残酷少女と悪魔の団欒
残酷少女と悪魔の団欒 - 7 -
暑い昼の日射しの下、メグはシャルルと王都ルイ・ジャンに繰り出した。
日除けの外套を羽織り、暑いので仮面は外している。なにせ、水撒きされた石畳の床は、湯気が立つほどだ。
二人は都会っ子風に冷たい果実水を飲みながら、賑やかな往来、木陰の下を選んで歩いている。
ふと、オルゴールの旋律がどこからか流れてきた。
通りの向こう側、木陰の下に、ちょっとした人だかりができている。音色に惹かれた物見客が、足を止めているようだ。
「お姉様? どうかしました?」
「何かな?」
群衆を見つめたまま首を傾げると、ああ、と隣でシャルルは頷いた。
「聖堂の人間が、オルゴールを披露しているのでしょう」
「見てみたい」
興味を引かれて、メグは傍にある小路の階段を登った。
思った通り見晴らしが良い。群衆の垣根を越えて、オルゴールを奏でている様子がよく見える。
黒い、質素な修道服に身を包んだ男が、俯き加減にオルゴールの螺子を回している。
指に光る、薔薇を意匠した指輪にふと目が留まった。
異端審問官の指輪だ。
よく見れば、螺子を回しているのは、この前の晩に菓子をくれた聖職者だ。この間の晩といい、今日といい、不思議と縁がある。
優しい旋律に聴き入っていると、メグと同じ年頃の少女が二人近付いてきた。
「……あ、人がいるよ。どうする?」
「退いてもらう?」
ひそひそと喋っていた少女達は、意を決したようにメグの方へやってきた。
「あのー、ごめんね。悪いんだけど、場所を代わってくれる?」
はぁ? と言わんばかりに、メグは顔をしかめた。
すると、少女達もむっとした表情を顔に浮かべた。快諾してもらえるものと、すっかり期待していたようだ。
「そこは、いつも私達が座っているのよ」
少女達は不愉快そうに腕を組んだ。文句のネタを探すように、じろじろと不躾な視線を投げてよこす。
しかし、シャルルを見るなり小さく息を呑むと、さっと頬を赤らめた。
「わ、綺麗……」
一人が、うっとりとした表情で呟いた。
「ね、どこからきたの?」
「名前は?」
魅入られたように、代わる代わるシャルルに声をかける。途端に騒がしくなり、メグは顔をしかめた。
「静かにしてよ」
苛立ちも露に座ったまま睨み上げると、少女達も不快げに眉をひそめた。
「こんな子は放っておいて、私達と一緒に遊ばない?」
「お姉様と一緒でなければ、行きません」
「「えぇーっ?」」
つれない返事を聞いて、少女達はそろって声を上げた。その大音量に、メグの堪忍袋の緒は切れた。
「もう、静かにしてよ! 静かにできないなら、うんと怖い目に合わせてやるッ!」
少女達は、一瞬メグの剣幕に呑まれたが、すぐに険しい表情を浮かべた。応戦しようと口を開くが――
「煩い。黙って」
温厚なシャルルにしては、冷たい視線で黙らせた。
氷のような眼差しに、少女達はぴたりと口を噤む。ブリキ人形のように、ぎこちなく互いの顔を見合わせた。再びシャルルに視線を戻すと、忽 ち魔性の瞳に囚われた。
何を言おうとしたのか、開かれた唇から言葉が紡がれることはなく……琥珀の瞳から光が失われていく。
「邪魔をしないで。どこかへ行って」
「はい……」
虚ろな眼差しで、少女達は頷いた。操られたように、従順に階段を降りていく。
その背中を、メグは顎を逸らして見送った。
「シャルといると、やだな」
ふつふつとした怒りが収まらず、不機嫌そうにメグが言うと、シャルルはしょげたように肩を落とした。
「ごめんなさい。怒らないで、お姉様」
それきりメグも口を利かず、しばらくオルゴールの音色に耳を傾けた。
