PERFECT GOLDEN BLOOD

1章:十七歳の誕生日 - 8 -

 土曜日。渋谷のタワーレコード前、十六時四十分。
 約束の時間より早めについた小夜子は、垂れこめた雨雲を見て少し心配になった。天気予報の通り、このあと土砂降りになりそうだ。
 対岸の歩道からルイが歩いてくるのを見て、小夜子は目を瞠った。約束の時間より二十分も早い。
 今日は黒い細身のパンツに、白いシャツでタイはしていない。シンプルな装いだが、相変わらずモデルのように格好いい。歩く姿も完璧で、常人にはかもせない高貴さと、憂愁の昏さがあった。
 彼は小夜子と目があうと嬉しそうに手をあげた。小夜子は胸を高鳴らせながら、手をあげて応えた。
「お待たせ」
 目の前にやってきたルイは、美の女神もうらやむほどの美貌でにっこりほほえんだ。
「私も今きたところです!」
 力いっぱい小夜子が答えると、ルイはくすっと笑って、
「何時に着いたの?」
「五分前くらいですよ」
「そう。今日もかわいいね、小夜子」
 さらりと褒められ、小夜子は赤面して俯いた。ルイの方こそ素敵だと思うが、彼のようには褒められない。
「つけてくれたんだ」
 彼の視線が、首につけたペンダントに注がれていることに気がついて、小夜子ははにかんだ。
「はい。ありがとうございます、すっごく気に入っているんです」
 誕生日に彼からもらったペンダントを指にいらいながら、お礼を口にする。気づいてくれたら嬉しいと思っていたが、ルイはちゃんと気づいてくれた。
「よく似合っているよ」
 ルイは優しく目を細め、ほほえんだ。その眼差しが本当に甘くて、小夜子は危うく彼の方へ倒れこみそうになった。
「それじゃ、いこうか」
「っ! は、はい……っ」
 ごく自然に手をとられて歩き始めたので、小夜子の心臓は煩いほど騒ぎ始めた。
(信じられない、ルイさんと手を繋いで歩いているなんて!)
 どきどきし過ぎて、いつも以上に挙動不審になってしまう。けれど、すごく嬉しい。出会って間もないのに、ルイのことを殆ど知らないのに、どんどん惹かれていく。
 会場に着いたあとも、手が離れることはなかった。
 館内に入ってすぐの処に、木製の額に納められた、窓辺の風景画が飾られていた。風に揺れるカーテン、柔らかな射光の注ぐ光景は、見る者の心を温かくする。
「いいね」
 隣に並んだルイの呟きに、小夜子は頷いた。
「優しい印象ですね」
「想いをこめて描いたんだろうね。この窓辺の椅子には、きっと、彼の特別な人が座っているんだろうね」
 ルイの確信めいた口調に、小夜子は少し驚いた。だがすぐに、そうかもしれない、そんな気になった。絵を見つめていると、真摯な想いがひしひしと伝わってくるようだった。
 さらに奥へ進むと、部屋の照明は落とされており、ドーム型の硝子天井から三日月が覗いていた。
 その異世界空間に、小夜子はぽかんと立ち尽くした。
「わぁ、素敵……」
 鉱石のジオラマが、柔らかな月光と照明に照らされて、夜闇のなかに浮きあがって見える。
「これは水晶だね」
 硝子ケースをのぞきこんでいた小夜子は、耳元でささやかれてどきっとした。横を向くと、優しい銀色の瞳に遭遇して、慌ててジオラマに視線を落とした。
 海岸を模したジオラマの中央に、純粋透明な青い鉱石が無造作に、だが完璧に配置されている。硝子に覆われた、一つの世界だ。目を凝らしていると、まばゆい透明な輝きの向こうに、現実とは別に在る世界が続いているような気持ちになる。
「RAVENの作品はどれも、光の演出が巧緻だよね。僕はもともとコレクター気質だけど、彼の作品は特に惹かれるんだ」
 ルイの言葉に、小夜子は頷いた。同感だった。ルイは小夜子が注目する鉱石の一つ一つを、専門家のように判りやすく説明してくれた。
「ルイさんは、芸術にも造詣ぞうけいがおありなんですね」
 小夜子はすっかり感心して、尊敬の眼差しでルイを見つめた。
「そんなことないよ。偶々、僕もRAVENが好きだから、彼の作品について知っているだけだよ」
 はにかみながら謙遜するルイに、小夜子は好感を抱いた。あらゆる面で圧倒的な人なのに、時折、少年のように純粋な表情をみせる。そんなところも彼の魅力の一つなのだろう。
(本当に不思議な人……)
 まさか、RAVENの作品について誰かと語れるとは思っていなかった。最初は、ルイと共通の話題なんて見つからないだろうと思っていたのに、彼を知れば知るほど、引きこまれていく。もっと彼のことを知りたくなる。
 じっと彼を見つめていることに気がついて、小夜子は慌てて作品に目を向けた。
 作品に値札がついているものは、会場で購入することもできるが、多くは七万円から十万円前後で、小夜子には少々敷居が高かった。なかでも、硝子の蓋のついた円盤式オルゴォルは格別に気に入ったが、諦めざるをえなかった。
 RAVENの個展は、本当に素晴らしかった。展示会場をでたあとも、小夜子はルイとずっと手を繋いで歩きながら、しばくら余韻にひたっていた。
「車で送っていくよ。近くに停めてあるんだ」
 小夜子は驚いて繋いでいた手を離すと、顔の前で手を振った。
「大丈夫です、電車で帰れますから」
「そういわないで、送らせて」
「いえ、大丈夫です。近くですから」
「僕が送りたいんだ。ね?」
 ルイは優しく小夜子の頭を撫でた。とても大切にされているような、甘やかされているような気持ちになる。
(違うから。口説かれてるわけじゃないから。これがルイさんのデフォルトなの!)
