思し召しさ。私はオルガノ。眼が不自由でね、うちの子が、雨の中で倒れているお前さんを見つけて、ここへ連れてきたんだ」
オルガノは、殆ど白に近い銀色の瞳で佳蓮を見た。硝子のような瞳だ。何もかも見透かしてしまいそうな、不思議な光を讃えている。
「これをお飲みなさい。温まるよ」
「ありがとうございます」
オルガノは、摘みたてのハーブティーに、琥珀色の蜂蜜を溶かしてカップに注いでくれた。
「美味しい」
すっきりした香りに、仄かな甘み。レインジールの煎れてくれる紅茶の味を思い出した。
名乗ろうとした時、卓上の情報誌が眼に飛び込んできて、思わずむせそうになった。一面に大きく、佳蓮の姿が印刷されていたのだ。
「……私、クレハといいます」
咄嗟に偽名を名乗ると、オルガノはにっこりとほほ笑んだ。
「いい名前だね、クレハ。よく休むといいよ。ほら、これをお食べなさい」
親切なオルガのは、優しい味付けのハーブ粥を振る舞ってくれた。頭を下げる様子が見えているのか、銀色の瞳を細めてほほえんでいる。
「どこからきたんだい?」
「……アンガスという田舎町なのですが、ご存知でしょうか?」
「知っているよ。遠いところから、よくきてくれたねぇ」
まるで昔から佳蓮を知っているかのように、オルガノは暖かくほほえんだ。それは佳蓮も同じで、初めて会った気がしないことを不思議に思いながら、小さく会釈を返した。
「お世話になりっぱなしで、すみません」
「クレハがきてくれたことを、天に感謝しないとね。めぐり逢わせてくださって、ありがとうございます」
オルガノは、しわがれた手を胸の前で組み合わせ、敬虔な信徒のように項垂れた。
彼女の素朴な仕草は、不思議なほど痩せた心に沁み入り、視界が潤んだ。
「ここにいなさい」
何もかも知っているかのように、オルガノはいった。両手で顔を覆う佳蓮の背を、暖かい手で摩ってくれる。
そうして、新しい生活が始まった。
日常において、オルガノは微塵も盲目を気取らせなかった。
身の周りのことや、庭園の手入れまで何もかも自分でやってしまう。
外へ出ることを恐れず、めかしこんで茶飲み友達と街に繰り出したりもする。
情深く小粋な人で、偽名だと気付いているだろうに、詮索もせず、居候を許してくれる。
彼女は、薬草に非常に精通していた。
二〇〇坪を越える野草園には、数百ものハーブが植えられている。遠い昔から伝わる、古い薔薇も豊富に植えられていて、時計塔の庭園とは、また違った魅力があった。
「素敵な庭ですね。なんだか落ち着きます」
「隣合った宿根草が馴染みあいながら成長していくから、どの草も自然体なのさ」
「へぇ、オルガノさんが丹精込めて世話をしているから、輝いているんですね」
「私はちょっとした手伝いをしているだけさ。草花の自由にさせてやった方が、庭は生きる」
植物のことは判らない佳蓮だが、無数の薬草が織りなす庭の光景は、素朴ながら優美で美しかった。
「佳蓮がきてから、庭が明るくなったよ。どんな魔法をかけたんだい?」
オルガノが笑って、佳蓮もつられたように笑った。
お屋敷の中にも緑があちこちに配置されていて、どことなくレインジールの工房に雰囲気が似ている。
自給自足の生活は単調なようでいて、驚きと発見に満ちていた。
自分の口に入れるものを、自ら育て、摘み取り、調理する。土を耕し、家畜の世話をする。衣服を洗う。床を掃き清める。
家事の一つ一つが、生きていると実感させてくれる。
日常に価値を見出す尊さを、オルガノは教えてくれた。
彼女の手は暖かくて、まるで娘にでもするように頭を撫でられると、不思議なほど心が安らいだ。
親切でお茶目で博識なオルガノのことを、佳蓮はすぐに好きになった。
彼女の隣で庭仕事をしていると、心は安らぎ、新たな知識を得るごとに気分は高揚した。
二人きりの生活でも、優秀な自動人形がいてくれるので、広大な庭のメンテナンスも苦ではない。
多くの園芸家が悩まされるように、オルガノも腰痛持ちで、しゃがんで作業をするのは辛いとよく愚痴をこぼした。
夜の団欒に、佳蓮が腰を摩ってやると、気持ち良さそうに表情を綻ばせた。
「佳蓮の手は暖かくて気持ちがいいねぇ」
そういって笑うオルガノは、お礼にとハーブ茶を煎れてくれたり、香りのよい入浴剤を作ってくれる。
大きな鍋をぐつぐつさせている様子は黒魔術にしか見えなかったが、本人いわく薬草学の一環だそうだ。
瞬く間に日は過ぎてゆく――
毎日のように庭仕事をしていたが、ある朝、庭が凍っていて佳蓮は驚いた。
「ここは高原だから、冬が近付くと地面が凍っちまうのさ」
「庭の手入れは?」
「しばらくお休みだよ」
それでは、庭が荒れてしまわないだろうか?