やがて、町は黄昏に染め上げられた。
五〇〇年の時を刻んできた、街の中心に聳える古の時計塔が、夕暮を告げる。
一日が終わろうとしている。
大道芸を楽しんだ後、街を練り歩いていたメグも、次第に疲れてきた。
そろそろ帰ろうか……
そう思ってシャルルを振り向くと、小路の奥、古びた建物の扉が開く様子に視線を奪われた。
出てきた男は、オルゴールを奏でていた、丸眼鏡の聖職者だ。
これで三度目。つくづく縁がある。
じっと見ていると、向こうもメグの視線に気付いて、軽く会釈した。
「……」
どこにでもいそうな、これといった特徴のない聖職者なのに、妙に印象に残る。なんとなく、遠ざかっていく男の背中を眺めてしまう……
「お姉様?」
なかなか動こうとしないメグを見て、シャルルは不思議そうに首を傾げた。
「あの建物、入ってみたい」
「え?」
「なんだか気になるの」
古ぼけた看板に、既視感を覚えた。どこかで見たことがあるような……悪夢を渡り歩いていた時に、見かけたのだろうか。
「でも……」
「シャルが行かないなら、私だけで行く」
意気軒昂 にメグが歩き出すと、小さなため息が落ちた。仕方なさそうに、シャルルも後ろをついてくる。
倉庫の扉上には、消えかけた文字でロワル貯蔵庫と書かれていた。今は使われていない、酒を寝かせる為の蔵のようだ。
闇が色濃くなる中、二人は寂れた蔵に押し入った。
中はしんと静まり返り、陰気な空気に満ちている。入り口から斜めに入りこむ光も途絶えると、いよいよ室内は真っ暗になった。
どこから出現させたのか、シャルルはランタンに青い明かりを灯す。
外は寂れていたが、中は意外としっかりとした造りをしている。天井も高く、十分な広さがある。横穴を覗けば、すぐにでも使えそうな葡萄しぼり機が幾つか見えた。
ひんやりとした地下道を進むと、やがて強固な鉄扉の前に辿り着いた。
「シャル」
名を呼ぶと、心得たようにシャルルは扉の前に立った。手をかざしただけで、強固な鉄は砂となって砕け落ちる。
蟠 った闇に、メグはランタンをさしむけた。
土壁の廊下が奥まで続いている。道なりに進み、少しだけ開いている扉の前で、足を止めた。
こんな場所だし、尚更、隙間を覗くのは勇気がいる。そっと、扉を手で押した。
「……ッ」
青い炎が戦慄した。
濁った血が視界に映り、メグは小さく息を呑んだ。微かに身震いするメグの手を、シャルルはしっかりと握り返す。
拘束具のついた作業机の上は、どす黒く変色しており、中央に丸い穴が開いていた。
その真下、床に置かれた盥 は空っぽだが、不気味な血痕がこびりついている。
「酷いわね……」
ここで、夥しい数の何かを、誰かが殺して処理していたのだろう。眉をしかめながら微細を観察していると、シャルルに腕を引かれた。
「お姉様、もう行きましょう」
促されるまま部屋の外へ出ると、小さな物音が鼓膜に届いた。
「今、何か」
探るように視線を投げると、シャルルの瞳が光った。暗闇の中でも、燐光を放つように蒼く仄かに輝いている。
「……子供が一人います」
「え? どこ?」
「この先を曲がった、部屋の中に」
シャルルの指差す方、メグは瞳を凝らして見つめた。暗くてよく見えないが、彼が言うからにはいるのだろう。
「気になるわ」
静止を無視して、メグは突き進んだ。
「誰かいるの?」
ランタンでは明かりが足りず、夜目の利かないメグの為に、シャルルは青白い炎を手に閃かせた。
「……ッ」
小さく息を呑む気配がした。ぼうっと照らされた闇の奥に、蹲る小さな影が見える。
「誰なの?」
「……ミハイル」
