人食い森のネネとルル

1章:底なし沼の珍事と共生のはじまり - 3 -

 寸分違わず、矢は少年の心臓に突き刺さった。
 死んだと思ったのに。見る見るうちに、少年の全身から青い霊力が溢れ出し、胸に刺さった矢はサラサラと砂のように崩れ落ちた。
 堅牢けんろうな檻がいびつな音を立てる。
 パキィンッ!
 硬質な音を響かせて、少年の四肢を繋ぐ鎖が弾け飛んだ。分厚い聖銀の鎖も、硬質な悲鳴を上げてじ切られた。
 ギギギ……ッ!
 まるで鋼鉄の断末魔だ。耳朶に響く鋼のへし曲げられる音。こんな音、今まで聞いたことがない。一体どれだけの力が、あの分厚い鋼鉄の檻に働いているのだろう。

 ――アイツ、とんでもない怪物かもしれない。

 尋常じゃない破壊音は、滅多に怖気おじけづかないネネを震え上がらせた。矢を番える手が震えて、少年に合わせた照準が左右にぶれる。

「ふぅ……」

 とうとう少年は、檻の中から出てきた。禍々しい鋼鉄の残骸の傍らで、肩を揉んだり、背伸びをしたり……、緊張感に欠ける仕草を繰り返している。

「あ――っ、清々しいっ!」

 満面の笑みを浮かべる少年に、何だか毒気を抜かれた。照準から目を離すと、改めてピンピンしている少年の全身を眺めた。心臓に刺さったはずの矢は、もはや跡形もない。

「アンタ……、それ、どうやったの?」

「貴方! ありがとうっ! 出られたよ」

 少年はスキップを始めそうな勢いで、駆け寄って来た。慌てて照準を絞ると、「止まれ!」と鋭い静止の声を上げた。

「どうして?」

「煩い、傍に来るな。約束は守ったよ。聖銀は、明日取りにくる。その茂みに置いておいて。その馬鹿力で、等間隔に細かく切れる?」

 少年は「こう?」と首を傾げながら、人差し指を振り下ろした。たったそれだけの動作で、分厚い聖銀のかたまりは、いともあっさり細切れになる。ぞぉっと背筋が冷えた。

 ――怖ぇ……、聖銀も平気で触るなんて、只の魔性じゃない。とっとと、逃げよう!

「これでいい?」

「いいよ。その捻じれた檻は沼に落として」

「任せて」

 少年は鋼鉄の残骸に手をかざすと、宙にふわりと浮かせて、紙をグシャッと丸めるように、鋼を無茶苦茶に折り曲げて、丸い形状へと近付けていった。
 ギギィッ! ゴンッゴンッゴンッゴンッ……!
 聞くに耐えない、歪な音がこだまする。
 森に棲む烏達は怯えたように、四方の空へ逃げて行った。ネネはとうとうクロスボウから手を離すと、たまらずに両手で耳を塞いだ。

 ――おおおっかねぇ! 何やってんだ、アイツ……ッ!?

「――ふぅ、スッキリした」

 少年は満足そうに微笑むと、角が取れて丸くなった鋼の塊を、最後はポイッと沼に落とした。騒々しい飛沫を上げて、沼の底に消えて行く――。

「あとは?」

 少年はネネを振り返ると、無邪気に小首を傾げて問いかけた。

「もう、いいよ……。何処へでも、行けば」

「そう? なら、貴方と一緒がいいな」

 少年はふわりと笑った。
 ぞっとした。ああ……、とんでもないモノに手を貸してしまった。

「断る。自由になったんだから、何処へでも行けばいい。もう戻ってくるな」

「でも、何も覚えていないんだもの。何処へ行けばいいかも、分からないし……。貴方は、この森に住んでいるの?」

 そうだ、とは答えたくなかった。正体不明の魔性に、棲家すみかを知られたくない。答えを迷っていると、少年は「こうしよう」と勝手に話を進め始めた。

「もう一つ、何でも願いを叶えてあげる。そうしたら、貴方と一緒にいてもいい?」

「取引はもういい。これで終いだ、何処へでも行きな」

「そんなこと言わないで、何でも叶えてあげるんだよ? 何かないの?」

「ふぅん。じゃぁ……、ルーンガット山脈の頂上で採れる、最高純度の火石リンタイトを、明日までに両手一杯に欲しい」

 体のいい断り文句のつもりだった。ルーンガット山脈は天にも届く高山だ。先ず辿り着けない。明日までに両手一杯の火石を採掘してくるなんて、無理難題にも程がある。
 少年は分かっていないのだろう。「交渉成立だね」と嬉しそうに笑った。

「じゃあ、アタシはもう行くから……。明日の昼、ここに置いた聖銀を取りにくる。もし石を持ち帰ることが出来たら、その時に見せて」

「任せて」

 少年は嬉しそうに笑うと、ポォン……、と高く跳躍して、たちまち森の彼方へ姿を消した。
 辺りには何事も無かったように、静けさが戻ってきた。

 ――行った……? まさか、本当に採りに行く気じゃ……、なわけないか。

 ネネは首を振ると、こんもり山を築いている聖銀の欠片を、土を掘って埋めた。その上から枯葉をかける。明日掘り起こして、棲家に持ち帰ろう。
 少々肝は冷えたが、良い取引をした。おかげで貴重な聖銀が山ほど手に入った。
 ネネは、ほくほくとした気持ちで睡蓮沼を立ち去った――。