メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -

4章:出航 - 5 -

 手を取ったまま、ルーシーは飛鳥を見下ろす。

“……貴方の許しもなく、口づけてしまい、すみませんでした”

 真剣な青い眼を真っ直ぐに見ていられず、飛鳥は視線を伏せた。
 頬に伸ばされた手により、半ば顔を上げたけれど、怖くてまもとにルーシーの顔を見れない。

“正直に言えば、最初は手間がかかると思いました。言葉は通じないし、泣いてばかりで。どれだけ甘やかされて育ったのかと……まるで、十歳の子供のようでしたよ”

 十歳はいくらなんでも酷い。少々傷ついていると、ルーシーは更に追い打ちをかける。

“けれど、魔法にかけられて……手間がかかるとは思わなくなりました”

 魔法のおかげ。胸を締めつけるような苦しさに襲われていると、ルーシーは飛鳥の前髪をかき分け、額に口づけた。

「――っ」

 額を手で押さえて固まる飛鳥に構わず、ルーシーの告白は続く。

“きっかけが魔法ではいけませんか? 魔法でアスカに惹かれたことは確かですが、魔法が解けた後も、惹かれていましたよ”

「そ、それは後遺症……」

 混乱のままに呟くと、ルーシーは優しい眼をして、ふっと小さく微笑した。

“アスカは顔に出過ぎです。今の私の気持ちを、魔法の延長だと構えないでください”

 疑わしげに見上げていると、彼は親しみを込めた仕草で、飛鳥の前髪を撫でた。

“貴方に心を覗かれるのは、嫌ではありませんでした。照れたり、焦ったりする姿を見て、可愛らしいと感じていました”

 鼻の頭をつん、と突かれた――いつかのように。

“これほど誰かを気にかけたことはありません。貴方は、飛び降りたり、飛び出したり、攫われそうになったり……隔離室に入れても、少しもじっとしていられなくて、眼を離せませんでしたよ”

 責める言葉のはずなのに、そうは聞こえない。なぜだろう、甘やかされている気がする。じんわり視界が潤んだ。

“魔法が解けても、放っておけない。眼を離せない。空に落ちるアスカを捕まえた時、独りにしておけないと思いました。アスカを古代神器と知っていても”

 ぽろっと涙が零れると、ルーシーは長い指で、優しく目元を拭ってくれた。

“引き留めるものが何一つないだなんて、思わないでください”

「ルーシー……」

“居場所がないと思うのなら、私が貴方の居場所を作ります。ローズド・パラ・ディアに……私の傍にいてくれませんか?”

「――っ……」

“空へ消えようなんて、思わないでください”

「――ふ……っ」

 言葉と共に、ルーシーは飛鳥を優しく抱き寄せた。

“言っておきますけど、アスカは本当に手が掛かる。言葉は判らないし、お転婆だし、狙われやすいし……”

「ルーシー」

 ルーシーは両手で飛鳥の頬を挟みこんだ。

“それでもアスカが好きで、傍に置いて大切にしようなんて思う、立場も権力もある奇特な男は、無限空を探しても私くらいだと思いますよ”

 飛鳥は胸がいっぱいになって、深く頷いた。
 ルーシーと一緒がいい。空を翔ける鋼鉄のローズド・パラ・ディアに乗って、ルーシーやリオン、ロクサンヌ達と一緒に行きたい。

“一緒にきてくれますか?”

『はい……っ』

 飛鳥は深く頷いた。澱んだ心のおりが、涙と一緒に流れていくのを感じながら。

「私も、ルーシーの示してくれた居場所に、ふさわしくある努力をします……っ」

 飛鳥の方から、ルーシーの手を取って握りしめた。

『アスカ……』

「ちゃんと前を向いて、言葉を覚えて、この感謝の気持ちを、一日も早く、自分の口で言えるように……っ」

 額にキスが落ちる。

「変わって、いきたい。変わりたい!」

 涙の零れる眦にも。

「ルーシー、あ、ありがとう……『ありがとうございます』」

 ルーシーの手を額に押し当てて、ありったけの感謝を叫んだ。お辞儀した瞬間に、熱い雫がぱたぱたと雨粒のように落ちる。

『******……』

“好き……”

 ルーシーの囁くような声を受け取って、飛鳥は余計に目頭が熱くなった。

「好き」

 小さく囁くと、おとがいにを掬われて、上向かされた。端正な顔が降りてきて……瞳を閉じる。ゆっくり唇が重なった。
 触れるだけの、優しいキス。
 飛鳥を驚かすまいとする、彼の気遣いが感じられる。
 やがて顔が離れても、飛鳥は逃げずにルーシーの腕の中でじっとしていた。

“大人しいな……”

 ふと、ルーシーの窺うような心を読んで、飛鳥は微笑した。初めて会った時から、彼が飛鳥に対してよく思うことだ。
 飛鳥がじっとしていると、いつもそうして様子を窺う。最初からずっと、気に掛けてくれていた。
 飛鳥は背伸びをして、ルーシーの唇にキスしよう……と思ったが、届かなかった。失敗すると恥ずかしい。
 ようやく届く顎の先に、掠めるようなキスをすると、すぐに顔を伏せてルーシーに抱きついた。

『アスカ』

 ルーシーの驚いている気配がする。喜んでくれてもいる。ぎゅっとしがみついていると、頭上でルーシーの笑う気配を感じた。頭のてっぺんに優しいキスが落ちる。
 心が浮き立つほど、幸せだと思えた。
 ようやく――
 果てのない悪夢が終わる。救いようのない悲歎から、一歩を踏み出せた気がする。
 傍にいてくれると言うのなら、独りじゃないと言ってくれるのなら。頑張ってみよう。この空の世界で、生きてみよう。
 瞼の奥で、雫が輝くような笑顔で“頑張れ”と言ってくれた気がした。

 +

 ルーシーと共に、エルヴァラートの執務室を訪れると、年若い皇帝は飛鳥の顔を見るなり、全てお見通し、と言うように微笑んだ。
 優美な羽ペンを置いて、肘をついて小さな顎を乗せる。
 老成した叡知を思わせる、深い蒼の双眸で飛鳥を見やり、穏やかに笑んだ。

『******』

“決めたんだな”

『はい』

“辛くなったら、いつでも戻ってきていいぞ”

 優しいエルヴァラートの言葉に、飛鳥は表情を綻ばせた。

『ありがとうございます』

 エルヴァラートは飛鳥に笑いかけた後、ルーシーを見やって、凛々しい表情を浮かべる。次いで厳かに言葉を紡いだ。

『ルーシー、アスカ*************』

『*******』

“――必ず”

 ルーシーは決意を秘めた声で、はっきりと応えた。
 彼等の交わした言葉の意味は判らなかったが、飛鳥を見下ろすルーシーの眼差しはとても優しいものであった。

 +

 五日後。
 空中都市バビロンの遥か上空を、鈍色に光輝く鋼鉄の飛空戦艦――ローズド・パラ・ディア――は悠然と航過して行った。
 帝都に暮らす人々は、守護神、不沈艦の壮途そうとを見上げて、静かにアンフルラージュに祈りを捧げるのであった。

 この航空に、祝福あらんことを――