か細い声で応えた。檻の中を覗き込むと、やせっぽちの薄汚れた少年が、こちらを見ていた。
「シャル、檻を開けてあげて」
頑丈な檻の南京錠を、手を触れずにシャルルは開けた。
「君達は、誰?」
ミハイルと名乗った少年は、怯えきった眼差しで、メグとシャルルを仰いでいる。鍵は開いたのに、隅で縮こまり、檻から出てこようとしない。
「私は――」
「檻は開けたし、枷も外しました。あとは好きにすればいい。お姉様、もう行きましょう?」
名乗ろうとするのを遮り、シャルルはメグの手を引いた。
「ま、待って!」
檻の前を横切ると、ミハイルが檻を出てついてきた。
けれど、メグが後ろを振り向こうとすると、シャルルはメグの肩を抱き寄せて歩くように促す。
「待って」
「でも」
「あの子も連れていく」
「えぇ?」
シャルルは不満そうな声を上げたが、ミハイルは窺うように近付いてきた。
「あの、助けてくれて、ありがとう」
人間に感謝された。
奇妙な表情を浮かべるメグの隣で、シャルルは無関心そうにしている。
「なんでこんな所にいたの?」
「……売られて、僕を買った男が、ここに入れた。僕の他にも何人かいたんだけど、僕だけ残った」
「酷い目に合ったのね。一体、誰にやられたの?」
「……言っても、信じないと思う」
「もしかして、丸眼鏡の聖職者?」
驚いた顔をするミハイルを見て、やっぱり、とメグは冷めた笑いを浮かべた。
「外見はあてにならないって、よく知っているの」
話しているうちに、入り口に辿りついた。慎重に周囲を観察したが、男が戻ってくる気配はない。
「……帰る家はある?」
メグにしては親切に声をかけると、ミハイルは表情を曇らせた。
「えっと……」
「あるなら、近くまで送ってあげてもいいけど」
「……」
「いいけど。でも、その後はどうするの?」
虚ろな眼差しで、ミハイルは視線を彷徨わせた。憔悴しきった身体で、今にも倒れそうだ。
「一緒にいく?」
手を差し伸べると、ミハイルは呆けたようにメグを見た。顔は薄汚れているが、双眸は翡翠のように美しい。
宝石のような瞳を、密かに賞賛するメグの隣で、無関心を決め込んでいたシャルルは、むっとしたようにミハイルを睨んでいる。この展開がお気に召さないようだ。
魔性を帯びたシャルルの瞳を見て、ミハイルは慄いたように後じさった。
「シャル」
窘めるように名を呼ぶと、シャルルは不服そうにメグを見た。
「お姉様。人間なんて連れ帰って、どうするつもりですか?」
「だって、行くところないみたいだし。放っておいたら死にそうだし」
綺麗な瞳をしているし、と心の中で付け加える。ミハイルは戸惑ったように、メグとシャルルを交互に見た。
「人間って……」
「ミハイルは人間でしょ」
「君だってそうでしょう?」
「私は悪魔よ」
「え……でも」
「心配しないで。ミハイルに酷いことはしない」
メグは微笑むと、細い腕を引いてミハイルを抱きしめた。
「お姉様!」
「わ、ミハイル汚いなー。しょうがないか……」
不衛生な場所に監禁されていたミハイルは、とても汚れていた。顔も薄汚れていて、造形を判別し違いほどだ。
両腕に抱きしめると、目線は彼の方が高い。宝石のような翠瞳を丸くして、金縛りにでもあったように、メグの腕の中で大人しくしている。碌に食べ物も与えられなかったのだろう。華奢というより、病的な細さだ。
「大丈夫よ。安全な所に、連れていってあげるから」
なるべく優しく聞こえるように言うと、ミハイルは緊張の糸が切れたように、メグにもたれかかった。
「わ、わ」
こんなにやせ細った少年なのに、意識のない人間はやたら重たく感じる。
「う、重っ! シャル、早く連れていって」
