人食い森のネネとルル
1章:底なし沼の珍事と共生のはじまり - 4 -
ネネは日が暮れる前に、棲家へ戻ってきた。
そこは切り立った傾斜の岩山で、無数の大樹が生えている。大樹の洞 や、太い幹の上、あるいは岩山に、岩と樹が一体化したような家が、ちらほらと建っている。集落のように見えるが全て空き家で、生きている住人はネネ一人しかいない。
寂しい所だが、木漏れ日の射す美しい場所だ。
青や薄紫色に輝く、カンパニュラの花があちこちに咲き乱れ、足元を明るく照らしてくれる。軒先に吊るされたアンティークなカンテラ、可愛らしい小窓、苔むす屋根……、まるでお伽噺の世界だ。
ただし、日が暮れたら決して家の外へ出てはいけない。明かりを消して、音を立てずに、息を潜めなければいけない。夜は闇に潜む者達の世界だ。見つかれば何が起こるか分からない。
細いアーチ型の石橋を渡った先が、ネネの暮らす三階建ての棲家だ。罠で仕留めた猪を納屋にどさりと下ろすと、思わずため息をついた。
これから日が暮れるまでに、やらなければいけない仕事は多い。
一階の暖炉に火を点けて、火石 をくべた後、納屋へ戻り、猪を太い幹に吊した。腹を捌 いて血抜きをしかける。大きな獲物なので、明日は解体に半日かかるだろう。
熱した火石を取り出して、裏庭の畑に埋め込む。椎茸 を栽培しているクヌギの木には毛皮をかけた。全て夜間の極寒から守る為だ。
雑務をこなすうちに、あっという間に日が暮れた。睡蓮沼で思いのほか時間を使ってしまった為、いつもより時間がかかってしまった。
一通り仕事を終えると、戸締りをしっかり確かめて、家中の明かりを落とした。質素な夜着に着替えて、固い寝台に横になる。目を閉じると、夜の静寂 に森の声が聞こえてきた……。
オォ――ン……
ズッ……、ズズズ……、ズッ……
ホォ……、ホォ……
獣や虫達の声。不気味な足音。風に揺れる梢の音……。もう、すっかり聞きなれた、夜の音だ。
眠りに落ちる間際、睡蓮沼で出会った、不気味な少年のことをふと思い出した。
――アイツ……、結局、何だったんだろう。明日、睡蓮沼に来るかな……。火石を持ってこれるわけないんだ。諦めるかなぁ……。
コンコン……。コンコン……。
「ん……」
ネネはうっすら目を開けた。聞き間違いだろうか……、今、窓を叩く音が聞こえたような……。
「ねぇ、貴方。開けて?」
窓の外から、人の声が聞こえた――。
ネネは、カッと目を開いて跳ね起きると、枕元に置いたナイフに手を伸ばした。
此処は三階で、今は夜だ……。生者の訪れではない。
「約束通り、持って来たよ。ルーンガット山脈の頂上で摂れる、最高純度の火石を両手いっぱいに」
――えっ? アイツ――ッ!?
冷や汗が噴き出した。心臓がバクバクと音を立てる。
「ねぇ、開けてよ……。勝手に入るよ?」
――冗談じゃない……っ!
