PERFECT GOLDEN BLOOD

1章:十七歳の誕生日 - 9 -

「伏せて」
 ルイは警告するような低い声を発した。あっけにとられている小夜子の上腕を、痛いくらいの力で掴んだ。
「早く!」
 彼らしからぬ鋭い口調に、小夜子は訳も判らず、膝をついた。
 ルイは背に小夜子を守るようにして立っている。まがつ何か、黒いわだかまりを見据えたままジャケットに手を突っこみ、拳銃を抜いたのを見て、小夜子はぎょっと目を瞠った。
 問いかけようとしたが、不気味な唸り声に意識を奪われた。見れば見るほど奇怪な怪物だ。黒々とした穴のような顔に目はないのに、睨まれていると感じる。
 突然、小夜子の背筋に激烈な怖気おぞけが走った。これと同じ恐怖を、以前に味わったことがある?
「ルイさん……ッ」
「静かに」
「あ、あれ、視えるんですか?」
「視えるよ。小夜子こそ視えるの?」
 一瞬、小夜子は奇妙な心地を味わった。幼い頃から、視えないの? と小夜子が訊ねることが常で、視えるの? と訊き返されたのは初めてだ。
「すぐに片づけるよ。じっとしていてね」
 小夜子が返事をしようとした時には、ルイは信じられない瞬発力で、拳銃を手に、迫りくる黒い影に対峙していた。
「ひっ」
 小夜子が小さな悲鳴をあげると、黒い影の一つは、小夜子を向いた。唸り声をあげ、びっしりと並んだ牙から涎を垂らす姿は、恐ろしすぎた。
 小夜子がひゅっと息をのむと同時に、そいつは猛然と駆けだした。
「いやぁッ」
 頭を両手で庇って、目を閉じる。ポフッと乾いた音がしたかと思えば、ギャンッと獣の声が聴こえた。顔をあげると、黒い靄は大地に焦げつくようにして、煙を立ち昇らせていた。
「伏せていて!」
 拳銃を構えたまま、ルイがいった。小夜子は両手で口を押えたまま、こくこくと頷くことしかできなかった。
 ルイは神が創った戦士だ。人間の武器――軍仕様のSOCOMや、最新鋭の兵器を一通り扱えるが、肌身離さず携帯している武器は、昔ながらのコルト・シングルアクション、六連発銃がモデルの改造銃だ。銃身は真鍮装飾が施され、銃口には最新鋭の減音器サプレッサーをとりつけてある。なかにこめられた弾丸は平常の鉛ではなく、魔を分子レベルで粉砕する聖銀弾。
 同居人であり発明家のヴィエルの改造により、千メートル用のスコープが取りつけられていたが、邪魔だからと早々に外してしまった。
 そんなものがなくても、自前の暗視装置ナイトヴィジョンで、暗闇に紛れる敵の位置を正確に認識できる。
 食屍鬼グールが腰を屈め、その後ろ脚が膨れあがった。唸り声を発する牙と牙の隙間から、酸が滴り落ちている。跳躍すると同時に、銃口が火を噴いた。
「ギャンッ!」
 眉間の中央をつらぬかれた獣は、宙で平衡を崩して地面に落ちた。
 残り四体――ルイは肉眼ではとらえきれぬ光速且つ、しなかやかで力強い猛獣のような身のこなしで銃を抜いた。一発、二発、三発、四発。全弾命中し、獣は黒い煙をのぼらせながらくずおれた。
 戦闘が終り、辺りに静寂が戻ってきた。
 救われたことに感謝しながら、小夜子はルイに対しても、得体の知れぬ恐怖を覚えていた。
 彼は一体、何者なのだろう?