「嫌です」
「なんで?」
「嫌です。お兄様達にも怒られます」
「いいから早く!」
焦れて急かすと、シャルルは珍しく悪態をつきながら、ミハイルを抱きしめたメグごと抱きしめた。
日除けの外套を羽織り、暑いので仮面は外している。なにせ、水撒きされた石畳の床は、湯気が立つほどだ。
二人は都会っ子風に冷たい果実水を飲みながら、賑やかな往来、木陰の下を選んで歩いている。
ふと、オルゴールの旋律がどこからか流れてきた。
通りの向こう側、木陰の下に、ちょっとした人だかりができている。音色に惹かれた物見客が、足を止めているようだ。
「お姉様? どうかしました?」
「何かな?」
群衆を見つめたまま首を傾げると、ああ、と隣でシャルルは頷いた。
「聖堂の人間が、オルゴールを披露しているのでしょう」
「見てみたい」
興味を引かれて、メグは傍にある小路の階段を登った。
思った通り見晴らしが良い。群衆の垣根を越えて、オルゴールを奏でている様子がよく見える。
黒い、質素な修道服に身を包んだ男が、俯き加減にオルゴールの螺子を回している。
指に光る、薔薇を意匠した指輪にふと目が留まった。
異端審問官の指輪だ。
よく見れば、螺子を回しているのは、この前の晩に菓子をくれた聖職者だ。この間の晩といい、今日といい、不思議と縁がある。
優しい旋律に聴き入っていると、メグと同じ年頃の少女が二人近付いてきた。
「……あ、人がいるよ。どうする?」
「退いてもらう?」
ひそひそと喋っていた少女達は、意を決したようにメグの方へやってきた。
「あのー、ごめんね。悪いんだけど、場所を代わってくれる?」
はぁ? と言わんばかりに、メグは顔をしかめた。
すると、少女達もむっとした表情を顔に浮かべた。快諾してもらえるものと、すっかり期待していたようだ。
「そこは、いつも私達が座っているのよ」
少女達は不愉快そうに腕を組んだ。文句のネタを探すように、じろじろと不躾な視線を投げてよこす。
しかし、シャルルを見るなり小さく息を呑むと、さっと頬を赤らめた。
「わ、綺麗……」
一人が、うっとりとした表情で呟いた。
「ね、どこからきたの?」
「名前は?」
魅入られたように、代わる代わるシャルルに声をかける。途端に騒がしくなり、メグは顔をしかめた。
「静かにしてよ」
苛立ちも露に座ったまま睨み上げると、少女達も不快げに眉をひそめた。
「こんな子は放っておいて、私達と一緒に遊ばない?」
「お姉様と一緒でなければ、行きません」
「「えぇーっ?」」
つれない返事を聞いて、少女達はそろって声を上げた。その大音量に、メグの堪忍袋の緒は切れた。
「もう、静かにしてよ! 静かにできないなら、うんと怖い目に合わせてやるッ!」
少女達は、一瞬メグの剣幕に呑まれたが、すぐに険しい表情を浮かべた。応戦しようと口を開くが――
「煩い。黙って」
温厚なシャルルにしては、冷たい視線で黙らせた。
氷のような眼差しに、少女達はぴたりと口を噤む。ブリキ人形のように、ぎこちなく互いの顔を見合わせた。再びシャルルに視線を戻すと、
何を言おうとしたのか、開かれた唇から言葉が紡がれることはなく……琥珀の瞳から光が失われていく。
「邪魔をしないで。どこかへ行って」
「はい……」
虚ろな眼差しで、少女達は頷いた。操られたように、従順に階段を降りていく。
その背中を、メグは顎を逸らして見送った。
「シャルといると、やだな」
ふつふつとした怒りが収まらず、不機嫌そうにメグが言うと、シャルルはしょげたように肩を落とした。
「ごめんなさい。怒らないで、お姉様」
それきりメグも口を利かず、しばらくオルゴールの音色に耳を傾けた。