ネネはすり足で窓辺へ寄った。カーテンは開けずに、声をかける。
「まだ早い。明日の昼、睡蓮沼と言った」
「でも、もう採ってきちゃったし……。暇なんだもの。久しぶりに動いたから、もうへとへとで……、お腹も空いちゃってさぁ」
「だめ、まだ早い。夜は会えない。余所へ行きな」
「そんなこと言わないで、急いで持ってきたのに。褒めてくれないの?」
――持ってきただぁ? そんな馬鹿な……。碌でもないものを持ってきたんじゃあるまいな……。
「本当に持ってきたの? ルーンガット山脈の頂上から?」
「そうだよ」
「それは、どんな形してる?」
「え? 火石? ゴツゴツしているよ。大きいのを選んで持ってきたよ」
「どんな色?」
「灰色かなぁ」
「どんな匂い?」
「えぇ? ……ん、土の匂いがする。土の中に埋まってたもの」
火石がどういうものか、一応知識はあるようだ。ネネは少年が本当に持ってきたとは、これっぽっちも信じていなかった。
「それじゃあ、入るね。窓は小さいから、下の扉から入るよ」
「えっ!?」
許可した覚えはない。それじゃあ、ってどういうことだ。ネネは恐々カーテンを捲 った。少年の姿は何処にもない。
カタン、と下から物音が聞こえて、勢いよく振り返った。
慌てて階段を下りると、扉の前に、腕いっぱいに火石を抱えた少年が立っていた。目が合うと、闇夜に光る青い目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。
そこは切り立った傾斜の岩山で、無数の大樹が生えている。大樹の
寂しい所だが、木漏れ日の射す美しい場所だ。
青や薄紫色に輝く、カンパニュラの花があちこちに咲き乱れ、足元を明るく照らしてくれる。軒先に吊るされたアンティークなカンテラ、可愛らしい小窓、苔むす屋根……、まるでお伽噺の世界だ。
ただし、日が暮れたら決して家の外へ出てはいけない。明かりを消して、音を立てずに、息を潜めなければいけない。夜は闇に潜む者達の世界だ。見つかれば何が起こるか分からない。
細いアーチ型の石橋を渡った先が、ネネの暮らす三階建ての棲家だ。罠で仕留めた猪を納屋にどさりと下ろすと、思わずため息をついた。
これから日が暮れるまでに、やらなければいけない仕事は多い。
一階の暖炉に火を点けて、
熱した火石を取り出して、裏庭の畑に埋め込む。
雑務をこなすうちに、あっという間に日が暮れた。睡蓮沼で思いのほか時間を使ってしまった為、いつもより時間がかかってしまった。
一通り仕事を終えると、戸締りをしっかり確かめて、家中の明かりを落とした。質素な夜着に着替えて、固い寝台に横になる。目を閉じると、夜の
オォ――ン……
ズッ……、ズズズ……、ズッ……
ホォ……、ホォ……
獣や虫達の声。不気味な足音。風に揺れる梢の音……。もう、すっかり聞きなれた、夜の音だ。
眠りに落ちる間際、睡蓮沼で出会った、不気味な少年のことをふと思い出した。
――アイツ……、結局、何だったんだろう。明日、睡蓮沼に来るかな……。火石を持ってこれるわけないんだ。諦めるかなぁ……。
コンコン……。コンコン……。
「ん……」
ネネはうっすら目を開けた。聞き間違いだろうか……、今、窓を叩く音が聞こえたような……。
「ねぇ、貴方。開けて?」
窓の外から、人の声が聞こえた――。
ネネは、カッと目を開いて跳ね起きると、枕元に置いたナイフに手を伸ばした。
此処は三階で、今は夜だ……。生者の訪れではない。
「約束通り、持って来たよ。ルーンガット山脈の頂上で摂れる、最高純度の火石を両手いっぱいに」
――えっ? アイツ――ッ!?
冷や汗が噴き出した。心臓がバクバクと音を立てる。
「ねぇ、開けてよ……。勝手に入るよ?」
――冗談じゃない……っ!
ネネはすり足で窓辺へ寄った。カーテンは開けずに、声をかける。
「まだ早い。明日の昼、睡蓮沼と言った」
「でも、もう採ってきちゃったし……。暇なんだもの。久しぶりに動いたから、もうへとへとで……、お腹も空いちゃってさぁ」
「だめ、まだ早い。夜は会えない。余所へ行きな」
「そんなこと言わないで、急いで持ってきたのに。褒めてくれないの?」
――持ってきただぁ? そんな馬鹿な……。碌でもないものを持ってきたんじゃあるまいな……。
「本当に持ってきたの? ルーンガット山脈の頂上から?」
「そうだよ」
「それは、どんな形してる?」
「え? 火石? ゴツゴツしているよ。大きいのを選んで持ってきたよ」
「どんな色?」
「灰色かなぁ」
「どんな匂い?」
「えぇ? ……ん、土の匂いがする。土の中に埋まってたもの」
火石がどういうものか、一応知識はあるようだ。ネネは少年が本当に持ってきたとは、これっぽっちも信じていなかった。
「それじゃあ、入るね。窓は小さいから、下の扉から入るよ」
「えっ!?」
許可した覚えはない。それじゃあ、ってどういうことだ。ネネは恐々カーテンを
カタン、と下から物音が聞こえて、勢いよく振り返った。
慌てて階段を下りると、扉の前に、腕いっぱいに火石を抱えた少年が立っていた。目が合うと、闇夜に光る青い目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。