メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -
3章:ゴットヘイル襲撃 - 2 -
逃走失敗から五日後。空母に来てから十二日目。
飛鳥が朝食を摂り終えた頃、ユーノと入れ違いで、数日ぶりにルーシーが部屋を訪れた。ちなみに、ユーノの心は相変わらず読めるし、飛鳥に対する態度も相変わらず丁寧なものである。原因は、ルーシー達にも判らないらしい。
ルーシーに対して、すっかり複雑な想いを抱いてしまったが、久しぶりに顔を見ると純粋に“嬉しい”と感じる。
飛鳥が笑顔で迎えると、ルーシーも『お早う』と穏やかに笑んだ。
『お早うございます』
“今日の夕方にはゴットヘイルに到着します”
飛鳥は頷いた。到着するということだけは、ユーノからも聞いている。
ルーシーは徐 に壁に埋め込まれた硝子製のパネルを操作して、壁面に大きなカラーの画像を映し出した。
「そんなこと出来るんだ!」
壁面の硝子タイルは、てっきり装飾だと思っていた。そんな用途があったとは。しかも映し出されている画像は――この世界の地図だ。
“すみません、説明すると言ってから、日が経ってしまいましたね。これは、バビロン空域の地図です”
『はい』
飛鳥は地図を見つめたまま応えた。ずっと知りたいと思っていた情報の一つだ。
“バビロンは皇帝陛下の御座 す浮島の総称であり、空に冠する大帝国の呼び名でもあります。空中都市バビロンと言えば、ヴィラ・サン・ノエル城周辺の中心都市を差します”
壁に映し出された地図は、当然だが飛鳥の知っている世界地図とはまるで違う。全く知らない地形、文字が描かれている。
ルーシーは、三日月形の島の東端を差すと、ヴィラ・サン・ノエル城と説明した。
“アスカのいた聖域は、ここです”
次に、三日月形のぽっかり空いた真ん中、やや上にある小さな孤島を差して“聖域”と説明した。
飛鳥はようやく、自分がこの世界のどこに降り立っていたのかを知った。
聖域からヴィラ・サン・ノエル城に到着するまで、およそ七日を要した。しかし、この空母の移動速度が判らないので、地図の縮尺がよく判らない。バビロンは、実際はどれくらいの大きさなのだろう……。
“無限空の気候は場所によって異なりますが、バビロンは寒冷地で、季節の変化は殆どありません。しばしば雪が降るような寒い土地です。ヴィラ・サン・ノエル城は、玻璃 のように美しい城ですよ”
「へぇ……」
言われてみると確かに、聖域も寒かった。
艦内は適温に保たれているが、外の甲板に出ると、全身の肌が粟立つほど寒い。空に浮かぶ世界だから、どこもかしこも全体的に寒いのかもしれない。
“バビロンは、バビロン教皇庁と呼ばれる、ラージュ教会を統率する組織によって統治される、魔導教会の中心地、総本山です。エルヴァラート・ディ・バビロン皇帝陛下は、バビロン教皇であり、またバビロン魔導学校長でもあらせられます”
皇帝陛下は確か十五歳と聞いている。その年で既に、皇帝陛下、教皇、そして学校長まで兼任していると言うのか。
“ラージュ教は、端的に説明すると、唯一神、始祖精霊アンフルラージュを信仰する一神教です。私を含め、バビロン帝国の領民のほぼ全員が、ラージュ教の信徒です”
アンフルラージュの名前には聞き覚えがある。古い魔法の知識の中に、刻まれた名前だ。あの偉大な双子の精霊の、産みの親でもあるはず……。
“あらゆる最高権威は陛下にありますが、実際のバビロン統治を行っているのは、バビロン帝国行政庁です。機関の長官を務めているのは、ルジフェル・エヴァンズ閣下、陛下の伯父君です。彼は空軍大将の一人でもあり、当艦の総指揮権も彼が有しています”
なるほど……と飛鳥は頷いた。バビロン帝国は、皇帝の独裁政治というわけではないらしい。皇帝の年を考えれば当然かもしれない。
リオンの思考にもよく登場するルジフェルという男は、いわば総理大臣並の権力を持っているようだ。
ゴットヘイルの訓令は、ルジフェルから受けたとルーシーは話していた。ルジフェルという男は、ルーシーの上司でもあるのだろう。
“今向かっているゴットヘイルはここです”
ルーシーは地図上のバビロンを差した後、北東に向けて指を滑らせ、小さな小島で止めた。バビロンに比べたら、比較にならないほど小さな島だ。
地図上の距離では、バビロンからゴットヘイルまで、聖域からバビロンのおよそ三倍だ。しかし、夕刻には到着するという。
