PERFECT GOLDEN BLOOD

1章:十七歳の誕生日 - 2 -

「怖がらないで、君を傷つけたりしないから。怪我はしていない?」
 その声には、紛れもない気遣いが感じられた。彼の顔が見たくて、小夜子はフードのなかを覗きこもうとしたが、暗くて見えなかった。さっきは光ったように見えた双眸も、今は影に溶けこんでいる。
「して、いません。私は平気です。それより男の人が……っ」
 恐々と暗がりの方へ視線を投げようとするが、勇気がでない。彼が正面にいるおかげで、背後の光景を直視せずに済んだ。
「もう死んでる。見ない方がいいよ」
「っ、死んで」
「“大丈夫だから、落ち着いて”」
 彼の声は、不思議なほど小夜子のなかに浸透し、驚くべき鎮静剤の効果を発揮した。不安や恐怖は引いていき、心が穏やかに凪いでいく。
 静かになった小夜子を見下ろしながら、彼は深々と被っているフードを外した。
 月光に照らされた顔を見て、小夜子は思わず息を呑んだ。
 彼は、この世のものとは思えぬほど美しかった。顔立ちは、非のうちどころがないほど精緻に整っている。染みも凹凸もない、なめらかな雪花石膏アラバスターのように白い肌。まっすぐ艶やかな黒髪は襟にかかるほど長く、月明かりを浴びて青みがかって見える。同じ色の長いまつ毛に縁取られた銀色の瞳……見つめられていると、妙に胸が騒ぐ。なじみのないぬくもりが、身体の奥から沸いてくるようだった。
「立てる?」
 手を差し伸べられ、小夜子はおずおずと手を伸ばした。なめらかで美しい、男性的な骨ばった手は、小夜子の手を包みこむほど大きい。暖かく、力強い手は、小夜子を難なく助け起こした。
「あの、警察を?」
 小夜子は暗がりに目をやろうとしたが、彼が小夜子の肩を抱き寄せ、歩き始める方が早かった。
「あとで呼んでおくよ。さっき見たことは、忘れた方がいい」
 背中を支える腕が、優しく、だが有無をいわせぬ力で小夜子を歩かせる。立ち止ることは許されなかった。
「でも……さっき、変な、犬みたいな、怪物がいましたよね……?」
 小夜子がうかがうように男を仰ぎ見ると、銀色の瞳と遭った。
「いたね。大丈夫、もう追い払ったよ」
 どうやって?
 思わず立ち止まりそうになる小夜子の背を押して、彼はなおも歩き続けた。しばらく歩いたところで立ち止まると、小夜子の背中を支えていた腕をゆっくりおろした。
 小夜子は恐々と背後を振り返ったが、危惧した光景はなかった。怪物も、倒れている男性もいない。ただ夜闇が拡がっているばかりだ。
 細く息を吐きだしながら、彼にお礼をいっていないことに気がついた。
「あの……助けて頂いて、ありがとうございました」
「どういたしまして」
 この上なく美しいほほえみを向けられ、こんな状況だというのに、小夜子は頬が熱くなるのを感じた。
「これ、さっき落としたよ」
 コンビニのビニール袋を渡され、小夜子はあっと声をあげた。彼が拾ってくれていたのだ。
「すみません! ありがとうございます」
「気にしないで。僕はルイ。君の名前を教えてくれる?」
「あの……」
Ma Julietteマ・ジュリエット、教えて?」
 彼は小夜子を壁際に押しつけると、長身を屈めて、小夜子の顔の横に手をついた。自分の魅力を知り尽くしているのだろう。小夜子には考えられない、人との距離感だ。
「小倉です」
「下の名前は?」
「え、と……離れてください」
「だめ」
「えっ?」
 強張る小夜子を、彼は強い眼差しで見つめてきた。銀色の虹彩が、紫に縁取られているのに気がついた。
「参った。今回ばかりはウルティマスを信じていなかったのに……なんていい香りなんだろう」
 彼はなにをいっているのだろう?
