奇跡のように美しい人
3章:決意 - 10 -
工房で一人になると、窓辺に寄り、夜空を見上げた。
星の瞬く天空を眺めて、佳蓮を想う。
黒石英を溶かしたような瞳。豊かな黒髪。まろい頬。艶やかな唇……見る者を魅了する笑顔。
時々、佳蓮は自分の笑顔が気に入らないなんていうけれど、おかしな話だ。最高に魅力的な笑顔なのに。
彼女が笑っていると、世界が輝いて見える。息をすることも忘れて、ただ惚けたように見つめてしまう。彼女さえよければ、一日中だって見ていられるだろう。
月明かりを浴びて、つつましやかに伏せられた瞼。
一つ一つの仕草が可憐で、眼で追わずにはいられない。暖かく、優しく、天真爛漫な女神。
あの遠い十二月。
数えきれぬ夜の涯 てに、流星の女神は天空から舞い降りた。
ひと眼で心を奪われた。
全身の血が沸騰して、冷めた心に忽 ち火を灯したのだ。これまでに経験のない、熾烈 な感情が芽生えた。
初めて交わした視線を忘れない。
神秘的な黒い瞳は、レインジールを映して煌めいていた。
斜陽を浴びて、まろやかな肢体を鹿毛 色に縁どられていた女神。
信じられないほど魅惑的で、幼心ながら眩暈を覚えたものだ。
柔らかい手に、唇で触れる甘美なひととき。抑制の利かない衝動というものを、生まれて初めて知った。
どうしようもないほど心臓が高鳴り、その日はとても眠れなかった。
初恋だった。
彼女の一挙一動に、感情を激しく揺さぶられた。
澄んだ黒石英の瞳に映るだけで至福を味わえる日もあれば、視線をもらえずに憂鬱になったり、他の誰かに笑みかける姿に酷く嫉妬する日もあった。
それでも、佳蓮は他の誰よりもレインジールを気にかけてくれて、外出する際は傍から放そうとしなかった。
家族を立て続けに喪い、家督を継ぐと共に、星詠長官の後継に任命され、自分でも早熟な人生を歩んでいると思っていたが、そうではなかった。
恋を知り、魂の躍動と同じ分だけの苦しみを知り、本当の意味で自分はもう何も知らぬ少年ではないのだと自覚した。
当時、佳蓮はレインジールよりも遥かに大人の女性で、追いつけない背の高さや年齢は、二人の間に横たわる巨大な海溝そのものだった。
振り向いてもらえることを、最初から諦めていた。
彼女に出会ってから、毎日が新鮮で、佳蓮の新たな側面を知る度に喜びがあった。
時々、全身鏡の前に立ち、私、綺麗? ……と不安そうな顔で女神は訊 ねる。
あの問いだけは、今でも訊ねる理由が全く判らない。
着飾らなくても、特別な演出がなくても、そのままの佳蓮で、奇跡のように美しいというのに。
絶世の美女には、奔放だけれど無垢、大胆だけれど臆病、溌剌としているが繊細……相反するものが同居しており、瑞々しい美しさからは計り知れない深淵さを秘めていた。
退廃的な美しさを併せ持つ難しい女 ではあるが、そうした複雑さこそ、彼女の所以であり、情熱的で幽幻的な魅力なのだ。
黒曜の瞳を煌めかせて、レインジールに“あなたは綺麗”と笑いかけてくれる。暖かな眼差しに偽りない、心からそう思っているのだと、レインジールに教えてくれた。
寂しさを癒し、生きる喜びを教えてくれた。あんなに素晴らしい女 は、世界中のどこを探したっていやしないだろう。
最愛の人。
我が命の全て。
許されるのなら、いつまでも傍にいたい。
願わくば、唇を許して欲しいけれど……天にも昇る心地でいられるから。
盲目的に恋をするレインジールを、佳蓮は優しい瞳で見ていたけれど、どこか侮っていて、悪戯な子猫のように頬や額に口づけることがあった。それだけで、飛び回りたいほどの歓喜に襲われていたレインジールは、やはり子供だったのだろう。
頬に触れる柔らかな唇の感触を思い出す度に、心が震えて、身体が熱くなる。
残酷で美しい女神は、思わせぶりな態度でレインジールを燃え上がらせる時もあれば、急に人が変わったように冷たくなり、傍へ寄せつけないこともあった。心を飛ばして、一切視界に映さない日が、永遠のように続く日もあった。
清廉無垢で奔放な佳蓮は、愛されることを望み、同じ分だけ、愛されることを恐れてもいた。