やがて、町は黄昏に染め上げられた。
五〇〇年の時を刻んできた、街の中心に聳える古の時計塔が、夕暮を告げる。
一日が終わろうとしている。
大道芸を楽しんだ後、街を練り歩いていたメグも、次第に疲れてきた。
そろそろ帰ろうか……
そう思ってシャルルを振り向くと、小路の奥、古びた建物の扉が開く様子に視線を奪われた。
出てきた男は、オルゴールを奏でていた、丸眼鏡の聖職者だ。
これで三度目。つくづく縁がある。
じっと見ていると、向こうもメグの視線に気付いて、軽く会釈した。
「……」
どこにでもいそうな、これといった特徴のない聖職者なのに、妙に印象に残る。なんとなく、遠ざかっていく男の背中を眺めてしまう……
「お姉様?」
なかなか動こうとしないメグを見て、シャルルは不思議そうに首を傾げた。
「あの建物、入ってみたい」
「え?」
「なんだか気になるの」
古ぼけた看板に、既視感を覚えた。どこかで見たことがあるような……悪夢を渡り歩いていた時に、見かけたのだろうか。
「でも……」
「シャルが行かないなら、私だけで行く」
倉庫の扉上には、消えかけた文字でロワル貯蔵庫と書かれていた。今は使われていない、酒を寝かせる為の蔵のようだ。
闇が色濃くなる中、二人は寂れた蔵に押し入った。
中はしんと静まり返り、陰気な空気に満ちている。入り口から斜めに入りこむ光も途絶えると、いよいよ室内は真っ暗になった。
どこから出現させたのか、シャルルはランタンに青い明かりを灯す。
外は寂れていたが、中は意外としっかりとした造りをしている。天井も高く、十分な広さがある。横穴を覗けば、すぐにでも使えそうな葡萄しぼり機が幾つか見えた。
ひんやりとした地下道を進むと、やがて強固な鉄扉の前に辿り着いた。
「シャル」
名を呼ぶと、心得たようにシャルルは扉の前に立った。手をかざしただけで、強固な鉄は砂となって砕け落ちる。
土壁の廊下が奥まで続いている。道なりに進み、少しだけ開いている扉の前で、足を止めた。
こんな場所だし、尚更、隙間を覗くのは勇気がいる。そっと、扉を手で押した。
「……ッ」
青い炎が戦慄した。
濁った血が視界に映り、メグは小さく息を呑んだ。微かに身震いするメグの手を、シャルルはしっかりと握り返す。
拘束具のついた作業机の上は、どす黒く変色しており、中央に丸い穴が開いていた。
その真下、床に置かれた
「酷いわね……」
ここで、夥しい数の何かを、誰かが殺して処理していたのだろう。眉をしかめながら微細を観察していると、シャルルに腕を引かれた。
「お姉様、もう行きましょう」
促されるまま部屋の外へ出ると、小さな物音が鼓膜に届いた。
「今、何か」
探るように視線を投げると、シャルルの瞳が光った。暗闇の中でも、燐光を放つように蒼く仄かに輝いている。
「……子供が一人います」
「え? どこ?」
「この先を曲がった、部屋の中に」
シャルルの指差す方、メグは瞳を凝らして見つめた。暗くてよく見えないが、彼が言うからにはいるのだろう。
「気になるわ」
静止を無視して、メグは突き進んだ。
「誰かいるの?」
ランタンでは明かりが足りず、夜目の利かないメグの為に、シャルルは青白い炎を手に閃かせた。
「……ッ」
小さく息を呑む気配がした。ぼうっと照らされた闇の奥に、蹲る小さな影が見える。
「誰なの?」
「……ミハイル」
か細い声で応えた。檻の中を覗き込むと、やせっぽちの薄汚れた少年が、こちらを見ていた。
「シャル、檻を開けてあげて」
頑丈な檻の南京錠を、手を触れずにシャルルは開けた。
「君達は、誰?」
