奇跡のように美しい人
3章:決意 - 9 -
群青の夜に、幸をもたらす流星が走った。
女神の御印だ。
工房で星詠の統計をまとめていたレインジールは、天文鏡から視線を外して、息を吐いた。
佳蓮が塔を去ってから、もう三年になる。
いつもと変わらない星空のはずが、あの夜から精彩を欠いて見えてしまう。星屑を散りばめた闇の帳 が、虚ろな闇のようだ。
窓硝子に映りこむ己の顔は、味気ない夜空よりも更に酷かった。色の薄い真っ直ぐな髪、没個性の、石膏のように白い細面に、通った鼻筋。こんな顔を始終見せられたら、どんな女も眉を顰めるだろう。
でも、佳蓮は違った。
彗星の赫 きを纏う女神は、決してそんな素振りは見せなかった。奇跡のように美しく、優しい女
だった。
この髪に躊躇いもなく触れて、日向に咲いたような笑みをくれた。
女神の美しさを口にする度に、困ったような顔をされたけれど、どんな星よりも煌めいて、まさしく月光のような人だった。
降るような満点の星空を仰いで、想う。彼女も同じ空を見ているのだろうか……
「長官」
淡々とした声に我に返った。振り向くと、書類を手にリグレットがやってきた。
「浮かない顔ですね」
「大きなお世話です。なんです、そんなもの明日で良いでしょう」
文句を垂れると、リグレットは小さく笑った。
「傍を通ったものですから。星詠の成果はありましたか?」
「いいえ。いつもと同じです」
息を吐くと、リグレットは面白がるような顔をした。
「若き天才もそうしていると、只の恋する男ですね」
「悪いですか?」
「いいえ。素晴らしいことだと思いますよ」
「心にもないことを。不平があるという顔をしていますよ」
「長官をここまで骨抜きにするとは恐ろしい。あの方は、神秘であり魔性だ」
咎めるようにレインジールは睨んだが、否定はしなかった。
彼女の為に身を投げ出す者の名を挙げていけば、夜が明けるだろう。
そこら中に熱烈な信奉者がいるのだ。あのシリウスですら心を奪われている。佳蓮がその気になれば、この国を影から操ることなど造作もないだろう。
「奇跡のような女 ですから……」
左手に刻まれた流星痕を撫でながら、レインジールは呟いた。片翼の形をしていた流星痕は、今では完全な双翼をしている。
「聖杯は、まだ満ちないのですか?」
成長しきった流星痕を見て、リグレットはいった。
「私は間に合わないでしょう」
「……ハスミ様に知らせないのですか?」
「苦しめるだけです」
彼女の幸せだけを希 って、どうにかぎりぎりのところで手放せたのだ。
「長官は、それでいいのですか?」
「私のことはいい。あの人が、笑ってくれるのなら何でもします」
「自分がどうなっても?」
「愚問です。私は聖杯契約者ですよ」
この手で幸せにできないとしても、残りの生を侘しく一人で過ごすことになろうとも、どこかで笑っていてくれるのなら、それでいい。胸が張り裂けそうなほど苦しくても、己の感傷より、佳蓮の方が遥かに大切だった。
「盲目な若者に、何をいっても無駄ですね。恋愛と悲劇は、昔から紙一重と相場が決まっているのでしょうか」
「恋をすれば、貴方にも判ります」
「おや、私には判らないと?」
冷静な眼差しの奥に、秘めた想いが覗いていた。淡々とした男の垣間見せた表情に、仄かな嫉妬を覚えた。
「リグレット……」
「ふ。彼女に惹かれない男が、この世にいるでしょうか。そんな顔をするくせに、よく手放せましたね」
からかう口調だが、声には崇拝の響きが滲んでいた。気分が悪くなって顔を背けると、面白がるような笑声が聞こえた。
「心配せずとも、明かすつもりはありません」
「当たり前です。佳蓮に迫るような真似をしてご覧なさい。この身が朽ちたとしても、八つ裂きにしてやりますからね」
「怖い怖い。実現できそうなところが……」
不機嫌そうに口を噤むレインジールを見て、リグレットはふと瞳を和ませた。
「これでも、心配しているんですよ」
「お構いなく」
「後継も決めていないのに、貴方がいなくなったらどうするのです?」
にっこりと笑うレインジールを、リグレットは心底嫌そうな瞳で見た。
「まさか……私を当てにしないでくださいよ。オルガノ様のように、隠居するのが長年の夢なんですからね」
「夢を持つのは自由ですよ」
清々しい笑みを向けると、リグレットは嫌そうな顔をした。
ささやかな仕返しに満足しながら、彼の語る夢も悪くないと頭の片隅に思った。佳蓮がいなければ、レインジールも最終的にはそうしていただろう。いつか、師の軌跡を辿るように、辺境の土地に雲隠れしていたかもしれない。
「会いにいかなくて、いいのですか?」
「オルガノ様が傍にいてくださるなら、心配は要りません」
「それで、彼女は幸せといえるのでしょうか?」
「あの人は、もう充分に自分を責めて、傷ついているんです。これ以上苦しめたくありません」
「ハスミ様は聖杯契約の末路を知らないのでしょう。後から知れば、傷つくと思いますよ」
「最後まで明かすつもりはありません。リグレットも、余計な真似をしないでくださいよ」
「いいませんよ。ですがね、どっちにしても、長官がいなくなればハスミ様は哀しみますよ」
「……それだけが心残りです。オルガノ様には話してあります。リグレットも、佳蓮を支えてあげてください」
「はぁ……長官も報われませんねぇ」
レインジールは微笑んだ。
