人食い森のネネとルル
4章:ネネとルルと恋心 - 2 -
ルルがいなくても、時間は流れて行く。
すっかり落ち込んでいても、日々こなしていた畑仕事や狩猟を変わらずに続けた。
あれ以来、一度もカタルカナユ・サンタ・ガブリールの街には降りていない。
人食い森に関する新たな発布は出されたのか、ルルは、調査隊達はどうなったのか……、気になることは多いが、ミハイルに再び会う可能性を考えると、恐ろしくてとても降りる気になれなかった。
人食い森には、誰もやってこない。
役人も、調査隊も……誰もネネを探しにこない。人食い森の中にいれば、安全だった。
ルルが消えた後、しばらく抜け殻のような生活を送っていたので、正直、見つからずに済んで助かった。
一番酷い状態の時に見つかっていたら、碌な抵抗も出来ないうちに捕えられていただろう。
必需品の岩塩や火石 はとうに切れてしまっている。
代用品でどうにか凌 いできたが、それもそろそろ限界だ。
いい加減、カタルカナユ・サンタ・ガブリールの街に買い出しに降りるか、ルーンガット山脈に登って現地調達するしかない。
普通に考えれば街で買うべきなのだが……、ネネは大勢の調査隊に顔を見られている。
迂闊に街へ降りれば、あっという間に見つかってしまうかもしれない。
――仕方ない、ルーンガット山脈に登るか……。
断崖絶壁の恐ろしい高山だが、あらゆる資源の宝庫で、岩塩も火石も、採掘場に辿りつきさえすれば、基本的に採り放題だ。
山の麓 は人食い森の最奥にあり、立入禁止区域の中にあるため、邪魔者は誰もいない。
ネネは覚悟を決めた。
魔性のルルは一日もすれば行って帰ってきたが、人の身であるネネはどんなに早くても往復に七日かかる。
テントや食料を背負って、棲家を後にした。
幸い天候に恵まれて、行きは比較的順調に登ることが出来た。
食料と水も余裕がある。
この調子なら、もう少し早く帰れるかもしれない。
高い峰から見下ろすと、人食い森とは思えぬ、とても美しい青々とした樹海が見渡す限り広がっていた。
頂上から反対側へ降りれば、断崖絶壁の向こうに、紺碧の海が広がっていると聞いたことがある。
ネネは生まれてから、一度も海を見たことがない。
人食い森を出て行くつもりはないけれど、こうして素晴らしい峰からの絶景を眺めていると、海とはどんなものだろうと、まだ見ぬ世界に思いを馳せた。
座るのにちょうどいい岩山を見つけては、テントを張って夜を明かした。
そして三日目の昼には、ついに採掘場へ辿り着いた。
ネネはかつてないほど、大きな達成感を味わった。
この感動をくれた、ルーンガット山脈にキスをしたいくらいだ。実際、目の前の張り出した冷たい巨岩に、衝動的にキスをした。
感謝の気持ちに溢れ、あらゆる負の感情は消化される。心から満たされた。
そして、唐突に思った。
――許そう。ルルがアタシにしたことを、許そう。
右手の甲を陽に翳 した。
忌まわしい奴隷の焼き印を、ルルは消し去ってくれた。自由と希望をくれた。ルルがくれたものは、他にもたくさんある。
それら全てに目を瞑って、ネネにした仕打ちだけを責めるのは、間違っている。
――ルルは、アタシに酷いことをしたのかもしれない。でも……、ルルの話も聞かず、一方的に突き放したのはアタシだ。ミハイルに何を言われても、あの時、ルルの話を最後までちゃんと、聞くべきだったんだ……。
ルルにもう一度会いたい。もしも、また会うことが出来たなら……、その時は、ネネの方から謝ろう――。
採掘を終えて、さぁ引き返そうとした途端、天候が崩れた。
一寸先も見えぬ吹雪に身の危険を感じて、岩影にテントを張り、寒さに震えながら三日三晩過ごした――。
その間に、持ってきた食料を食い尽くしてしまった。
このまま天候が回復しなければ、ここで飢え死にもありえる……。
冷たい雪を齧 って飢えを凌いでいたけれど、それも限界に近い。
身体は少しでも発熱しようと、ひっきりなしに震えている。震えからくる消耗で、体重はどんどん落ちていった。
天候が晴れても、体力の落ちたこの身体で、果たして無事に下山できるのだろうか。
四日目は、いよいよ死を覚悟した。外は相変わらずの猛吹雪だ。びょうびょうと、喧 しい風の音にもすっかり慣れた。
森に寄り添って生きていたから、いつかこんな日がくるかもしれないと、覚悟はしていた。普通の人のように、寝台の上で往生することはないのだろうと……。
瞳を閉じると、少しも色褪せない、ルルの笑顔が想い浮かんだ。
少し前は、思い出すことも辛くて、早く忘れたいとばかり思っていたのに……。
今は、鮮明に思い出せることが嬉しい。
――ルルの青い勿忘草 の瞳のおかげかな……。
あの瞳の色を、忘れるなんて出来っこない。
”私を忘れないで”……花言葉の通りだ。