ミハイルと名乗った少年は、怯えきった眼差しで、メグとシャルルを仰いでいる。鍵は開いたのに、隅で縮こまり、檻から出てこようとしない。
「私は――」
「檻は開けたし、枷も外しました。あとは好きにすればいい。お姉様、もう行きましょう?」
名乗ろうとするのを遮り、シャルルはメグの手を引いた。
「ま、待って!」
檻の前を横切ると、ミハイルが檻を出てついてきた。
けれど、メグが後ろを振り向こうとすると、シャルルはメグの肩を抱き寄せて歩くように促す。
「待って」
「でも」
「あの子も連れていく」
「えぇ?」
シャルルは不満そうな声を上げたが、ミハイルは窺うように近付いてきた。
「あの、助けてくれて、ありがとう」
人間に感謝された。
奇妙な表情を浮かべるメグの隣で、シャルルは無関心そうにしている。
「なんでこんな所にいたの?」
「……売られて、僕を買った男が、ここに入れた。僕の他にも何人かいたんだけど、僕だけ残った」
「酷い目に合ったのね。一体、誰にやられたの?」
「……言っても、信じないと思う」
「もしかして、丸眼鏡の聖職者?」
驚いた顔をするミハイルを見て、やっぱり、とメグは冷めた笑いを浮かべた。
「外見はあてにならないって、よく知っているの」
話しているうちに、入り口に辿りついた。慎重に周囲を観察したが、男が戻ってくる気配はない。
「……帰る家はある?」
メグにしては親切に声をかけると、ミハイルは表情を曇らせた。
「えっと……」
「あるなら、近くまで送ってあげてもいいけど」
「……」
「いいけど。でも、その後はどうするの?」
虚ろな眼差しで、ミハイルは視線を彷徨わせた。憔悴しきった身体で、今にも倒れそうだ。
「一緒にいく?」
手を差し伸べると、ミハイルは呆けたようにメグを見た。顔は薄汚れているが、双眸は翡翠のように美しい。
宝石のような瞳を、密かに賞賛するメグの隣で、無関心を決め込んでいたシャルルは、むっとしたようにミハイルを睨んでいる。この展開がお気に召さないようだ。
魔性を帯びたシャルルの瞳を見て、ミハイルは慄いたように後じさった。
「シャル」
窘めるように名を呼ぶと、シャルルは不服そうにメグを見た。
「お姉様。人間なんて連れ帰って、どうするつもりですか?」
「だって、行くところないみたいだし。放っておいたら死にそうだし」
綺麗な瞳をしているし、と心の中で付け加える。ミハイルは戸惑ったように、メグとシャルルを交互に見た。
「人間って……」
「ミハイルは人間でしょ」
「君だってそうでしょう?」
「私は悪魔よ」
「え……でも」
「心配しないで。ミハイルに酷いことはしない」
メグは微笑むと、細い腕を引いてミハイルを抱きしめた。
「お姉様!」
「わ、ミハイル汚いなー。しょうがないか……」
不衛生な場所に監禁されていたミハイルは、とても汚れていた。顔も薄汚れていて、造形を判別し違いほどだ。
両腕に抱きしめると、目線は彼の方が高い。宝石のような翠瞳を丸くして、金縛りにでもあったように、メグの腕の中で大人しくしている。碌に食べ物も与えられなかったのだろう。華奢というより、病的な細さだ。
「大丈夫よ。安全な所に、連れていってあげるから」
なるべく優しく聞こえるように言うと、ミハイルは緊張の糸が切れたように、メグにもたれかかった。
「わ、わ」
こんなにやせ細った少年なのに、意識のない人間はやたら重たく感じる。
「う、重っ! シャル、早く連れていって」
「嫌です」
「なんで?」
「嫌です。お兄様達にも怒られます」
「いいから早く!」
焦れて急かすと、シャルルは珍しく悪態をつきながら、ミハイルを抱きしめたメグごと抱きしめた。