メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -
4章:出航 - 2 -
いよいよ最後の扉が左右に開かれる。
馥郁 たる香炉の焚かれた、皇帝陛下の御座 す絢爛華麗な大広間。
左右に並ぶ、大きく穿たれた硝子窓から、日射しが斜めに降り注ぎ、床に美しい色彩を描いている。
“足元に気をつけて”
飛鳥はルーシーに手を取られたまま、エルヴァラート・ディ・バビロン皇帝陛下の待つ玉座へとゆっくり進んでいく。決してご尊顔をみだりに拝見しないよう、視線を少し伏せて。
玉座から少し離れたところで立ち止まり、膝を折ると共に深く頭を垂れた。
『ルーシー、カミュ。*****。******』
“久しいな”
耳触りの良い、涼やかなアルトの声が頭上から降ってくる。
声をかけられて、カミュとルーシーは優雅に一礼した。次はきっと飛鳥の番だ。
『****、アスカ**』
“そうであった。そなたとは、心で話すよう聞いておる。そなたが、バビロンの至宝。アスカだな”
自らを“至宝”と認めるのは抵抗を感じたが、飛鳥は『はい』と応えた。
『******』
“面を上げよ”
ゆっくり顔を上げると、天使と見紛う美しい少年と眼が合った。
白金に煌めく絹糸のような髪。水色を燃やしたような、燐としたパライバトルマリンの瞳。女神も嫉妬しそうな、薔薇色の頬に唇。
皇子様だ……。
それは、圧倒的な第一印象であったが、皇帝陛下にあらせられる。
彼の頭上には、帝位を示す黄金のティアラが燦然 と輝いている。
ほっそりした身体を包む、白を基調とした衣装。襟や袖口からは、華美なレースが覗いており、靴も艶のある白。彼以外には、およそ着こなせないであろう、どこか少女めいた衣装だ。
黄金の玉座に、いかにも寛いだ様子で泰然自若 と座す様は、若くして威風堂々たる皇帝のそれであり、綺羅星のようでもある。
相手に過剰な緊張を与えないのは、彼が浮かべている柔和な笑みのおかげかもしれない。
飛鳥が言葉もなく凝視しているように、彼もまた、飛鳥を観察していた。宝石のような碧眼を好奇心に輝かせて、じっと飛鳥を見つめている。
“うむ、可愛らしい娘だな。私はエルヴァラート・ディ・バビロン。バビロン皇帝である”
社交辞令と判っていても、可愛いと褒められ少々たじろいだ。彼の方こそ、よほど可愛らしい容貌をしている……。
『お会いできて光栄に存じます。飛鳥と申します』
『******、***************、アスカ』
“空中都市バビロン帝国へようこそ。歓迎するぞ、聖域の乙女。アスカ”
天使めいた容貌の若き皇帝は、花が綻ぶように微笑んだ。
『ルーシー***、カミュ***、*********』
“ルーシー、カミュ、アスカを無事に届けてくれて、ありがとう”
皇帝は声にしながら、同じ言葉を心の内で飛鳥にも語りかけた。
“褒美を取らせねばのう。後で我が伯父上、親愛なる行政庁長官に何でも申し付けるが良い”
皇帝の労いに、ルーシーとカミュが再び一礼して、謝礼の言葉を口にしている。
玉座の傍らに控える、灰銀の長髪、顎髭を持つ四十過ぎの男が、深々と頭を下げた。
『******』
答える声は硬く、凍てついた冬の氷にように冷たい。
彼がルジフェル帝国行政庁長官――リオンを操り、飛鳥を拉致しようとした首謀者……。
飛鳥は知らず、ルジフェルの顔を凝視していた。彼もまた、冬の湖水のような灰色の瞳で、飛鳥を高みから見下ろしている。
見られているだけなのに、全身に緊張が走り、肌が粟立った。
彼の思考は鉄壁そのものだ。普段より集中して覗き込もうとしても、分厚い鉄の板を前にしているかのよう。何一つ透けて見えない……。
近付いてはいけない人。それが、ルジフェルに対する第一印象だ。恐らく、この先も変わることはない気がする。
『********、****************、******************』
エルヴァラートは歌うような声音で、集まった聴衆に言葉を紡ぐ。
“聖域に現れた、稀 な乙女。いろいろと話を聞かせておくれ。ゆるりとヴィラ・サン・ノエル城に滞在するが良い”