ヴィラ・サン・ノエル城からゴットヘイルに針路変更したと聞いたのが五日前だ。ということは、今この空母は、かなり高速で移動しているのだろう。でないと、聖域から七日かけて城に到着したのに、三倍の距離を五日で稼げる説明がつかない。
理論上、高速移動していることになるが、これまで一度たりとも揺れを感じたことはない。
アメリカ行の飛行機に乗った時は、乱気流を通過する際、激しく揺さぶられたものだ。巨大な戦艦だから安定感が違うのだろうか。
“ゴットヘイルは人口三千人程度の小規模な浮島ですが、穏やかな気流に恵まれ、空運通商の中継地として栄えています”
「へえ……」
ゴットヘイルとは、どんな所なのだろう。この目で見てみたいが、恐らくここから出してはもらえまい。飛鳥は残念な気持ちで地図を眺めた。
“バビロン領空の中でも、重要港湾の一つです。巡洋艦の哨戒 航路にありますが、主力艦――ローズド・パラ・ディアのような超弩級艦が常駐しているわけではありません”
ルーシーは美貌に苦々しい表情を浮かべた。
“これは、前々から懸念されていることでした。現在、新鋭戦艦級の建造が進められていますが、空賊の侵攻を許してしまった……”
飛鳥に説明をしながら、個人的な疑問を思い浮かべている。
“とはいえ、軍港……。幾重にも張られた哨戒網 を抜けて、こうもあっさり、一介の空賊に占領できるものだろうか……。腑に落ちないな……”
飛鳥が見つめていることに気付くと、ルーシーは誤魔化すようように思考を散らした。
“いえ、何でもありません”
『アスカ、******』
“心配は無用です。我々がバビロンの守護神、不沈戦艦の誇称で呼ばれるているのは、何も虚仮威 しではありませんから”
青い双眸に自信と覇気を宿して、ルーシーは笑んだ。
この戦艦が、いかにも強そうな威容を誇っていることは知っている。だからこそ思う。彼等が戦う敵は、それほどの武装を要するのだろうか。
飛鳥にとって戦争は、教科書やテレビに映る別世界だった。平和な日常とは、縁遠い出来事……。
けれど、この艦も乗組員達も、当たり前のように武装している。ルーシーも然り。脇のホルターに光る鈍色のグリップを眺めていると、不意に頭を撫でられた。
“大丈夫ですよ”
「……」
頭を撫でられると、意識の全ては忽 ち大きな手に向かった。
慈しむように撫でられる。優しい手はなかなか離れていかない。心が浮き立つと同時に、魔法をかける前はなかった優しさ……なんて思い、またも煩雑な気持ちにさせられる。
自虐的なのだろうか。
心配してくれるルーシーの心を疑ってしまう。心を読めても、素直に受け取れない飛鳥が後ろ向き過ぎるのだろうか……。
気付かれないように、飛鳥は内心で深いため息をついた。
飛鳥が朝食を摂り終えた頃、ユーノと入れ違いで、数日ぶりにルーシーが部屋を訪れた。ちなみに、ユーノの心は相変わらず読めるし、飛鳥に対する態度も相変わらず丁寧なものである。原因は、ルーシー達にも判らないらしい。
ルーシーに対して、すっかり複雑な想いを抱いてしまったが、久しぶりに顔を見ると純粋に“嬉しい”と感じる。
飛鳥が笑顔で迎えると、ルーシーも『お早う』と穏やかに笑んだ。
『お早うございます』
“今日の夕方にはゴットヘイルに到着します”
飛鳥は頷いた。到着するということだけは、ユーノからも聞いている。
ルーシーは
「そんなこと出来るんだ!」
壁面の硝子タイルは、てっきり装飾だと思っていた。そんな用途があったとは。しかも映し出されている画像は――この世界の地図だ。
“すみません、説明すると言ってから、日が経ってしまいましたね。これは、バビロン空域の地図です”
『はい』
飛鳥は地図を見つめたまま応えた。ずっと知りたいと思っていた情報の一つだ。
“バビロンは皇帝陛下の
壁に映し出された地図は、当然だが飛鳥の知っている世界地図とはまるで違う。全く知らない地形、文字が描かれている。
ルーシーは、三日月形の島の東端を差すと、ヴィラ・サン・ノエル城と説明した。
“アスカのいた聖域は、ここです”
次に、三日月形のぽっかり空いた真ん中、やや上にある小さな孤島を差して“聖域”と説明した。
飛鳥はようやく、自分がこの世界のどこに降り立っていたのかを知った。
聖域からヴィラ・サン・ノエル城に到着するまで、およそ七日を要した。しかし、この空母の移動速度が判らないので、地図の縮尺がよく判らない。バビロンは、実際はどれくらいの大きさなのだろう……。
“無限空の気候は場所によって異なりますが、バビロンは寒冷地で、季節の変化は殆どありません。しばしば雪が降るような寒い土地です。ヴィラ・サン・ノエル城は、