「一生に一度の恋をしました。もう充分、報われていますよ」
一瞬、リグレットは歯痒そうな顔をしたが、何もいわずに部屋を出ていった。
女神の御印だ。
工房で星詠の統計をまとめていたレインジールは、天文鏡から視線を外して、息を吐いた。
佳蓮が塔を去ってから、もう三年になる。
いつもと変わらない星空のはずが、あの夜から精彩を欠いて見えてしまう。星屑を散りばめた闇の
窓硝子に映りこむ己の顔は、味気ない夜空よりも更に酷かった。色の薄い真っ直ぐな髪、没個性の、石膏のように白い細面に、通った鼻筋。こんな顔を始終見せられたら、どんな女も眉を顰めるだろう。
でも、佳蓮は違った。
彗星の
この髪に躊躇いもなく触れて、日向に咲いたような笑みをくれた。
女神の美しさを口にする度に、困ったような顔をされたけれど、どんな星よりも煌めいて、まさしく月光のような人だった。
降るような満点の星空を仰いで、想う。彼女も同じ空を見ているのだろうか……
「長官」
淡々とした声に我に返った。振り向くと、書類を手にリグレットがやってきた。
「浮かない顔ですね」
「大きなお世話です。なんです、そんなもの明日で良いでしょう」
文句を垂れると、リグレットは小さく笑った。
「傍を通ったものですから。星詠の成果はありましたか?」
「いいえ。いつもと同じです」
息を吐くと、リグレットは面白がるような顔をした。
「若き天才もそうしていると、只の恋する男ですね」
「悪いですか?」
「いいえ。素晴らしいことだと思いますよ」
「心にもないことを。不平があるという顔をしていますよ」
「長官をここまで骨抜きにするとは恐ろしい。あの方は、神秘であり魔性だ」
咎めるようにレインジールは睨んだが、否定はしなかった。
彼女の為に身を投げ出す者の名を挙げていけば、夜が明けるだろう。
そこら中に熱烈な信奉者がいるのだ。あのシリウスですら心を奪われている。佳蓮がその気になれば、この国を影から操ることなど造作もないだろう。
「奇跡のような
左手に刻まれた流星痕を撫でながら、レインジールは呟いた。片翼の形をしていた流星痕は、今では完全な双翼をしている。
「聖杯は、まだ満ちないのですか?」
成長しきった流星痕を見て、リグレットはいった。
「私は間に合わないでしょう」
「……ハスミ様に知らせないのですか?」
「苦しめるだけです」
彼女の幸せだけを
「長官は、それでいいのですか?」
「私のことはいい。あの人が、笑ってくれるのなら何でもします」
「自分がどうなっても?」
「愚問です。私は聖杯契約者ですよ」
この手で幸せにできないとしても、残りの生を侘しく一人で過ごすことになろうとも、どこかで笑っていてくれるのなら、それでいい。胸が張り裂けそうなほど苦しくても、己の感傷より、佳蓮の方が遥かに大切だった。
「盲目な若者に、何をいっても無駄ですね。恋愛と悲劇は、昔から紙一重と相場が決まっているのでしょうか」
「恋をすれば、貴方にも判ります」
「おや、私には判らないと?」
冷静な眼差しの奥に、秘めた想いが覗いていた。淡々とした男の垣間見せた表情に、仄かな嫉妬を覚えた。
「リグレット……」
「ふ。彼女に惹かれない男が、この世にいるでしょうか。そんな顔をするくせに、よく手放せましたね」
からかう口調だが、声には崇拝の響きが滲んでいた。気分が悪くなって顔を背けると、面白がるような笑声が聞こえた。
「心配せずとも、明かすつもりはありません」
「当たり前です。佳蓮に迫るような真似をしてご覧なさい。この身が朽ちたとしても、八つ裂きにしてやりますからね」
「怖い怖い。実現できそうなところが……」
不機嫌そうに口を噤むレインジールを見て、リグレットはふと瞳を和ませた。
「これでも、心配しているんですよ」
「お構いなく」
「後継も決めていないのに、貴方がいなくなったらどうするのです?」
にっこりと笑うレインジールを、リグレットは心底嫌そうな瞳で見た。
「まさか……私を当てにしないでくださいよ。オルガノ様のように、隠居するのが長年の夢なんですからね」
「夢を持つのは自由ですよ」
清々しい笑みを向けると、リグレットは嫌そうな顔をした。
ささやかな仕返しに満足しながら、彼の語る夢も悪くないと頭の片隅に思った。佳蓮がいなければ、レインジールも最終的にはそうしていただろう。いつか、師の軌跡を辿るように、辺境の土地に雲隠れしていたかもしれない。
「会いにいかなくて、いいのですか?」
「オルガノ様が傍にいてくださるなら、心配は要りません」
「それで、彼女は幸せといえるのでしょうか?」
「あの人は、もう充分に自分を責めて、傷ついているんです。これ以上苦しめたくありません」
「ハスミ様は聖杯契約の末路を知らないのでしょう。後から知れば、傷つくと思いますよ」
「最後まで明かすつもりはありません。リグレットも、余計な真似をしないでくださいよ」
「いいませんよ。ですがね、どっちにしても、長官がいなくなればハスミ様は哀しみますよ」
「……それだけが心残りです。オルガノ様には話してあります。リグレットも、佳蓮を支えてあげてください」
「はぁ……長官も報われませんねぇ」
レインジールは微笑んだ。
「一生に一度の恋をしました。もう充分、報われていますよ」
一瞬、リグレットは歯痒そうな顔をしたが、何もいわずに部屋を出ていった。