飛鳥は固い表情のまま、台本を読み上げるように、教えられた通りに応えた。
『陛下、身に余る光栄です。私で良ければ、喜んで』
拝謁はごく短い時間で終了した。元々儀礼的な顔合わせが目的である。
この後、ルーシー達は空母に戻り、飛鳥は皇帝と個人的な対談の為、準備が整うまで客間に控えることになっている。
謁見の間を出た後、カミュとは会釈してそこで別れた。いい思い出ばかりではなかったけれど、彼の背中を見送る時には、寂しさが込み上げた。一人、また一人と艦の人とお別れをしてゆく……。
立ち尽くす飛鳥の手を取って、ルーシーは客間まで送ってくれた。次は彼ともお別れをしなくては……。
道すがら、言葉はない。
彼の心に、秘めた決意のようなものを感じたけれど、彼はそれを表に出そうとはしなかった。
飛鳥との決別に、彼も多少は寂しさを覚えてくれているのだろうか……。
ついに扉の前までたどり着くと、飛鳥は胸に刺さるような哀しみに襲われながら、重ねていた手をそっと離した。
“アスカ――”
美しい青い双眸を見上げて、最後の視線が交錯する。溢れそうな恋情に蓋をして、精一杯、表情を微笑で鎧 った。
『ルーシー、ありがとうございます』
本当は、もっときちんと感謝の気持ちを伝えたいのだが、これしか言えないことがもどかしい。
『アスカ、******……』
“私の方こそ……”
白い手袋をした、ルーシーの手が飛鳥の頬に触れる。触れられた途端に、涙腺が潤みそうになり、歪みそうになる顔を必死に堪えた。
伸ばされた手を避けて、数歩後じさると共に、瞼を半分伏せる。最後まで彼の顔を見ていられなかった。
『さようなら』
『アスカ、******――』
ルーシーは何か言いかけたが、瞳を覆う涙の膜が雫になる前に、部屋に入るなり後ろ手に扉を閉めた。あらゆる声から耳を塞ぐ。扉に背中を預けた途端、取り繕っていた仮面は剥がれて、ぽろっと涙が零れた。
「……っ」
両手で口を塞いで欠片も声が漏れないように、嗚咽をかみ殺した。震える手で扉に鍵をかけて、静かに部屋の中ほどに進む。
「ふ……っ」
頑張った。よくやった。ルーシーの前で、泣いて縋らなかった自分を、必死に褒めて慰める。そうでもしないと、倒れてしまいそうだ。
世界にたった一人だから。また一人ぼっちになってしまった。
左右に並ぶ、大きく穿たれた硝子窓から、日射しが斜めに降り注ぎ、床に美しい色彩を描いている。
“足元に気をつけて”
飛鳥はルーシーに手を取られたまま、エルヴァラート・ディ・バビロン皇帝陛下の待つ玉座へとゆっくり進んでいく。決してご尊顔をみだりに拝見しないよう、視線を少し伏せて。
玉座から少し離れたところで立ち止まり、膝を折ると共に深く頭を垂れた。
『ルーシー、カミュ。*****。******』
“久しいな”
耳触りの良い、涼やかなアルトの声が頭上から降ってくる。
声をかけられて、カミュとルーシーは優雅に一礼した。次はきっと飛鳥の番だ。
『****、アスカ**』
“そうであった。そなたとは、心で話すよう聞いておる。そなたが、バビロンの至宝。アスカだな”
自らを“至宝”と認めるのは抵抗を感じたが、飛鳥は『はい』と応えた。
『******』
“面を上げよ”
ゆっくり顔を上げると、天使と見紛う美しい少年と眼が合った。
白金に煌めく絹糸のような髪。水色を燃やしたような、燐としたパライバトルマリンの瞳。女神も嫉妬しそうな、薔薇色の頬に唇。
皇子様だ……。
それは、圧倒的な第一印象であったが、皇帝陛下にあらせられる。
彼の頭上には、帝位を示す黄金のティアラが
ほっそりした身体を包む、白を基調とした衣装。襟や袖口からは、華美なレースが覗いており、靴も艶のある白。彼以外には、およそ着こなせないであろう、どこか少女めいた衣装だ。
黄金の玉座に、いかにも寛いだ様子で
相手に過剰な緊張を与えないのは、彼が浮かべている柔和な笑みのおかげかもしれない。
飛鳥が言葉もなく凝視しているように、彼もまた、飛鳥を観察していた。宝石のような碧眼を好奇心に輝かせて、じっと飛鳥を見つめている。
