メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -

4章:出航 - 1 -

 空中都市バビロン。
 その景観はまさに、空に浮かぶ大都市そのもの。
 空母から大小様々な浮島を眺めてきたが、バビロンは今までに見たことがないほど広大で、天にそびえる瀟洒しょうしゃな建築物がびっしりと並んでいる。
 まるで、空に浮かぶニューヨーク。或いは、鋼鉄と石の融合したスカイ・ジャングル。
 建物の合間を絶え間なく白い狭霧が流れ、場所によっては雲の上に建物が浮いているように見える。
 水路が網の目のように張り巡らされ、人工の運河を優美なゴンドラが流れゆく。
 建物の合間には、空母でもよく見かける鋼のレールが張り巡らされており、レールの下を走る懸垂式のゴンドラや、フックに掴まった人が空を滑空してゆく。
 建物の尖塔には、揃いの旗が風になびいている。青と白を基調としたそれは、帝国の紋章旗もんしょうき らしい。

「すごいなぁ……」

 未知の光景に、飛鳥は夢中になった。
 頬杖をついて、舷窓げんそうの外を眺める飛鳥の隣には、礼装姿のルーシーがいる。
 軍の礼装姿のルーシーは、目を奪われるほど格好いい。豪華な金色の正肩章を両肩につけており、今日は更に金モールの紐を右肩から下げている。
 日頃簡略している勲章も着用しており、ローズド・パラ・ディアの飛空鑑徽章の他に、空軍殊勲記章、空軍賞賛記章、歴戦の従軍記章、出撃回数を示す駆逐機前線飛行記章……ずらりと豪華だ。彼は英雄なのだと、章を見るだけで判る。
 そんな騎士然としたルーシーは、長い足を組んで飛鳥の隣に座っている。
 うっかり視界に入れると見惚れてしまうので、敢えて注視しないように気をつけている。
 ちなみに飛鳥はロクサンヌの用意してくれた、光沢ある象牙白の優美なドレスに、長手袋を着用している。襟や裾には更紗さらさのレースと真珠がついており、肌につける装飾品も真珠である。髪は綺麗に結い上げ、頭髪にも真珠を飾っている。

『アスカ**、**ヴィラ・サン・ノエル******』

“ヴィラ・サン・ノエル城ですよ”

 ルーシーの指差す方向を見て、飛鳥は感嘆のため息をついた。スカイ・ジャングルの奥に、光り輝くヴィラ・サン・ノエル城が見える。
 まさしく天空の城だ……。
 すらりとした優雅な佇まい。玻璃はりの外装は、氷で造られたかのよう。
 水晶は日射しを乱反射して、虹のように、あるいはオーロラのように淡く七色を帯びている。人工とは思えぬ神秘的な建造物だ。
 一際高い尖塔には、至る所で見かけた、青と白の紋章旗が風に揺れている。

「綺麗――……」

 その一言に尽きる。
 しばらく夢中で外を眺めていたが、ふと視線を感じて隣を見上げると、ルーシーと眼が合った。
 咄嗟に反応できない。
 誤解してしまいそうなほど、甘くて優しい視線。彼は今、自分がどんな顔をしているのか、自覚しているのだろうか……。

“気に入った?”

『はい』

 飛鳥は面映ゆい想いに蓋をして、淡く微笑んだ。

 +

 空母は、ヴィラ・サン・ノエル城の広大な中庭に設けられた、滑走路上空に空中停泊した。
 甲板から小型搬送機を経由して、地上へ降りる。
 飛鳥は、ルーシーとカミュに左右の手を取られて中庭へ降りた。
 可愛らしいトピアリーで賑わう庭園には、いかにも高貴そうな紳士淑女が群れており、多くの女性はルーシー達、見目麗しい軍人に秋波しゅうはを送っている。エスコートされる飛鳥にも、好奇の視線が突き刺さった。
 緊張の余り、手汗が滲みそうだ。
 俯きたい欲求を必死に堪え、前だけを見続ける。
 いよいよこれから、皇帝陛下に拝謁をたまわるのだ。
 階段を下りると、ルーシーは飛鳥の手を取り、カミュは付き従うように斜め後ろに下がった。飛鳥が魔法を使おうものなら、彼は即麻酔弾を発砲するのだ。聞いた時は少々傷ついたが、事情は判る。
 正門扉に近付くにつれて、ルーシーの腕に添えた手が、緊張で細かく震えた。気付いたルーシーは、宥めるように飛鳥の手を撫でる。

“大丈夫ですよ”

 見下ろす青い双眸に勇気をもらい、飛鳥はひっそり息を吐いて心胆しんたんを整えた。
 薔薇で意匠された門扉が、左右に控える近衛によって厳かに開かれる。
 ヴィラ・サン・ノエル城の外装は清楚で神秘的であったが、内装は贅を尽くした、非常に豪華なものであった。
 大聖堂カテドラルの主身廊のように、高くて広い空間には、天使をかたどった御影石の彫刻、精緻な鉄細工、艶やかな青磁が並ぶ。
 延々と続く回廊の正面に穿たれた、見事な薔薇窓。不思議な光源を燃やす、無数のしょくを並べた円環の照明……。
 静謐、煌びやかな世界を進むうちに、飛鳥の感覚は麻痺していった。
 直進する先に、何が待っているのか――
 恐い。今さっきの覚悟が揺らぎ、きびすを返して走り去りたい衝動に駆られた。

“大丈夫。私がついています”

 ルーシー。穏やかな声なき声は、暗闇に差す一条の光のよう……。
 立ち止まりかけた歩みは、手の温もりと囁きのおかげで動き出した。

『ありがとうございます』

 小声に囁くと、隣で優しく微笑する気配がした。