十二歳。
未熟な身体が大人に近付くにつれて、葛藤は強くなっていく。
夢の中で佳蓮をかき抱き、甘い唇に何度も口づけた。
匂い立つ香りに陶酔して、まろく柔らかな身体に欲が疼く。夜に想うだけで、熱が滾 るのだ。
敬愛すべき女神に、初めて劣情を催した時には、己のあまりの矮小さに項垂れた。
十五歳になると、殆ど毎晩のように苛 まれるようになった。
想いは募り――
十七歳になると、抑えきれない想いがとうとう溢れて、夢の中のように、甘美な唇を貪った。
塔を出ていくことを許可したのは、佳蓮の強い意志と、聖杯の懸念もそうだが、堰き止めている理性が崩れる前に旅立って欲しかった事情もある。
日々強くなる想いをもてあまし、そう遠くない未来に、刹那的な衝動に負けて、強引に奪ってしまいそうだった。
九杯も空けたが、まだ酔えない。
窓を開くと、冷えた夜が流れこんできた。火照った肌に、冷たい空気が心地よい。
叶うことなら、いつまでも佳蓮の傍にいたいが、彼女との時間は有限で、レインジールに残された時間はもう長くはない。
何百、何千、何万回と星詠みを繰り返したが、絶望的な未来しか視えなかった。
佳蓮は、刻限までに聖杯を満たせない。
時が満ちれば、レインジールは消滅する。この身を燃焼して、佳蓮の糧となれるのなら本望だ。
ただ、佳蓮の涙を想うと辛い……
最後まで、流星痕の真実を明かさなかった。この先も、知る必要のないことだ。
レインジールの死を、佳蓮は悼んでくれるだろう。その感情は佳蓮を揺さぶり、きっと心の芯にまで響く。
その時こそ、聖杯は満ちる。
堰き止められていた時間も、大洋に向かって流れていくだろう。
彼女は、うてなをひらいて、月光すら魅了する蓮の花だ。花開く姿は、どれほど美しいのだろう? どんな風に、年を重ねていくのだろう?
想像するだけで、涙が溢れそうになる。
傍で見ていたいけれど……
隣にレインジールがいなくても、彼女が笑っていてくれるのなら、それでいい。
一生に一度の恋をした。
愛する喜びを教えてくれた。人生の素晴らしさを教えてくれた。それで十分だ。
澄んだ黒石英の瞳に、永遠に焦がれている。恋い慕う姿を夜空に想い描き、囁いた。
「佳蓮、愛しています……」
星の瞬く天空を眺めて、佳蓮を想う。
黒石英を溶かしたような瞳。豊かな黒髪。まろい頬。艶やかな唇……見る者を魅了する笑顔。
時々、佳蓮は自分の笑顔が気に入らないなんていうけれど、おかしな話だ。最高に魅力的な笑顔なのに。
彼女が笑っていると、世界が輝いて見える。息をすることも忘れて、ただ惚けたように見つめてしまう。彼女さえよければ、一日中だって見ていられるだろう。
月明かりを浴びて、つつましやかに伏せられた瞼。
一つ一つの仕草が可憐で、眼で追わずにはいられない。暖かく、優しく、天真爛漫な女神。
あの遠い十二月。
数えきれぬ夜の
ひと眼で心を奪われた。
全身の血が沸騰して、冷めた心に
初めて交わした視線を忘れない。
神秘的な黒い瞳は、レインジールを映して煌めいていた。
斜陽を浴びて、まろやかな肢体を
信じられないほど魅惑的で、幼心ながら眩暈を覚えたものだ。
柔らかい手に、唇で触れる甘美なひととき。抑制の利かない衝動というものを、生まれて初めて知った。
どうしようもないほど心臓が高鳴り、その日はとても眠れなかった。
初恋だった。
彼女の一挙一動に、感情を激しく揺さぶられた。
澄んだ黒石英の瞳に映るだけで至福を味わえる日もあれば、視線をもらえずに憂鬱になったり、他の誰かに笑みかける姿に酷く嫉妬する日もあった。
それでも、佳蓮は他の誰よりもレインジールを気にかけてくれて、外出する際は傍から放そうとしなかった。
家族を立て続けに喪い、家督を継ぐと共に、星詠長官の後継に任命され、自分でも早熟な人生を歩んでいると思っていたが、そうではなかった。
恋を知り、魂の躍動と同じ分だけの苦しみを知り、本当の意味で自分はもう何も知らぬ少年ではないのだと自覚した。