“うむ、可愛らしい娘だな。私はエルヴァラート・ディ・バビロン。バビロン皇帝である”
社交辞令と判っていても、可愛いと褒められ少々たじろいだ。彼の方こそ、よほど可愛らしい容貌をしている……。
『お会いできて光栄に存じます。飛鳥と申します』
『******、***************、アスカ』
“空中都市バビロン帝国へようこそ。歓迎するぞ、聖域の乙女。アスカ”
天使めいた容貌の若き皇帝は、花が綻ぶように微笑んだ。
『ルーシー***、カミュ***、*********』
“ルーシー、カミュ、アスカを無事に届けてくれて、ありがとう”
皇帝は声にしながら、同じ言葉を心の内で飛鳥にも語りかけた。
“褒美を取らせねばのう。後で我が伯父上、親愛なる行政庁長官に何でも申し付けるが良い”
皇帝の労いに、ルーシーとカミュが再び一礼して、謝礼の言葉を口にしている。
玉座の傍らに控える、灰銀の長髪、顎髭を持つ四十過ぎの男が、深々と頭を下げた。
『******』
答える声は硬く、凍てついた冬の氷にように冷たい。
彼がルジフェル帝国行政庁長官――リオンを操り、飛鳥を拉致しようとした首謀者……。
飛鳥は知らず、ルジフェルの顔を凝視していた。彼もまた、冬の湖水のような灰色の瞳で、飛鳥を高みから見下ろしている。
見られているだけなのに、全身に緊張が走り、肌が粟立った。
彼の思考は鉄壁そのものだ。普段より集中して覗き込もうとしても、分厚い鉄の板を前にしているかのよう。何一つ透けて見えない……。
近付いてはいけない人。それが、ルジフェルに対する第一印象だ。恐らく、この先も変わることはない気がする。
『********、****************、******************』
エルヴァラートは歌うような声音で、集まった聴衆に言葉を紡ぐ。
“聖域に現れた、
飛鳥は固い表情のまま、台本を読み上げるように、教えられた通りに応えた。
『陛下、身に余る光栄です。私で良ければ、喜んで』
拝謁はごく短い時間で終了した。元々儀礼的な顔合わせが目的である。
この後、ルーシー達は空母に戻り、飛鳥は皇帝と個人的な対談の為、準備が整うまで客間に控えることになっている。
謁見の間を出た後、カミュとは会釈してそこで別れた。いい思い出ばかりではなかったけれど、彼の背中を見送る時には、寂しさが込み上げた。一人、また一人と艦の人とお別れをしてゆく……。
立ち尽くす飛鳥の手を取って、ルーシーは客間まで送ってくれた。次は彼ともお別れをしなくては……。
道すがら、言葉はない。
彼の心に、秘めた決意のようなものを感じたけれど、彼はそれを表に出そうとはしなかった。
飛鳥との決別に、彼も多少は寂しさを覚えてくれているのだろうか……。
ついに扉の前までたどり着くと、飛鳥は胸に刺さるような哀しみに襲われながら、重ねていた手をそっと離した。
“アスカ――”
美しい青い双眸を見上げて、最後の視線が交錯する。溢れそうな恋情に蓋をして、精一杯、表情を微笑で
『ルーシー、ありがとうございます』
本当は、もっときちんと感謝の気持ちを伝えたいのだが、これしか言えないことがもどかしい。
『アスカ、******……』
“私の方こそ……”
白い手袋をした、ルーシーの手が飛鳥の頬に触れる。触れられた途端に、涙腺が潤みそうになり、歪みそうになる顔を必死に堪えた。
伸ばされた手を避けて、数歩後じさると共に、瞼を半分伏せる。最後まで彼の顔を見ていられなかった。
『さようなら』
『アスカ、******――』
ルーシーは何か言いかけたが、瞳を覆う涙の膜が雫になる前に、部屋に入るなり後ろ手に扉を閉めた。あらゆる声から耳を塞ぐ。扉に背中を預けた途端、取り繕っていた仮面は剥がれて、ぽろっと涙が零れた。
「……っ」
両手で口を塞いで欠片も声が漏れないように、嗚咽をかみ殺した。震える手で扉に鍵をかけて、静かに部屋の中ほどに進む。
「ふ……っ」
頑張った。よくやった。ルーシーの前で、泣いて縋らなかった自分を、必死に褒めて慰める。そうでもしないと、倒れてしまいそうだ。
世界にたった一人だから。また一人ぼっちになってしまった。