人食い森のネネとルル
1章:底なし沼の珍事と共生のはじまり - 1 -
天まで届くルーンガット山脈に囲まれた、暗くて、深いミゼルフォールの森――通称「人食い森」。
怖い怖い人食いの樹海、命が惜しければ決して踏み入るな――。
カタルカナユ・サンタ・ガブリールに暮らす領民なら、誰でも知っている常識である。
「人食い森」の噂話は数え上げればきりが無い。
立入禁止区域の鳴子を鳴らしてはいけない……。死霊が目を覚まし、迷い人を底なし沼に引きずりこむと言われている。
森に流れる、白い霧に捕まってはいけない……。吸い込めば、たちまち魂を奪われるという説もあれば、森に棲む恐ろしい死霊遣いの手下にされるという説もある。
森の樹木を傷つければ、時に幹から血が流れ、その者は呪われるという……。真偽の程は定かではないが、この街の領主、ガブール教会の大司教は「森の掟」を定め、無断で木を取った者、木を取り去ってひどい状態にした者に厳罰を課していた。森の保護を弄 う法度 にも聞こえるが、ガブリール信仰の強いこの地で、大聖堂 の権威が、厳重に森を取り締まることに、領民達は森への畏怖を掻きたてられていた。
本当に恐ろしいのは、これらの噂話を、完全には否定できないことである。
実際に、いるのだ。森の傍で、不気味な女の嘆き声を聞いた者、死霊を見た者、森で行方不明になった者……。
「人食い森」の不可解な怪奇は、カタルカナユ・サンタ・ガブリールの領民にとって、日々の暮らしと隣り合わせの恐怖であった――。
+
ヒィィ――……ッ!
昼でも陽の射さない、暗い森の奥深く。どこからか、不気味な叫び声が聞こえてきた。
ネネは、ふと顔を上げた。
爪先から頭のてっぺんまで茶色づくめの中、鋭い琥珀の瞳だけが光っている。
黒に近い焦茶色の狩猟ローブに、編み上げブーツ、手には大型クロスボウを持った勇ましい出で立ちの少女は、頭をすっぽりと覆うフードを下げて顔を露にした。
焦茶色の髪、鋭い琥珀の眼差し。褐色の肌。歳はまだ十五だが「人食い森」で密かに狩猟生活を営むネネは、年よりもずっと大人びて見えた。一六五センチの体躯には、大型クロスボウを操るしなやかな筋力がついている。
少女と呼ぶには甘さのない顔立ちに、警戒の色を浮かべて、周囲の様子を油断なく探る。
――人間? それとも死霊……?
物言わぬ死霊なら構わない。だけど人間なら、姿を見られるわけにはいかない……。
これから睡蓮沼――通称、黒沼と呼ばれる底なし沼――を抜けて、仕掛けた罠の回収に行くところであったが、声は睡蓮沼の方から聞こえてきた。さて、どうしたものか……。
――ようやく長雨も上がったし……、引き返すのはもったいないか。よし……、慎重に行こう。
ネネはしばらく身を潜めた後、獣道を通って睡蓮沼へ向かうことに決めた。
睡蓮沼は、生者を引き込む底なし沼、黒沼と呼ばれているが、沼自体はとても美しい景観をしている。睡蓮沼と呼ばれる通り、沼一面に仄かに色づく睡蓮が広がり、木漏れ日の差し込む姿は神秘的ですらある。沼をとりまく可憐な野花も目の保養だ。
例えば、薄い花弁が露に濡れて、まるで硝子細工のように透き通るサンカヨウの白い花。ほっそり慎ましい三日月草 、可憐な青色の勿忘草 、ふわふわの合歓木 ……、美しいものはたくさんある。
怪奇の類は本当だが……、この森が美しい秘境であることもまた真実だ。
獣道を抜けて睡蓮沼に出ると、周囲を警戒しながら沼に近付いた。睡蓮沼は「人食い森」の奥深くにある。普段から此処を歩く生きた人間は、ネネくらいのものだ。どうやら先程の悲鳴も、生きた人間のものではなかったらしい……。
睡蓮沼が、底なし沼であることは本当だ。この沼に一度沈めたものは、どんなものでも、二度と浮かび上がらない。
やましい隠し事は沼の底へ――。
立入禁止の警告を無視して、人知れず秘密を破棄する不届き者が後を絶たない。
時々、睡蓮の葉や枝に、思わぬ落し物が引っかかっていることがある。この間も、この沼で壊れた硝子と、血のついた矢じりを手に入れた。どちらも狩猟に役立つ貴重な道具になる。
水面に掘り出し物を求めて睡蓮沼を散策するのは、ネネの日課であり、密かな楽しみでもあった。
コポリ……。
ふと、微かに水泡の弾ける音が聞こえた。ネネは足を止めると、注意深く水面を見つめた。
コポ、コポ、コポ……。
続け様に水泡が弾ける。まるで何かが、浮き上がってくる前触れのようだ。一度沈めたものは、どんなものでも、二度と浮かび上がらないはずなのに……。
ネネは茂みに身を隠すと、固唾を呑んで、ぼこぼこと泡立つ水面を見つめた。
ザザァ――ッ!
