メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -

2章:キスと魔法と逃走 - 5 -

 やがて、諦めたようにルーシーは部屋を出て行った。ぼうっとしている間に、ユーノが昼食を運んできたけれど、飛鳥は一切手をつけなかった。
 今は放っておいてほしい。
 そもそも殆ど体を動かさないので、腹はあまり空かないのだ。それに加えて、今は精神的に傷ついている。食欲はいつも以上に無かった。
 ぼんやりベッドに座っていると、ユーノと共に、リオンとロクサンヌが部屋にやってきた。

「え……」

 どうして二人がここにいるのだろう。ユーノが呼んできたのだろうか。

“食欲がないの?”

“大丈夫?”

 二人共、飛鳥を案じている。リオンはともかく、魔法にかけられたと知っているはずのロクサンヌまでもが、飛鳥を案じてくれたことは意外だった。飛鳥の疑問を察したように、ロクサンヌは優しく微笑んだ。

『アスカ、********』

“そんな顔をしないで。怒っているわけじゃないから”

「どうして?」

“酷いことを、されたわけじゃないもの。一人で閉じ込められて、不安に思うのも仕方ないわ”

 二人は飛鳥が思考を読めることを、知っているようだ。明らかに、話しかけるように、心の中で文章を組み立てている。

“今日は散々な目に合ったって、聞いたよ”

 リオンは、綺麗な挿絵の描かれた絵本を、飛鳥に手渡した。今日の贈り物らしい。思わず笑ってしまった。飛鳥の実年齢を、まだ聞いていないのだろうか。

「ありがとう……」

 心からお礼を言うと、二人共優しい表情を浮かべた。

“古代神器と言われても、普通の女の子に見える……”

 リオンは、考え込むように飛鳥をじっと見つめた。まただ、と思う。彼は飛鳥を前にすると、思考を深く彷徨わせることがある。

“ルジフェル閣下は本気なのだろうか。アスカを――”

 飛鳥がじっと見つめていることに気付くと、リオンは淡く微笑んで、思考を隠すように彼方へ追いやった。そして唐突に違うことを考え始める。
 リオンはいつもそうだ。差し入れをしてくれたり、何かと気遣ってくれるけれど、飛鳥に対して後ろめたく思っている節がある。ただ優しいだけじゃない。リオンは何か、飛鳥に隠していることがある。

『**アスカ、*******』

 ロクサンヌに視線を合わせると、たおやかな繊手せんしゅで、クッキーの入った袋を渡された。

「ありがとう」

 クッキーから、香ばしい紅茶の匂いが漂う。甘いものは大歓迎だ。思わず笑顔になると、ロクサンヌは優しい笑みを浮かべた。

『*******、アスカ****』

“それは、艦長からなの。アスカに、って……”

「……」

 途端に笑顔は萎んでしまった。ルーシーの顔を、今は見たくない。考えたくもない。このクッキーは、彼にとって罪滅ぼしのつもりなのだろうか。

“アスカが昼食を摂らないと聞いて、艦長も心配していたわ。アスカに悪いことをしたと……”

「……」

 飛鳥はクッキーの入った茶袋を、じっと見下ろした。きちんと包装されて、リボンで結ばれている。どこで手に入れたのだろう。
 もし、ルーシーが、さっきのことをロクサンヌ達に話していたとしたら。皆して影で、飛鳥を笑っているのだとしたら……。想像しただけで気分が悪くなった。ルーシーはそんなことはしないと思う。思いたい。
 いや、どちらでもいい――どうせ、逃げ出すのだ。疼く胸の痛みを、強引に捻じ伏せる。
 飛鳥が食事に手をつけようとしなくても、彼等は無理やり食べさせようとはしなかった。一刻ほど、穏やかな歓談をした後、銀のトレーを置いたまま、静かに部屋を出て行った。
 ここにはリオンやロクサンヌのように、親切にしてくれる人達も確かにいる。彼等の優しさまで疑おうとは思わない。
 だからと言って、迷ってはいけない。
 彼等がどんなにいい人でも、飛鳥の拘束を解いてくれるわけではないのだ。バビロンに着いた後、飛鳥の安全を保障してくれる人なんていない。
 飛鳥が古代神器だと知らなければ、彼等も違った対応を見せてくれたのかもしれない……、そう考える時点で、答えは出ているようなものだろう。
 逃げるのだ。
 誰も飛鳥を知らない、遠い場所へ――たとえ魔法を使ってでも。
 飛鳥は、ロクサンヌの渡してくれたクッキーの袋をちらりと見下ろした。食べるつもりはない。ここから出て行くのだという、決意表明だ。