メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -

3章:ゴットヘイル襲撃 - 10 -

“……ところで、私も古代神器の神秘を体験してみたいのですが”

 ファウストは休憩とばかりに、授業と無関係な雑念を向けてきた。

「へ?」

 飛鳥は咄嗟に理解できず、少々間の抜けた返事をした。視線の先のファウストは変わらぬ穏やかさで、片眼鏡モノクルの位置を指で調整している。

“魔法にかけられた全員が、眼を疑うような変貌ぶりでした。魅了の効果のほどを、ぜひとも体験してみたい”

 ――魅了っ!!

 飛鳥は大きく眼を瞠って固まった。衝撃的すぎる“魅了”の二文字に、思考の全てを持っていかれた。
 確かに、そう表現しても過言ではないのかもしれない。しかし、飛鳥なりにやむをえない状況だっただけで、悪戯いたずらにかけたわけではない。
 今さっき、迂闊に使うなと苦言を呈したのは誰であったか。

“そう言わずに”

 強張った飛鳥の顔を見て、ファウストは請うように囁いた。そうは言っても、今のところ百発百中の魔法である……。
 この狭い部屋で魔法にかければ、冴えわたる蒼氷色アイス・ブルーの瞳が豹変した時、冗談ではなく貞操の危機に陥るかもしれない。

“ユーノはともかく、敬虔なラージュ教徒の彼等が貴方のような少女にクラッといくのは、完全に予想外でした。本当に愛の衝動とは、言葉では言い表せないほど神秘的な――”

「ちょ、ちょっと」

 飛鳥は慌てて思考を読むのを止めた。愛の衝動とはなんだ。

『アスカ******』

 名前を呼ばれても、思考を読む気になれない。耳を押えて首を左右に振っていると、ファウストに耳を抑える手を掴まれた。見下ろす視線には容赦がない。無言の圧に屈して、渋々彼の思考を読み取った。

“――聞きなさい。ラージュ教は神秘主義だと揶揄やゆされますが、私は天体を語るにしもて、天にまたたく星を眺めるだけでは、到底、答えは得られないと考える現実主義者リアリストです”

「はぁ……」

“好奇心とは学問の幅を広げる可能性そのもの。ですからアスカ、どうか恐れずに、その力を私に示してください”

「うーん……?」

 尤もらしいことを述べているが、単に自分の好奇心を満たしたいだけでは……。

“これまでの例では、ユーノは別として、一日で効果は切れていますし、不測の事態に陥った場合でも、解呪を持っているのでしょう?”

「そうですけど……」

 確かに、何かあっても一言唱えれば解決はできる。腕を組んで考え込むと、なおもファウストに請われた。

“全責任は私が負いますから。どうか”

 何度か繰り返された後、根気負けした飛鳥は渋々承諾した。

「判りました。でも、すぐ解呪しますよ? いきますよ……ファウスト、メル・アン・エディール」

 部屋の奥まで下がって様子を窺っていると、ファウストは飛鳥を見るなり、一瞬で距離を詰めた。仰け反る飛鳥の手をぎゅっと握りしめ、情熱を灯した瞳で一途に見下ろす。

『アスカ……』

「ひぇ」

 壁に背を張りつけて、握りしめられた手を振り解こうとするが、うまくいかない。

“これほどとは……素晴らしい気分です。陳腐な台詞ですが、世界が輝いて見えます”

「もういい?」

 解呪を唱えようと口を開く飛鳥の唇に、ファウストは、静かに、というように人差し指を押し当てて黙らせる。

“待ってください。せっかくですから、今の状態を分析しないと……”

 熱っぽい眼差しはそのままに、哲学者か心理学者のように思考を理路整然と組み立て始めた。

“……聖域でアスカを保護した後、副艦長に、艦長の様子がおかしいから様子を見て欲しいと言われて、一体何のことかと思いましたよ”

 飛鳥は、顎を引いて小さく頷いた。ルーシーに魔法をかけた直後の話だろう。魔法を知らなければ、驚くのも無理はない。

“……実際、艦長に会うと、恋する乙女のごとく眼を輝かせ、アスカは天使のようだと真面目に話すのですから。仰天しました”

 彼に“仰天”の二文字は激しく似合わないが、気持ちは判る。今の彼も十分豹変しているけれど……。

“彼の様子を見て、果たしてアスカはどんな美少女なのかと想像していました。実際にお会いしてみて、おや、人違いかなと思ったのですが……”

 飛鳥は胡乱げな眼差しで応えた。何も、本人に言わなくてもいいのに。ファウストも失言を悟ったように、顔に動揺を浮かべて飛鳥を見つめる。

“どうか怒らないでください。今なら艦長が、アスカを天使に喩えたのも頷けます。貴方は瑞々しい黒髪の女神だ……”

 今度は詩のような美辞麗句に、居心地の悪さを覚えた。
 ファウストも例にもれず、魔法の影響をしっかり受けている。この恐るべき魔法は、審美眼すらも捻じ曲げてしまうらしい。

“貴方ほど魅力的な人を、今まで見たことがありません。今なら、永遠の愛を捧げても惜しくはない”

 ファウストは掌を返したように、詩人のように愛の言葉を囁く――

「もう、いいですよねっ」

 聞くに耐えず、飛鳥は唇に押し当てられた、ファウストの指を引き剥がした。飛鳥が触れただけで、ファウストは眼を瞠って動揺を見せる。

“貴方に、口づけても?”

 怜悧な美貌で甘く囁く――飛鳥は眼を瞑って叫んだ。

「ファウストッ! メル・サタナッ!!」

『――******……』

 熱していた空気は、どこかへ流れた。ファウストは静かに飛鳥から距離を取ると、すっかり元の調子で声をかける。

“なるほど……これは、身をもって体験してみないことには、判りませんね”

 平常に戻ったファウストは態度も思考も鉄壁だ。飛鳥がどんなに見つめても、欠片も動揺を見せない。
 元通りの思慮深くも冴々とした眼差しを見て、飛鳥は心底ほっとした……。