当時、佳蓮はレインジールよりも遥かに大人の女性で、追いつけない背の高さや年齢は、二人の間に横たわる巨大な海溝そのものだった。
振り向いてもらえることを、最初から諦めていた。
彼女に出会ってから、毎日が新鮮で、佳蓮の新たな側面を知る度に喜びがあった。
時々、全身鏡の前に立ち、私、綺麗? ……と不安そうな顔で女神は
あの問いだけは、今でも訊ねる理由が全く判らない。
着飾らなくても、特別な演出がなくても、そのままの佳蓮で、奇跡のように美しいというのに。
絶世の美女には、奔放だけれど無垢、大胆だけれど臆病、溌剌としているが繊細……相反するものが同居しており、瑞々しい美しさからは計り知れない深淵さを秘めていた。
退廃的な美しさを併せ持つ難しい
黒曜の瞳を煌めかせて、レインジールに“あなたは綺麗”と笑いかけてくれる。暖かな眼差しに偽りない、心からそう思っているのだと、レインジールに教えてくれた。
寂しさを癒し、生きる喜びを教えてくれた。あんなに素晴らしい
最愛の人。
我が命の全て。
許されるのなら、いつまでも傍にいたい。
願わくば、唇を許して欲しいけれど……天にも昇る心地でいられるから。
盲目的に恋をするレインジールを、佳蓮は優しい瞳で見ていたけれど、どこか侮っていて、悪戯な子猫のように頬や額に口づけることがあった。それだけで、飛び回りたいほどの歓喜に襲われていたレインジールは、やはり子供だったのだろう。
頬に触れる柔らかな唇の感触を思い出す度に、心が震えて、身体が熱くなる。
残酷で美しい女神は、思わせぶりな態度でレインジールを燃え上がらせる時もあれば、急に人が変わったように冷たくなり、傍へ寄せつけないこともあった。心を飛ばして、一切視界に映さない日が、永遠のように続く日もあった。
清廉無垢で奔放な佳蓮は、愛されることを望み、同じ分だけ、愛されることを恐れてもいた。
十二歳。
未熟な身体が大人に近付くにつれて、葛藤は強くなっていく。
夢の中で佳蓮をかき抱き、甘い唇に何度も口づけた。
匂い立つ香りに陶酔して、まろく柔らかな身体に欲が疼く。夜に想うだけで、熱が
敬愛すべき女神に、初めて劣情を催した時には、己のあまりの矮小さに項垂れた。
十五歳になると、殆ど毎晩のように
想いは募り――
十七歳になると、抑えきれない想いがとうとう溢れて、夢の中のように、甘美な唇を貪った。
塔を出ていくことを許可したのは、佳蓮の強い意志と、聖杯の懸念もそうだが、堰き止めている理性が崩れる前に旅立って欲しかった事情もある。
日々強くなる想いをもてあまし、そう遠くない未来に、刹那的な衝動に負けて、強引に奪ってしまいそうだった。
九杯も空けたが、まだ酔えない。
窓を開くと、冷えた夜が流れこんできた。火照った肌に、冷たい空気が心地よい。
叶うことなら、いつまでも佳蓮の傍にいたいが、彼女との時間は有限で、レインジールに残された時間はもう長くはない。
何百、何千、何万回と星詠みを繰り返したが、絶望的な未来しか視えなかった。
佳蓮は、刻限までに聖杯を満たせない。
時が満ちれば、レインジールは消滅する。この身を燃焼して、佳蓮の糧となれるのなら本望だ。
ただ、佳蓮の涙を想うと辛い……
最後まで、流星痕の真実を明かさなかった。この先も、知る必要のないことだ。
レインジールの死を、佳蓮は悼んでくれるだろう。その感情は佳蓮を揺さぶり、きっと心の芯にまで響く。
その時こそ、聖杯は満ちる。
堰き止められていた時間も、大洋に向かって流れていくだろう。
彼女は、うてなをひらいて、月光すら魅了する蓮の花だ。花開く姿は、どれほど美しいのだろう? どんな風に、年を重ねていくのだろう?
想像するだけで、涙が溢れそうになる。
傍で見ていたいけれど……
隣にレインジールがいなくても、彼女が笑っていてくれるのなら、それでいい。
一生に一度の恋をした。
愛する喜びを教えてくれた。人生の素晴らしさを教えてくれた。それで十分だ。
澄んだ黒石英の瞳に、永遠に焦がれている。恋い慕う姿を夜空に想い描き、囁いた。
「佳蓮、愛しています……」