「私は眼が見えないから、季節ごとに咲く苗の植え込みやら、手間のかかる育成は苦手なんだ。だから気候に適した、手間のさほどかからない宿根草を主に植えているんだよ」
「なるほど……」
庭仕事ができないことを、佳蓮は残念に思った。
じっとしていると、思考は悪い方へ転がっていく。おまけに、気の滅入るような曇り空が続き、佳蓮は口数少なく、毎日を塞ぎこんで過ごすようになった。
長い、雨の夜。
佳蓮は、窓辺で降りしきる雨を眺めていた。暖炉の前に蹲り、クッションを抱えて寝転んでいる。
あの遠い十二月。
飛び降りた真冬の空。凍てつく吐息。十七歳。青春の花の盛りを生きていたはずなのに、心は死んでいた。
これまで過ごしてきた月日は、全て幻の出来事で、本当はもうとっくに、死んでいるような気もする。
「いけないよ」
心が虚ろになりかけた時、頭を優しく撫でられた。
「オルガノさん……」
「オルガノさん。私ね、年を取らないんです」
「へぇ?」
「もう九年も、同じ姿なんです。髪は伸びないし、切っても、すぐに元の長さに戻ってしまうんです」
「そうかい」
「本当なんです」
「疑っちゃいないさ。そういうことがあったって、不思議じゃない」
軽んじるでもない、慈母のような笑みを見て、佳蓮は続けた。
「……オルガノさん。あの、私、いっていないことがあって」
「いいよ。無理にいわなくても」
穏やかなオルガノの言葉に、佳蓮は会話を続けることを一瞬ためらった。
「私、呪われているのかもしれません」
「どうしてそう思うんだい?」
「年を取らないし……生きているのか、死んでいるのか、もうよく判らないんです」
「生きていなけりゃ、なんだっていうんだい?」
「幽霊」
大真面目に呟く佳蓮を見て、オルガノは
「こんなに暖かな頬をして、死者だなんて馬鹿をいっちゃいけないよ」
「でも……」
「盲いた瞳でも、クレハはまばゆいくらいに、輝いていると判るよ。傍にいると、日射しに照らされているように、暖かいからね」
「ッ……」
真っ暗な心の中に、小さな明かりが灯る。嗚咽を堪える佳蓮の背中を、オルガノは優しく撫でた。
「人も草花と一緒さ。大地に根づいて生きていくんだ。冷たい霜が降りても、春がくれば芽吹いて花をつける。拠り所があれば、何度でも再生できるんだよ」
暖かな手に撫でられると、説明しようのない郷愁に襲われた。遠い故郷を想い、レインジールを想い、静かに涙を流す佳蓮の頭を、オルガノは優しく包みこんだ。
「クレハさえよければ、いつまでもここにいていいんだよ」
「ありがとう、ありがとう、オルガノさん。ごめんなさい……ッ……」
この優しい女性は、きっと佳蓮の正体に気付ている。承知した上で、ここにいていいといってくれているのだ。
いつかは明かさねばならないだろう。でも、あともう少しだけ……流星の女神ではなく、流れ者の佳蓮としてここにいたかった。