 勘違いしないように、必死に自分にいい聞かせねばならなかった。
「でも」
 迷っていると、ほらおいで、とルイはほほえんだ。助手席のドアを開けて、小夜子を見つめてくる。
 気のせいだろうか? 銀色の瞳が微かに光彩を放っている気がする。
 奇妙な違和感を覚えつつ、小夜子は抗いがたい魔性に屈した。誘蛾灯に誘われるようにふらふら近づいていき、自ら助手席に腰を落ち着けた。
(……あれっ)
 我に返った時には扉はしめられ、反対側からルイが座席に腰を落ち着けるところだった。
「シートベルトをしてね」
「はい……」
 いわれるがまま、小夜子は自分を座席に縛りつけた。これで逃げ道は完全に断たれた。
 ルイがギアをファーストに入れると、エンジンは驚くほど静かに稼働した。きっと高級車なのだろう。広くて座り心地もいいし、内装も洗練されている。
「綺麗な車ですね」
「ありがとう。この間オークションで買ったんだ」
「オークション? 有名な車なんですか?」
「限定販売されたフェラーリだよ」
「え、フェラーリ? すごい……」
 小夜子でも知っているブランドだ。色々な意味で怖くなり、お行儀よく手を膝の上にそろえて置いた。
 最初は緊張していた小夜子だが、個展の話をするうちに、緊張はほどけていった。自分が好きなものを彼も好きでいてくれて、感動を共有できることが嬉しい。
 会話を楽しみながら、幾つかの細い路地を曲がり、やがて環状七号線の広い車道にでた。そのまま真っすぐ直進し、十分ほどで下北沢に着いた。
「あ、この辺で大丈夫です」
「Oui」
 ルイは車を停めて、サイドブレーキを引いた。小夜子がドアを開けた時、ルイは既に反対側にまわっていて、降りるのに手を貸してくれた。
「お手をどうぞ、Mademoiselleマドモアゼル
 ルイは気取った口調でいう。それがあまりにも似合っていて、小夜子はどきどきしながら手をあずけた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。疲れてない?」
「ルイさんこそ。運転疲れていませんか?」
 小夜子は彼を仰ぎ、ぎくりとした。薄闇のなかで、銀色の虹彩が仄かな光を放っている。ルイは視線を避けるように、瞼を半ば伏せた。
「ほら、いこう?」
「……はい」
 小夜子は躊躇いつつ、さしだされた手をとった。
 彼は一体、何者なのだろう? 数日前から、第六感に働きかける不可解な感覚がまとわりついている。脳裡をよぎった考えを、小夜子は即時に否定した。
(――馬鹿馬鹿しい。ルイさんは幽霊じゃないし!)
