メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -

2章:キスと魔法と逃走 - 6 -

 リオンとロクサンヌが出て行った後、飛鳥は脱走について計画を練った。夕方を待って、ついに行動に踏み切る。
 部屋に設置された呼出ベルを押して、ユーノが来るまでの間に、すっかり冷めてしまった昼食に軽く手をつけた。ユーノがやってきたら、食器を下げてもらうつもりだ。その実、脱走が可能かどうか検討することが真の目的である。
 この間はユーノに怖い思いをさせられたけれど、あれは彼が悪いわけではない。全てカミュが悪い。ユーノは命じられただけだ。
 部屋にユーノがやってくると、飛鳥は深呼吸をしてから、ユーノの前に立った。ユーノは飛鳥よりも若干背が高いが、目線は殆ど変らない。澄んだピジョンブラッドの瞳が、じっと飛鳥を見つめている。
 果たして、彼には魔法が効くのかどうか――。

「ユーノ、メル・アン・エディール」

 ユーノは、とても人間じみた仕草で目を瞠った。

「あれ、効いた……?」

 ユーノの様子がおかしい。ユーノは自分の両手をじっと見つめた後、左胸を抑えて、それから飛鳥を見つめた。ルーシーに魔法をかけた時と、似たような反応だ。

『アスカ***********』

 ユーノに初めて名前を呼ばれた。飛鳥がたじろぐと、ユーノはその場に跪いた。唖然とする飛鳥の右手を取り、指先に触れるか触れないかのキスをする。騎士が、お姫様にするみたいに。

「――っ」

 思わず鼓動が跳ねた。魔法をかけるのはユーノで三人目だが、この反応は初めてだ。かける相手によって、与える作用は異なるのかもしれない。

『*******』

“アスカの望みを叶えたい”

 驚くべきことに、ユーノの心の声まで読み取れるようになった。大助かりだ。脱出に手段は厭わないつもりでいたが、ルーシーにもう一度かけるよりかは、ユーノにかける方がいくらか良心の呵責が少なくて済む。

「ユーノ……」

『アスカ****』

「ここから、逃げたい。助けて」

 飛鳥はユーノの手を取って立たせると、飛鳥では開けることの出来ない扉ノブを、ガチャガチャと回して見せた。

「お願い、開けて」

『******』

“開けて欲しいのですね”

 ユーノは飛鳥の心を汲み取ると、鍵を壊すわけでもなく、あっさり扉を開けた。どういう仕組みなのだろう。更にユーノは、外に立っている兵士を、たったの一撃で昏倒させた。気絶している二人の兵士を部屋の中に引っ張りこむと、飛鳥の手を取り、ついに外へ連れ出した。
 部屋の周囲に人影は見当たらない。柱の影に身を潜めながら病室を覗きこむと、幸運なことに、洗い立ての軍服がきちんと折りたたまれてベッドの上に積み上げられていた。
 飛鳥は四つん這いで病室に忍びこむと、軍服を一着失敬して、ベッドの下でこっそり着替えた。これで多少の目眩ましになるはずだ。
 賢いユーノは、ここまでの飛鳥の行動を見て、およその事情を察してくれた。

“人に見つからず、外へ出たいのですね?”

 そうそう、というように飛鳥はユーノを目を見て深く頷いた。

“ならばお早く。間もなくバビロンに到着します”

「バビロンに?」

『******……』

“間もなく、バビロン空軍基地から案内支援航空機が発艦されます。そうしたら、単機の脱出はほぼ不可能になります”

 飛鳥は唇を噛みしめた。覚悟を決めるなら、今しかないらしい。ユーノは指示を待つように、ピジョンブラッドの瞳でじっと飛鳥を見つめている。
 逃げる。ここから、逃げてみせる。飛鳥がしっかりと頷くのを見て、ユーノもまた頷いた。

「行こう、ユーノ」

『***、アスカ』

 途中、数人の兵士とすれ違ったが、変装が功を奏して彼等は飛鳥に気付かなかった。胸を撫で下ろしたのも束の間、艦内にサイレンが鳴り響いた――。

『アスカ』

“アスカが部屋にいないことに気付かれました”

「もう!?」

“急ぎましょう”

 ユーノに手を差し出されて、飛鳥は躊躇わずに掴んだ。とてもひんやりした手だ。
 後ろから武装した兵士達が追いかけてきた。数十人はいる。しかも、恐ろしいことに発砲してきた。

「えっ!?」

“麻酔弾です”

 だとしても、撃たれたらと想像するだけで背筋が凍る。痛い思いはしたくない。飛鳥は真っ青になりながら走った。彼等はものすごい速さで追いかけてくる。このままだと捕まってしまう――。

「あっ」

 ユーノはいきなり飛鳥を横抱きにすると、すごい速さで走り出した。手を引いて走るよりもずっと速い。とても人を抱えて走っているとは思えないスピードだ。