奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 3 -

 泣き疲れて眠ってしまった佳蓮は、朝まだきに眼を醒ました。
 空はまだ暗かったが、厚手のストールを羽織って外に出た。水平線を臨める崖に向かって歩いていく。
 切り立った崖上には、空の半分だけ雨雲が重たくのしかかり、不思議な明暗をかもしていた。
 少しずつ、空の裳裾が色づいていく。
 水平線の彼方から、巨大な金属盤を巻き上げるようにして、朝陽がゆっくりと昇る。
 清らかな陽射しを浴びながら、心を決めた。

 時計塔へ還ろう。

 レインジールに会いにいこう。
 強い風が吹いて身体が傾いだ。唐突に腰に回された腕に、心臓が口から飛び出しそうなほど驚いた。

「なんて所に立っているのですか」

「レイン!?」

 幻聴かと思った。信じられない想いで振り向くと、強張った顔のレインジールがいた。

「どうして、こんな危ない場所に一人できたのですか?」

「え……」

 続く言葉が出てこない。あまりにもタイミングが良すぎて、佳蓮の願望が見せる幻なんじゃないかと疑ってしまう。

「聞いているのですか?」

「……久しぶり」

「久しぶり、じゃないでしょう」

 最後に見た時から少しもかげらぬ、いっそう冴え渡るような美貌が、呆れたようにいう。
 大人びた顔の輪郭に、流れた月日を思う。
 夢にまで見た青い瞳が、佳蓮を映して細められる。胸がいっぱいになり、あっという間に視界が潤んだ。慌てて瞳を瞬いたが、涙は雫となって零れ落ちた。

「佳蓮」

 美しい顔が、涙でぼやける。恐る恐る両手を伸ばすと、レインジールは苦しげな表情を浮かべて、佳蓮を抱きしめた。

「佳蓮。自分を責めないで」

「ごめんなさい」

「貴方が謝ることは、何一つないんです」

「ごめんッ」

 その先は、言葉にならなかった。むせび泣く佳蓮を、レインジールは何もいわずに抱きしめた。

「ずっと、ずっと、会いたかった」

 どうにか呟くと、私もです、と切なそうにレインジールは呟いた。愛おしそうに佳蓮の頭を撫でて、赤くなった瞼にキスをする。
 優しい慰めに、とめどなく涙が溢れた。
 どうして、この人はこんなにも優しいのだろう。
 自分勝手に塔を飛び出した佳蓮を、少しも責めずに、暖かな胸の中に抱きとろうとする。

「私が聖杯の役目を終える時まで、傍にいくれますか?」

 いつまで、一緒にいられるのだろう。不安な気持ちを読んだように、レインジールは微笑んだ。

「大丈夫。貴方を死なせはしない。その為に、私がいるんです」

「少しも大丈夫じゃないよッ」

 声を詰まらせる佳蓮を、レインジールは愛おしそうに見下ろした。包み込むように抱きしめる。
 押し当てた頬に、少し速いレインジールの鼓動が伝わってきた。どうしようもなく、切ない気持ちにさせられる。

「どうすればいいの? 私にできることはないの?」

「傍にいてください」

「いる。一緒にいよう。もう離れたくないッ」

 この決断をくだす為に、この世界に降りたのかもしれない。あの夜から始まった悲劇に、ようやく一つの答えを出せた気がした。
 胸に縋りついて請うと、レインジールは堪らない、という顔をした。佳蓮の指先を優しくとり、恭しく唇を落とす。

「もう限界です。今度、貴方がどこかへいってしまったら、私は何をしでかすか判らない」

「離れないよ。私はレインに会う為に、この世界へきたんだもの」

 レインジールは小さく息を呑んだ。
 瞳を閉じて、佳蓮は胸に頬を押し当てた。早鐘を打つ鼓動を聞きながら、広い背中に腕を回す。

「ずっと待っていたよ。もっと早く、会いにきてくれたら良かったのに」

 佳蓮の腕をそっと外すと、レインジールはその手を白皙の頬に押し当てた。

「私を遠ざけたのは、貴方でしょう」

「……うん」

「いえ、責めるつもりはありません。私の問題です。会えばもう、二度と離れられないと判っていました。次に拒まれたら、貴方を閉じ込めてしまいそうで怖かったのです」

 佳蓮は首を左右に振った。

「私も、やっと判った。レインが好き。心変わりしていないか、ずっと心配だった」

 青い瞳を覗きこんで告げると、花開くように、レインジールは表情を綻ばせた。

「やっといいましたね」

「もう離れるのは嫌。一緒にいる方がいい!」

「……想像以上に嬉しいものですね。ここへくるまでの間、懸念しかなかったのですが、今はただ嬉しい」

 頬を撫でる手に、そっと手を重ねて持ち上げる。左手の甲には、朱金の双翼が刻まれていた。翼は開きり、今にも飛んでいきそうだ。

「私にできることがあるなら、何でもする。お願いだよ、死んじゃやだッ」

 頬を涙が伝う。顔を両手で覆う佳蓮の頭を、レインジールは引き寄せた。

「泣かないで、佳蓮」

「聖杯契約を解くことはできないの?」

「……できません。魂に刻んだ誓いです」

「どうしても? なんか方法はないの?」

 レインジールは緩く首を振った。

「ありません。お願いです、どうか苦しまないでください。私は少しの後悔も、恐怖もないのです。ただ、佳蓮の負担になることだけが恐ろしい」

「でも、怖くてたまらないよ。一人にしないで。私も連れていってよッ」

 頬を大きな掌に包まれて、上向かされた。狂おしい光を讃えた青い瞳に、涙に濡れた佳蓮が映っている。

「今すぐ消えるわけではありません。明日も明後日も、佳蓮と一緒に過ごせます」

 顔中に優しいキスが雨と降る。濡れた瞼、熱を持った頬、鼻の頭、唇にも……

「お願いです、泣かないで。今悲しむのはやめましょう?」

 そういうレインジールこそ、泣きそうな顔をしている。涙を拭って、どうにか笑みをこしらえると、レインジールもほっとしたように微笑んだ。

「ここにては、風邪を引いてしまいます。オルガノ様のところに戻りましょう」

「うん……」

 腰を力強い腕に支えられて、佳蓮は大人しく従った。
 道すがら沈んだ空気でいたが、屋敷に戻り、楽しそうにしているオルガノの顔を見ると、二人して肩から力を抜いた。

「不器用な男だと思っていたけど、レインジールもなかなかやるじゃないか。流星の女神の心を、本当に射止めるとはね!」

「オルガノ様……」

「でも、まだまだ女心が判っちゃいないよ。私に感謝するんだね」

 反論もせず、黙って席につくレインジールを見て、佳蓮は新鮮な気持ちを味わった。冷静で明晰なレインジールも、オルガノの前では年相応の若者に見える。

「これを飲んで、二人でアディールにお帰り」

「はい。ありがとう、オルガノさん……」

 優しい紅茶の味に、涙が溢れた。オルガノの傍は居心地が良かった。彼女がいなければ、レインジールのいない月日を耐えられなかっただろう。

「また、会いにきてもいいですか?」

 涙声で訊ねると、オルガノは破顔した。佳蓮の頭を優しく撫でる。

「当たり前じゃないか! 遠慮はいらないよ。いつでも遊びにおいで。待っているから」

 目尻に皺を寄せて、磊落らいらくに笑う。
 この素敵な女性に、どれほど救われたろう。佳蓮は涙に濡れた顔で笑った。