奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 1 -

 夕星ゆうずつの瞬く、昏れなずみ。
 去りゆく秋を窓辺で見つめながら、佳蓮はレインジールに手紙を書いていた。
 塔を出て、もう三年になる。
 こうして、時々手紙は書いているものの、本人には一度も会っていない。何度も帰ろうと思ったけれど、なかなか決心がつかなかった。
 レインジールはもう二十歳の青年だ。
 佳蓮の居場所は知っているはずのに、三年の間、彼は一度も会いにこようとはしなかった。
 日が経つにつれて、レインジールから届く手紙は事務的な内容になり、彼の心には別の女性がいるのかもしれない。そんな不安を覚えるようになった。
 自分の世界を拡げて欲しいだなんて、どの口がいったのだろう。
 彼の心変わりが怖い。次に顔を合わせた時、何をいわれるのか恐れて、帰郷を先延ばしにしている気がする。
 今となっては、聖杯契約だけが二人を繋ぎ留めている絆だが、そう思っているのは佳蓮だけかもしれない。
 筆を取ったはがいいが、遅々として進まない。筆先のインクはとうに渇いてしまった。
 時計塔に帰ります――その一言がなかなかいえない。どうしても躊躇ってしまう。
 筆をインク壺に入れようとして、ふと手が透けていることに気がついた。

「え――」

 ありえない。向こうの景色が透けて見える。
 透けた手をめつすがめつ眺めていると、暖かな手に背中を撫でられた。

「オルガノさん……」

「いけないよ」

 まるで眼が見えているかのように、オルガノは正確な手つきで佳蓮の手を取った。銀色の瞳で、半透明の手をじっと見つめる。

「あの……手が透けて……?」

「あと少しなんだろうけどねぇ」

「え?」

「佳蓮。もう、お帰り」

 名前を呼ばれて、佳蓮は絶句した。
 これまでずっと、クレハと呼ばれてきた。佳蓮の正体に薄々気付いているであろうオルガノは、これまでに一度も佳蓮とは呼ばなかったのだ。

「黙っていて悪かったね。いい加減白状するよ。あたしは、星詠機関の元長官で、レインジールは私が育てた後継なんだ」

「え……えぇッ!?」

「驚いたかい?」

 悪戯が成功したかのような口ぶりだったので、一瞬、冗談かと思った。

「え、本当に?」

「本当だよ。知らないふりをして、悪かったね。偽名を使うから、素性を知られたくないのかと思ったんだよ」

「レインの話していた前任者って、まさかオルガノさん!?」

「そうだよ」

「あっ、だからレインの工房は、ここと雰囲気が似て……?」

「あの工房は、長いこと私が好きに使っていたからね。あの子に紅茶の煎れ方を教えたもの、私なんだよ」

「あぁ! だから……」

 なるほど。オルガノの煎れてくれる紅茶は、確かにレインジールの煎れてくれる紅茶の味によく似ている。

「え、ていうか、オルガノさんはレインと同じ魔導師なんですか?」

「そうだよ。これでも国一番の魔導師でね。最前線で妖魔討伐の指揮を執っていたこともあるよ」

「オルガノさんが?」

 もしかして、眼は戦いで傷ついたのだろうか。疑問を読んだように、オルガノは微笑んだ。

「この眼は、生まれつきだよ。可視光は見えないが、霊気は人より眼が利くんで、不便はないよ」

「いつから気付いていたんですか? 私のこと……」

「最初からだね。神々しい霊気を纏った、全身ずぶ濡れの佳蓮を、レインジールがここへ連れてきたんだ」

「レインが!?」

「そうだよ」

 嵐に向かって叫んだ夜。意識を失う瞬間、暖かな腕に抱きとめられたことを覚えている。あれは彼女の自動人形ではなく、レインジールだったのか。

「やっぱり、レインは全部知っているんだ」

 知っていて、佳蓮に会いにこようとしないのか。

「聖杯契約があるからね。佳蓮も繋がっている感覚はあるだろう?」

「はい……」

「いい子だから、もうお帰り。このままだと、二度と会えなくなるよ」

 幼子にいい聞かせるような口調で、オルガノは俯く佳蓮の頭に手を乗せた。皺の浮いた手が、優しく黒髪を撫でる。

「会うのが怖い……」

「あの子は、佳蓮をいつまでだって待っているよ。でもね、それは砂時計の砂が落ちる間までなのさ」

「はい……もう、オルガノさんに会えないのかな」

「私にはいつでも会えるけど、レインには会えなくなるよ」

 それはどういう意味だろう……答えを探すように、佳蓮はオルガノの白に近い銀色の瞳を見つめた。