少しも色褪せない……なんて、綺麗な青なんだろう……いつでも思い出せる……。
――ルル……、ごめんね……。
「ネネ」
死の縁で、懐かしい声を聞いた。ずっと聞きたかった、ルルの声だ……。
すっかり落ち込んでいても、日々こなしていた畑仕事や狩猟を変わらずに続けた。
あれ以来、一度もカタルカナユ・サンタ・ガブリールの街には降りていない。
人食い森に関する新たな発布は出されたのか、ルルは、調査隊達はどうなったのか……、気になることは多いが、ミハイルに再び会う可能性を考えると、恐ろしくてとても降りる気になれなかった。
人食い森には、誰もやってこない。
役人も、調査隊も……誰もネネを探しにこない。人食い森の中にいれば、安全だった。
ルルが消えた後、しばらく抜け殻のような生活を送っていたので、正直、見つからずに済んで助かった。
一番酷い状態の時に見つかっていたら、碌な抵抗も出来ないうちに捕えられていただろう。
必需品の岩塩や
代用品でどうにか
いい加減、カタルカナユ・サンタ・ガブリールの街に買い出しに降りるか、ルーンガット山脈に登って現地調達するしかない。
普通に考えれば街で買うべきなのだが……、ネネは大勢の調査隊に顔を見られている。
迂闊に街へ降りれば、あっという間に見つかってしまうかもしれない。
――仕方ない、ルーンガット山脈に登るか……。
断崖絶壁の恐ろしい高山だが、あらゆる資源の宝庫で、岩塩も火石も、採掘場に辿りつきさえすれば、基本的に採り放題だ。
山の
ネネは覚悟を決めた。
魔性のルルは一日もすれば行って帰ってきたが、人の身であるネネはどんなに早くても往復に七日かかる。
テントや食料を背負って、棲家を後にした。
幸い天候に恵まれて、行きは比較的順調に登ることが出来た。
食料と水も余裕がある。
この調子なら、もう少し早く帰れるかもしれない。
高い峰から見下ろすと、人食い森とは思えぬ、とても美しい青々とした樹海が見渡す限り広がっていた。
頂上から反対側へ降りれば、断崖絶壁の向こうに、紺碧の海が広がっていると聞いたことがある。
ネネは生まれてから、一度も海を見たことがない。
人食い森を出て行くつもりはないけれど、こうして素晴らしい峰からの絶景を眺めていると、海とはどんなものだろうと、まだ見ぬ世界に思いを馳せた。
座るのにちょうどいい岩山を見つけては、テントを張って夜を明かした。
そして三日目の昼には、ついに採掘場へ辿り着いた。
ネネはかつてないほど、大きな達成感を味わった。
この感動をくれた、ルーンガット山脈にキスをしたいくらいだ。実際、目の前の張り出した冷たい巨岩に、衝動的にキスをした。
感謝の気持ちに溢れ、あらゆる負の感情は消化される。心から満たされた。
そして、唐突に思った。
――許そう。ルルがアタシにしたことを、許そう。
右手の甲を陽に
忌まわしい奴隷の焼き印を、ルルは消し去ってくれた。自由と希望をくれた。ルルがくれたものは、他にもたくさんある。
それら全てに目を瞑って、ネネにした仕打ちだけを責めるのは、間違っている。
――ルルは、アタシに酷いことをしたのかもしれない。でも……、ルルの話も聞かず、一方的に突き放したのはアタシだ。ミハイルに何を言われても、あの時、ルルの話を最後までちゃんと、聞くべきだったんだ……。
ルルにもう一度会いたい。もしも、また会うことが出来たなら……、その時は、ネネの方から謝ろう――。
採掘を終えて、さぁ引き返そうとした途端、天候が崩れた。
一寸先も見えぬ吹雪に身の危険を感じて、岩影にテントを張り、寒さに震えながら三日三晩過ごした――。
その間に、持ってきた食料を食い尽くしてしまった。
このまま天候が回復しなければ、ここで飢え死にもありえる……。
冷たい雪を
身体は少しでも発熱しようと、ひっきりなしに震えている。震えからくる消耗で、体重はどんどん落ちていった。
天候が晴れても、体力の落ちたこの身体で、果たして無事に下山できるのだろうか。
四日目は、いよいよ死を覚悟した。外は相変わらずの猛吹雪だ。びょうびょうと、
森に寄り添って生きていたから、いつかこんな日がくるかもしれないと、覚悟はしていた。普通の人のように、寝台の上で往生することはないのだろうと……。
瞳を閉じると、少しも色褪せない、ルルの笑顔が想い浮かんだ。
少し前は、思い出すことも辛くて、早く忘れたいとばかり思っていたのに……。
今は、鮮明に思い出せることが嬉しい。
――ルルの青い
あの瞳の色を、忘れるなんて出来っこない。
”私を忘れないで”……花言葉の通りだ。
少しも色褪せない……なんて、綺麗な青なんだろう……いつでも思い出せる……。
――ルル……、ごめんね……。
「ネネ」
死の縁で、懐かしい声を聞いた。ずっと聞きたかった、ルルの声だ……。