人食い森のネネとルル

1章:底なし沼の珍事と共生のはじまり - 2 -

  この森で暮らして二年経つが、こんな異常な怪奇は見たことがない。
 いかにも重たそうな鋼鉄の檻が、独りでに水面から飛び出してきたのだ。重々しい鋼鉄の檻の四柱には、唯一神ガブリールの遣わす有翼の四大天使が彫られており、檻を雁字搦がんじがらめに縛る鎖は、魔を払う聖銀に見えた。
 こんなに厳重な檻に閉じ込められて、いわくつきの底なし沼に沈められたあの少年は、一体何者なのだろう……。
 檻も鎖からも、ぽたぽたと水がしたたっているのに、少年だけは濡れていない。艶やかな青銀色の髪をなびかせ、じっとネネを見つめている。人間離れした美貌に、空恐ろしいものを感じた。

 ――人間じゃない、よね……。綺麗な顔……、森の精? でも聖銀に封じられているなら、死霊の類……?

「っ、――!」

 ネネはヒュッと息を呑んだ。宙に浮いた檻が、狙いを定めたように、ネネの方へと独りでに近寄ってきたのだ。
 素早くクロスボウに銀矢をつがえると、少年の眉間に狙いを定めて鋭く叫んだ。

「待て、何者だっ!」

「私……?」

 異様な状況に似つかわしくない、落ち着いた優しい声色だった。しかし檻は止まらず、不気味に宙を滑りながら刻一刻とネネの方へと近づいてくる。

「それ以上、近寄るな!」

 鋭く叫ぶと、ピタリと檻は宙で止まった。
 四肢を鎖に繋がれた少年は、困ったというように、小首を傾げている。人にあらざる美しさだ……。精巧なビスクドールのように、完璧に整った白い顔。あどけなさを残す美貌は、性別を超越していた。時代錯誤な煌びやかな恰好をしているが、背中に流れる青銀色の髪も、鮮やかな勿忘草わすれなぐさより尚青い瞳も美しい。見る者を魅了する魔性の瞳だ。仄暗い森の中で、青い瞳が異様に輝いて見える。

「どうしよう。困ったなぁ、全部忘れちゃった」

 何を言っているのだろう……。眉を潜めるネネに、少年は縋るような眼差しを向けた。

「貴方、助けてくれる?」

「助ける……?」

「そう。中からは開けられないから……。その矢で、私の胸を射ってもらえる?」

「――!?」

 正気だろうか。ネネが番えているのは、魔を払う聖銀矢だ。少年が魔性の類なら、掠めるだけでも致命傷になりかねない。

「さぁ、射って」

「さぁ、って言われても……」

 ネネが困惑の声を上げると、少年はいいことを思いついたというように、ふわりと微笑んだ。

「これならどう? 射ってくれたら、何でも一つ願いを叶えてあげる」

「何でも?」

「そう、何でも。欲しいものがあれば何でもあげるし、行きたい場所があれば、何処へでも連れて行ってあげる」

 行きたい場所などないが、欲しいものならある。矢を射る対価にもらえるなら、うまい話だと欲がうずいた。

「……その檻の鎖、聖銀?」

「そうみたい」

「なら……、その聖銀の鎖が欲しい」

「こんな物が欲しいの? いいよ、あげる」

「矢を射るだけね?」

「うん」

 ネネは「いいだろう」と応えると、慎重に後ろへ下がった。檻から十分に距離を取ると、少年に声をかけた。

「よし……、動いていいよ。その茂みの上に降りて」

「こう?」

 少年はネネの指定した茂みの上に、檻を着地させた。浮力が切れた途端、ズシンッと大地を震動させて、地面にめりこむ重たい音を響かせた。やはりあの檻は、本来とても重い鋼鉄の塊なのだろう。宙に浮かせていた少年の霊力は、とても強いのかもしれない。

「アンタ、運がいい。アタシ、弓には自信あるんだ。この距離なら、絶対に外さない……。好きな場所に射ってやるよ。何処がいい?」

「血が流れる場所がいいかなぁ……」

「アンタ……、クロスボウの威力を分かってる?」

 急所に入れば、猪だって仕留められる。あんな華奢な身体、急所を貫けば血が流れるどころでは済まないだろう。

「じゃぁ、心臓を狙ってくれる?」

「死にたいの?」

「死にたくないよ。死なないから、平気」

「アンタ、何者なの?」

 少年は困ったように、表情を曇らせた。

「それが、思い出せなくて……。完全に沈む前に、どうにか浮き上がってこれたんだけど、時間がかかりすぎたみたい。全部消えちゃった」

「記憶ないの? 死なない根拠はあるの?」

「うん、名前も思い出せない。あ、でも……、本当に死なないから、それは心配しないで」

 別に、心配はしていない。死んだら金品だけとって、睡蓮沼にもう一度落とせばいいだけだ。
 陽が暮れる前に、仕掛けた罠を確認しに行きたい。さっさと終わらせようと、ネネは狩の姿勢に入った。

「――じゃ、射るよ」

「うん、お願い」

 シュッ――。
 鋭い音と共に、矢は鋼鉄の隙間をすり抜けて少年の心臓に命中した。