 困惑する小夜子を見て、ルイは苦笑をこぼした。
「ごめん、何の話か判らないよね」
「えっと……」
 ルイはじっと小夜子を見つめたかと思うと、なにか閃いたように目を瞠った。
「そうだ、思いだした。小倉小夜子だね?」
 今度は小夜子が驚きに目を瞠った。思いだしたとは、どういうことだろう?
「誕生日おめでとう」
「えっ?」
「七月七日、今日が十七歳の誕生日だよね?」
 初対面の相手に誕生日をいいあてられ、小夜子は得体の知れぬ恐怖が這いあがってくるのを感じた。
「僕がどうして小夜子を知っているかというと、百発百中の予言者に聞いたんだ。といったら、信じる?」
 小夜子は答えられなかった。彼の言動は不気味すぎる。まさか、ストーカーなのだろうか?
「は……離れてください」
 本格的に腕を使って逃げようとする小夜子を、ルイは優しく、だが有無をいわさぬ力で押しとどめた。
「や、やだっ」
「僕はたった今、襲われている君を助けたんだよ。感謝されるのに、ふさわしいことをしたと思わない?」
 ルイは小夜子の顔を覗きこみ、含みのある笑みを浮かべた。
「それは、ありがとうございました。あの、でも……っ」
 射抜くような視線が怖い。小夜子は顔を背け、どうにか逃げようともがいた。
「……怖い、離してください」
 明らかに怯えた声でいったが、ルイは離そうとしなかった。
「ごめん、離したくない。もっと君の声を聞いていたい」
 甘やかな響きに、小夜子は唾を呑んだ。うまく呼吸ができない。今すぐここから逃げなければと思うのに、彼に身を寄せたくてたまらなくなる。それに昏睡せしめんばかりの……高雅でノスタルジーなEAU DE COLOGNE? 彼はどうして、こんなにいい匂いがするのだろう?
「ね、どこに住んでいるの?」
(もう、なんなのぉ……)
 小夜子は助けを求めて辺りに視線を投げたが。通りかかる人は誰もいない。ルイが覆い被さってきたと思ったら、耳のふちに暖かなものが触れた。
「ひゃぁっ」
 彼の唇だ。耳をそっとまれ、燃えるような熱を感じた。縮こまる身体を宥めるように、長く繊細な指が、首筋をゆっくり撫でおろし、胸の上で止まった。
「や、ぁっ!」
「心臓がどきどきしている」
 耳たぶに熱い吐息がかかり、小夜子は咄嗟に唇を噛みしめた。心臓は早鐘をうち、どくどくと血液が流れる音が、耳の奥に反響している。
「もう、やめて」
「やめたくない……」
 ルイは少し身を引いたが、片手は小夜子の顔の横についたままだ。唇に視線が落ちるのを感じて、身体中にえもいわれぬ感覚が駆け抜けていった。
「だめっ」
 逃れようともがくが、ルイは許さなかった。決して乱暴ではないのに、絶対的な力で、小夜子の両腕を掴んで拘束した。
「小夜子……」
 彼はそれ以上強引に迫ろうとはせず、思わしげな息をはいた。
「ここへくるまでは、君を助けるつもりはなかったんだ。厄介事は御免だと思っていたからね。でも気が変わった」
 恐怖に慄く小夜子の頬を、ルイは優しく手の甲で撫でた。そのまま腕を撫でおろし、小夜子の手首をとって、銀鎖ぎんさの腕環をはめた。
「これ……?」
 小夜子は戸惑い、腕環とルイを交互に見つめた。腕環の中央に、高価そうな黒い貴石がついている。
「ウルティマスから十七歳の誕生日プレゼント。その黒ダイヤは偉大な力を宿している。この世に二つとない、神が創った護符アミュレットだよ」
「ウルティマス?」
 小夜子はいぶかしげに訊ねた。
「神のこと。本当は、十七歳になる前に渡さなければいけなかったのだけれど……怒られるかな」
 ルイは言葉の途中で視線をそらし、誰にきかせるでもなく呟いた。
「えっと……?」
「ごめん、どうか気にしないで。君が無意識に食屍鬼グールを呼ばないように、今夜の記憶は消しておくよ」
「え……」
 恐怖がもたげて、小夜子の心臓は再びどきどきし始めた。消すとは、消されるとは。まさか、もしかして、殺されるのだろうか?