人食い森のネネとルル

2章:ルルの秘密 - 4 -

 今夜はせっかく鹿肉を手に入れたのに、ルルのせいで空気が悪くなってしまった。同じ部屋にいたくない……。
 項垂れるルルを放置して、外にある浴槽小屋へ向かった。
 ルルの建ててくれた木造の浴室は、檜の良い香りがする。外に浴槽を置くと言い出した時は、本気かと疑ったし、余計なことはするなとも言ったが、いざ建つと非常に便利で気持ちのいいものだった。

 ――ルルは常識がないところもあるけど、優しいよね……。常識がないって、アタシも人のこと言えないし……。

 ルルの傷ついた顔が頭から離れない。そんなに酷いことを言ってしまったのだろうか……。

 ――謝った方が、いいのかなぁ……。出て行けよなんて、嘘だよ、言い過ぎてごめん、って?

 しかしネネだけが謝るのも、可笑しな話だ。

 ――いやいや……、元はといえば、ルルが……。

 一連の出来事を思い出したら、深い口づけの感触が蘇り、カッと顔が熱くなった。思わず唇を押さえてうつく。誰も見ていないのに、羞恥に耐え切れず、湯船に頭まで沈み込んだ。
 ルルはキスなんて、日常茶飯事なのだろうか。いかにも経験がありそうな口ぶりだった。
 ネネはルルとしかキスの経験がないから、よく判らないけれど……、あんなに恥ずかしいことを照れもなく流れるようにするルルは、やはり手慣れていて経験が豊富なのだろうと思う。
 誰と比べて、お子様だよね、なんて言ったのだろう――。
 怒りが先行して気付いていなかったが、ネネもまた、ルルの言葉に傷ついていた。

 髪も身体も綺麗に洗って、蜂蜜の香りに包まれた。ルルが街で買ってくれた石鹸のおかげだ。
 複雑な思いを消化できないまま家に入ると、ルルの姿は何処にも見当たらなかった。

 ――まさか、本当に出て行ったのかな……。ふん、アタシの知ったことか。

 寝台に横になると、さっさと眠ってしまえと無理やり思考を打ち切った。どうせ明日になれば、けろりとした顔で戻ってくるだろう……。
 ところが、翌朝になってもルルは戻らなかった。
 全く、何処へ行ったのだろう。気になって出掛けることも出来やしない。やきもきしながら雑用をこなし、畑仕事をこなすうちに日が落ちてきた。

 ――何処にいるんだよ……、ルル……。

 いよいよ心配になり、ネネはとうとう作業の手を休めて空を見上げた。
 洋服屋で聞いた、娘の話が脳裏をかすめる――。

大聖堂カテドラルに武装兵が集まっているみたいなのよ。あなた達も、森の立入禁止区域の奥へは、絶対に入ってはだめよ。捕まれば、罰金どころじゃ済まされないかもしれないわ”

「――アイツッ! 手のかかるっ!」

 ネネは声に出して立ち上ると、森の奥を睨んだ。もうすぐ日が暮れる。人食い森が目覚める――闇に潜む者の時間だ。
 矢筒に聖銀矢を詰めると、狩猟ローブを羽織り、大型クロスボウを手に取って棲家を飛び出した。
 出来れば、日が暮れる前にルルを見つけたい――。
 調査隊のうろついている睡蓮沼へと向かう途中、三人組の調査隊を見つけた。
 人食い森をまるで判っていない彼等は、声も落とさず、盛大に足音を鳴らして森を歩いている。生い茂る木々をレイピアで悪戯に切りつけては、森を怒らせていることに気付いていないのだろうか。足元の影から、死霊たちの手が不気味に伸びているというのに……。

 ――日が暮れたら、こいつらは終わりだな。

 とばっちりはご免だと、距離を取ろうとしたら、ふと気になる会話が聞こえてきた。

「……おい、聞いたか? 昨日あそこへ行った奴が、やっぱり次の日には戻らなかったって……」

「沼をいくらさらったところで、何も見つかりやしないのによ」

「底なし沼だもんな……。でも聖銀の欠片は見つかったんだろ?」

「ああ、そうさ。だから領主様も諦め切れねぇのさ。しかもゴトフリー様の話じゃ、沼から鋼鉄の檻が出て来るのを見たっていうんだ」

「嘘くせぇ、黒沼からどうやったら鋼鉄が浮かび上がるんだよ。こんな不気味な森、いっそ焼き払っちまえばいいのによ」

 心臓が止まるかと思った――。

 ――あの光景を、見られていた……?

 ネネは血が滲むほどに、きつく唇を噛みしめた。睡蓮沼の出来事を見ていた人物がいるのなら、ネネとルルの姿も見られた可能性が高い。
 黒沼から、一度沈んだ物が浮かびあがるなんて、ましてや鋼鉄が浮かび上がるだなんて与太話よたばなし、普通なら相手にされない。でも――聖銀の欠片を見つけたと彼等は言った。だから領主も諦め切れないとも……。
 檻に絡む聖銀の鎖を刻むよう頼んだのは、ネネだ。茂みに落ちた欠片を、あるいは掘り起こし忘れた欠片を見つけられたのだ。

 ――くっそ、とちった……!

 取り返しのつかない失敗だ。見つかれば、本当に何をされるか判らない。ルルは無事なのだろうか……。

 日が暮れる――。
 彼等の足元から、不気味な黒い影が伸びあがった……。

「な、何だ……っ!?」

「うあぁ、ああ――っ!!」

 異変に気付いた彼等は、闇に潜む者達に向かって聖銀弾を発砲した。パァンッと空気を裂く音と共に、火薬の匂いが辺りに立ち込める。
 狙いは外れ――発砲音で闇の眷属を引き寄せただけ。助けを求めて空へと伸ばされた腕も、死霊に引きずりこまれて、やがては闇の中に消えた……。