「へぇ……」
言われてみると確かに、聖域も寒かった。
艦内は適温に保たれているが、外の甲板に出ると、全身の肌が粟立つほど寒い。空に浮かぶ世界だから、どこもかしこも全体的に寒いのかもしれない。
“バビロンは、バビロン教皇庁と呼ばれる、ラージュ教会を統率する組織によって統治される、魔導教会の中心地、総本山です。エルヴァラート・ディ・バビロン皇帝陛下は、バビロン教皇であり、またバビロン魔導学校長でもあらせられます”
皇帝陛下は確か十五歳と聞いている。その年で既に、皇帝陛下、教皇、そして学校長まで兼任していると言うのか。
“ラージュ教は、端的に説明すると、唯一神、始祖精霊アンフルラージュを信仰する一神教です。私を含め、バビロン帝国の領民のほぼ全員が、ラージュ教の信徒です”
アンフルラージュの名前には聞き覚えがある。古い魔法の知識の中に、刻まれた名前だ。あの偉大な双子の精霊の、産みの親でもあるはず……。
“あらゆる最高権威は陛下にありますが、実際のバビロン統治を行っているのは、バビロン帝国行政庁です。機関の長官を務めているのは、ルジフェル・エヴァンズ閣下、陛下の伯父君です。彼は空軍大将の一人でもあり、当艦の総指揮権も彼が有しています”
なるほど……と飛鳥は頷いた。バビロン帝国は、皇帝の独裁政治というわけではないらしい。皇帝の年を考えれば当然かもしれない。
リオンの思考にもよく登場するルジフェルという男は、いわば総理大臣並の権力を持っているようだ。
ゴットヘイルの訓令は、ルジフェルから受けたとルーシーは話していた。ルジフェルという男は、ルーシーの上司でもあるのだろう。
“今向かっているゴットヘイルはここです”
ルーシーは地図上のバビロンを差した後、北東に向けて指を滑らせ、小さな小島で止めた。バビロンに比べたら、比較にならないほど小さな島だ。
地図上の距離では、バビロンからゴットヘイルまで、聖域からバビロンのおよそ三倍だ。しかし、夕刻には到着するという。
ヴィラ・サン・ノエル城からゴットヘイルに針路変更したと聞いたのが五日前だ。ということは、今この空母は、かなり高速で移動しているのだろう。でないと、聖域から七日かけて城に到着したのに、三倍の距離を五日で稼げる説明がつかない。
理論上、高速移動していることになるが、これまで一度たりとも揺れを感じたことはない。
アメリカ行の飛行機に乗った時は、乱気流を通過する際、激しく揺さぶられたものだ。巨大な戦艦だから安定感が違うのだろうか。
“ゴットヘイルは人口三千人程度の小規模な浮島ですが、穏やかな気流に恵まれ、空運通商の中継地として栄えています”
「へえ……」
ゴットヘイルとは、どんな所なのだろう。この目で見てみたいが、恐らくここから出してはもらえまい。飛鳥は残念な気持ちで地図を眺めた。
“バビロン領空の中でも、重要港湾の一つです。巡洋艦の
ルーシーは美貌に苦々しい表情を浮かべた。
“これは、前々から懸念されていることでした。現在、新鋭戦艦級の建造が進められていますが、空賊の侵攻を許してしまった……”
飛鳥に説明をしながら、個人的な疑問を思い浮かべている。
“とはいえ、軍港……。幾重にも張られた
飛鳥が見つめていることに気付くと、ルーシーは誤魔化すようように思考を散らした。
“いえ、何でもありません”
『アスカ、******』
“心配は無用です。我々がバビロンの守護神、不沈戦艦の誇称で呼ばれるているのは、何も
青い双眸に自信と覇気を宿して、ルーシーは笑んだ。
この戦艦が、いかにも強そうな威容を誇っていることは知っている。だからこそ思う。彼等が戦う敵は、それほどの武装を要するのだろうか。
飛鳥にとって戦争は、教科書やテレビに映る別世界だった。平和な日常とは、縁遠い出来事……。
けれど、この艦も乗組員達も、当たり前のように武装している。ルーシーも然り。脇のホルターに光る鈍色のグリップを眺めていると、不意に頭を撫でられた。
“大丈夫ですよ”
「……」
頭を撫でられると、意識の全ては
慈しむように撫でられる。優しい手はなかなか離れていかない。心が浮き立つと同時に、魔法をかける前はなかった優しさ……なんて思い、またも煩雑な気持ちにさせられる。
自虐的なのだろうか。
心配してくれるルーシーの心を疑ってしまう。心を読めても、素直に受け取れない飛鳥が後ろ向き過ぎるのだろうか……。
気付かれないように、飛鳥は内心で深いため息をついた。