水面を割り、飛沫をあげて現れたのは、分厚い鎖の絡まる鋼鉄の檻だった。檻の中には、一人の少年が囚われていた。
茂みに隠れていたのに、檻の中の少年はいともあっさりネネを見つけた。印象的な青い瞳と視線がぶつかる。
今までに見た、どの勿忘草 よりも鮮やかな青色の瞳――。
怖い怖い人食いの樹海、命が惜しければ決して踏み入るな――。
カタルカナユ・サンタ・ガブリールに暮らす領民なら、誰でも知っている常識である。
「人食い森」の噂話は数え上げればきりが無い。
立入禁止区域の鳴子を鳴らしてはいけない……。死霊が目を覚まし、迷い人を底なし沼に引きずりこむと言われている。
森に流れる、白い霧に捕まってはいけない……。吸い込めば、たちまち魂を奪われるという説もあれば、森に棲む恐ろしい死霊遣いの手下にされるという説もある。
森の樹木を傷つければ、時に幹から血が流れ、その者は呪われるという……。真偽の程は定かではないが、この街の領主、ガブール教会の大司教は「森の掟」を定め、無断で木を取った者、木を取り去ってひどい状態にした者に厳罰を課していた。森の保護を
本当に恐ろしいのは、これらの噂話を、完全には否定できないことである。
実際に、いるのだ。森の傍で、不気味な女の嘆き声を聞いた者、死霊を見た者、森で行方不明になった者……。
「人食い森」の不可解な怪奇は、カタルカナユ・サンタ・ガブリールの領民にとって、日々の暮らしと隣り合わせの恐怖であった――。
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ヒィィ――……ッ!
昼でも陽の射さない、暗い森の奥深く。どこからか、不気味な叫び声が聞こえてきた。
ネネは、ふと顔を上げた。
爪先から頭のてっぺんまで茶色づくめの中、鋭い琥珀の瞳だけが光っている。
黒に近い焦茶色の狩猟ローブに、編み上げブーツ、手には大型クロスボウを持った勇ましい出で立ちの少女は、頭をすっぽりと覆うフードを下げて顔を露にした。
焦茶色の髪、鋭い琥珀の眼差し。褐色の肌。歳はまだ十五だが「人食い森」で密かに狩猟生活を営むネネは、年よりもずっと大人びて見えた。一六五センチの体躯には、大型クロスボウを操るしなやかな筋力がついている。
少女と呼ぶには甘さのない顔立ちに、警戒の色を浮かべて、周囲の様子を油断なく探る。
――人間? それとも死霊……?
物言わぬ死霊なら構わない。だけど人間なら、姿を見られるわけにはいかない……。
これから睡蓮沼――通称、黒沼と呼ばれる底なし沼――を抜けて、仕掛けた罠の回収に行くところであったが、声は睡蓮沼の方から聞こえてきた。さて、どうしたものか……。
――ようやく長雨も上がったし……、引き返すのはもったいないか。よし……、慎重に行こう。
ネネはしばらく身を潜めた後、獣道を通って睡蓮沼へ向かうことに決めた。
睡蓮沼は、生者を引き込む底なし沼、黒沼と呼ばれているが、沼自体はとても美しい景観をしている。睡蓮沼と呼ばれる通り、沼一面に仄かに色づく睡蓮が広がり、木漏れ日の差し込む姿は神秘的ですらある。沼をとりまく可憐な野花も目の保養だ。
例えば、薄い花弁が露に濡れて、まるで硝子細工のように透き通るサンカヨウの白い花。ほっそり慎ましい
怪奇の類は本当だが……、この森が美しい秘境であることもまた真実だ。
獣道を抜けて睡蓮沼に出ると、周囲を警戒しながら沼に近付いた。睡蓮沼は「人食い森」の奥深くにある。普段から此処を歩く生きた人間は、ネネくらいのものだ。どうやら先程の悲鳴も、生きた人間のものではなかったらしい……。
睡蓮沼が、底なし沼であることは本当だ。この沼に一度沈めたものは、どんなものでも、二度と浮かび上がらない。
やましい隠し事は沼の底へ――。
立入禁止の警告を無視して、人知れず秘密を破棄する不届き者が後を絶たない。
時々、睡蓮の葉や枝に、思わぬ落し物が引っかかっていることがある。この間も、この沼で壊れた硝子と、血のついた矢じりを手に入れた。どちらも狩猟に役立つ貴重な道具になる。
水面に掘り出し物を求めて睡蓮沼を散策するのは、ネネの日課であり、密かな楽しみでもあった。
コポリ……。
ふと、微かに水泡の弾ける音が聞こえた。ネネは足を止めると、注意深く水面を見つめた。
コポ、コポ、コポ……。
続け様に水泡が弾ける。まるで何かが、浮き上がってくる前触れのようだ。一度沈めたものは、どんなものでも、二度と浮かび上がらないはずなのに……。
ネネは茂みに身を隠すと、固唾を呑んで、ぼこぼこと泡立つ水面を見つめた。
ザザァ――ッ!
水面を割り、飛沫をあげて現れたのは、分厚い鎖の絡まる鋼鉄の檻だった。檻の中には、一人の少年が囚われていた。
茂みに隠れていたのに、檻の中の少年はいともあっさりネネを見つけた。印象的な青い瞳と視線がぶつかる。
今までに見た、どの