 恐ろしい怪物を、いとも簡単に片づけてしまった。常人では先ずありえないことだ。
 茫然と見つめていると、ルイが振り向いた。兇気を宿して輝く銀色の瞳で、地面にへたりこんでいる小夜子を見た。
「っ」
 小夜子は、危うくほとばしりかけた悲鳴を、理性の力で飲みこんだ。どうにか自力で立ちあがったものの、足に力が入らず、ふらついてしまう。ルイは支えようとして手を伸ばしたが、びくっとなる小夜子を見て、触れることを躊躇うように拳を握りしめた。
「大丈夫? ……じゃないか」
「ぁ……」
 小夜子は言葉が続かなかった。何をいえばいいのか、判らない。
「今は、説明している時間がないんだ。ここにいたら危ない。どうか、僕と一緒にきてほしい」
 小夜子は首を左右に振った。彼は明らかに普通じゃない。小夜子も人のことはいえないが、少なくとも、小夜子は人間だ。彼は、それすらも怪しいのだ。
「わ、私、もう帰らなくちゃ」
「お願いだよ、小夜子。僕を信じて」
「ごめんなさい」
 怖くて、目をあわせられない。踵を返して走りだそうとしたが、
「お願いだ、待って……“小夜子”」
 名前を呼ばれた瞬間、小夜子はその場に縫い留められたように動けなくなった。
「“こっちを向いて”」
 小夜子は驚愕に目を瞠ったまま、ゆっくりと振り向いた。意志云々の問題ではない。身体中の細胞が、彼に支配されているような感覚だった。
 困惑する小夜子をみおろし、ルイは物憂げな表情を浮かべた。
「ごめんね、二度も縛って……謝罪はあとで聞くから」
 銀色に光る瞳を見ているうちに、小夜子の胸に巣食っていた猜疑心は、するりと解けていった。途方もない恐怖心も薄霞のように遠ざかっていく。
「大丈夫?」
 ふらついた小夜子の背中を、ルイは自然な動作で支えた。
「私……すみません、なんだか取り乱しちゃって」
「Non. 怖い思いをしたんだから、当然だよ」
 その時、小夜子は掌がずきっと痛み、顔をしかめた。手を見ると、すりむいて血が滲んでいた。スカートにも皺が寄って、土がついている。
「あれ? 私……っ」
 再び、どっと恐怖心が押し寄せて、小夜子の全身はさざなみのように震えだした。
「大丈夫だよ」
 ルイは小夜子を引き寄せると、両腕のなかに抱きしめた。
「落ち着くまで、こうしていてあげる」
 ありえない事態と思いつつ、小夜子は混乱しているせいか、その腕を振りほどくことができなかった。どうしたことか、この世で自分を守ってくれるのは、彼だけしかいないという気がしている。
「怪我をしているの? 手を見せて」
「え?」
 不思議に思いつつ小夜子が手をもちあげると、掌を少し擦りむいていた。ルイはそっと指先を握りしめ、唇へ近づけた。
「っ」
 掌に暖かな吐息が触れたと思ったら、舌で舐められる感触がし、小夜子は震えた。
「ルイさんっ」
 怯えを含んだ声をあげると、ルイは掌に唇を押し当てたまま、けぶるまつ毛の向こうから、小夜子を見つめた。その瞬間、えもいわれぬ陶酔感に襲われ、小夜子は膝からくずおれそうになった。
「おっと……大丈夫? 傷は治したよ」
 腰を支えられ、小夜子はルイの胸に手をついた。自由になった手を見れば、確かに傷は癒えていた。
「……ありがとうございます」
 小夜子はそっと身体を引いた。ルイは腕の力を緩めはしたものの、小夜子を完全に離そうとはしなかった。冬の湖めいた銀色を取り戻した瞳をしばたきながら、顔を覗きこんでくる。
「本当に大丈夫?」
 小夜子は視線を泳がせつつ、頷いた。
「さっきの、あれって……何?」
「女王とそのしもべ食屍鬼グールだよ」
「グール?」
「僕らの天敵なんだ。とても狂暴で、貪欲で、なんでも食べる。人間もね」
「あの女の人は? どうしてグールに襲われないの?」
「それは……」
 ルイは言葉を躊躇い、ちょっと考えてから続けた。
「女王……敵は、上司ザハラから出禁を食らっているから、地上に干渉するには複雑な手続きが必要なんだ。悪だくみしたくても、ヒントをださなければいけなくて……例えば、さっき僕に投げた言葉もアナグラムで紐解けば“暗くて孤独な青い城”という意味が隠されていて、それってつまり――」
 小夜子は真顔で首を左右に振った。
「ルイさん。全然判りません」
 ルイは控えめな咳ばらいをすると、説明の簡略化を試みた。
「簡単にいうと、小夜子には特別なギフトがあるから、あいつらにとってご馳走なんだよ。だから、あの手この手で君を捕まえようとしている」
 小夜子は顔を強張らせた。
「私? 特別なギフトって?」
「抜群の強壮剤? 安定剤? なんていえばいいのか……僕は、食屍鬼グールを殺すための特別なギフトがあるけど、普段から制御に苦慮している。ところが完璧に調律できる存在、小夜子が現れたものだから、そういった意味でも敵は小夜子を狙っているんだ」
「……すみません、よく判りません。調律ってなんですか?」
 小夜子は困り顔で訊き返した。ルイは切羽詰まったような表情になり、小夜子の両肩を掴んだ。
「一遍には説明しきれないよ。ともかく女王に見つかった以上は、君を一人にしておけない。僕と一緒にきてくれる?」
「えっ?」
「困らせているって判っている。だけど信じてほしい、僕は君を守りたいんだ。お願いだから、僕と一緒にきて」
 ルイは必死さの滲んだ、切実な声でいった。事情は不明だが、彼が常人ではなく、差し迫った危険があることだけは直感で判る。
 ルイと一緒にいくべきかどうか――銀色の目をのぞきこんだ途端に、天啓の閃きが小夜子の全身を貫いた。
「……判りました」
 理屈ではなかった。どうすべきなのか、肌で感じて返事をしていた。