 自分に強くいいきかせて、歩き始めた。隣を歩くルイの様子をそっとうかがうと、やはり銀色の瞳は、不思議な光彩を放っていた。
「僕の瞳が気になる?」
 心を読まれたのかと思い、小夜子はぎくりとした。思わず手にもっていたパンフレットを握りしめてしまい、指先を切ってしまった。
「っ」
 眉を顰める小夜子の指を、ルイはぱっと掴んだ。
「大丈夫?」
「はい、パンフレットで切っただけ……」
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。指を見せて」
 彼は眉をひそめて、かわいそうに……そう呟いた。指を顔の前にもっていき、口に含んでそっと吸った。
 小夜子は驚きのあまり、咄嗟に反応することができなかった。傷も痛みも一切合財いっさいがっさいを忘れて、世界はルイだけになった。
「ぁ……ルイさん! 汚いですよ」
 ようやく我に返った小夜子を、ルイはけぶるようなまつ毛の奥から見つめた。
「汚くないよ」
 そういって、再び唇をつける。傷口を舌で撫でられて、その濡れた感触に頭が痺れる。手を放された時、小夜子はルイを見つめることしかできなかった。
「あぁ……君の血って……」
 彼は、陶然としたように吐息をはいた。血を舐めたせいで、気持ち悪くなったのかと小夜子は思った。
「だ、大丈夫ですか?」
「それは僕の台詞だよ。でも、見てごらん。傷は治ったでしょう?」
「え?」
 指を見て、小夜子は絶句した。彼のいう通りだった。どういうわけか、傷口が塞がっている。
「なんで……」
 小夜子は指とルイの顔を交互に見比べた。彼は謎めいた微笑を浮かべていて、薄紫を帯びた銀色の瞳に囚われそうになる。
「訊いてもいいかな?」
「えっ? ……ええ、どうぞ」
「この間、どうして泣いていたの?」
 小夜子は虚を衝かれて、目を瞬いた。
「あれは……大したことではありませんから」
 さりげなく握られた手を引き抜こうとしたが、ぎゅっと握りしめられた。
「でも、泣いていたよね」
 ルイは空いている方の手をもちあげて、小夜子の頬を包みこんだ。見えぬ涙の跡をたどるように、親指で頬の輪郭をそっと撫でる。
 ぞくっと震えが走り、小夜子の唇から吐息が漏れた。触れられている頬が、燃えるように熱くなっていく。
「ね、教えて? 何があったの?」
「私……」
 声が震えそうになり、小夜子は目を瞬いた。どうしてか、泣きそうになっている。
「教えて、お願いだから。力になれるかもしれない」
 小夜子は朱くなり、困ったようにほほえんだ。
「馬鹿馬鹿しいと思いますよ、きっと……頭痛が酷くて、へこたれていただけなんです」
「頭痛?」
 ルイは小夜子の頭にそっと触れた。
「かわいそうに……泣くほど痛いの?」
 額に唇を押し当てられ、小夜子は視界が潤むのを感じた。この人は、どうしてそんなに優しく触れるのだろう?
「昔からそうなんです。怖いものを見たあとは、決まって頭痛に見舞われるんです。この先もずっとこうかと思うと、辛くて……っ」
 瞬きをして涙をこらえながら、誤魔化すように笑った。
 その健気な笑みを見て、ルイは胸の奥が締めつけられるようだった。彼女がこれまで耐えてきた苦しみを癒してやりたい。今すぐに、痛みを取り除いてやりやたい――強い念に駆られた。
「でも、ルイさんが電話をくれたから、嬉しくて。そのあと元気になれたんですよ」
 ルイは思わず、といった風に小夜子を抱き寄せた。小夜子は驚いたが、労わるように背中を撫でられ、すぐに強張りをほどいて体重をあずけた。
 自分の腕のなかで、安らぎを得たように静かにしている少女を見下ろして、ルイの胸は優しさと驚嘆に包まれていた。頭を撫で、三つ編みを撫で……貪るように口づけたい衝動を逃がすように、夜空を眺めた。
 腕のなかの少女が愛おしい……永い生において、これほど誰かに惹きつけられたのは初めてのことだった。彼女のあらゆる悩みを取り除き、力を分け与えてやりたいとすら思う。
「ねぇ、小夜子……」
 ルイは身をかがめて、小夜子の頬を両手で包みこんだ。瞼がそっともちあがり、優しい夜のような瞳がルイを映す。ルイはほほえんだ。
「キスしてもいい?」
「っ!」
 小夜子は大きく目を瞠って、ルイを見つめた。彼は首を傾けて、端正な顔を近づけてくる。待って、そういおうとしたが間にあわず、唇は触れあっていた。
「ん……っ」
 唇の表面がこすれた瞬間、甘い痺れが全身を駆け巡った。咄嗟に手を突きだすと、ルイは身体を引いたものの、小夜子を離しはしなかった。
「な、なんで?」
「したかったから。もう一度、目を閉じて」
 その声には催眠効果でもあるのか、小夜子は幾つものを疑問を思い浮かべながら、いわれた通りに瞼をおろした。唇が触れあう。羽のような優しい触れ方……柔らかくて、心地いい感触に陶然となる。
「いい香り……怯えているよりずっといい」
 かすれた声で耳元に囁かれ、小夜子の体温は跳ねあがった。唇のあわいを舌でなぞられた時、経験したことのない震えが全身を貫いた。
「待って」
 小夜子は両手を胸の前で組み、あとずさりした。と、その時、ルイは眉をひそめ、暗闇の方をぱっと見た。眼差しが闇のなかで爛と輝いている。虹彩は銀と紫に絶えず変化し、異妖であり、神秘的ですらあった。
 彼が凝視している先に、黒いわだかまりが生じた。全き暗闇から、女がぬっと顕れた。すらりと背は高く、艶めかしい肢体の女。顔は薄紗ヴェールに覆われて判別できないが、いいようのない禍々しさを全身に纏っている。
“ザットゥ・アガ・ラナ・ハーシュ……”
 鈴を振るような、美しい声が囁いた。聴いたことのない言葉だが、魂を揺さぶられるような、まるで別の世界から響いたように聞こえた。
“ザハラ・イー・トヴォ・アミ……ナレグ・ダ・デジュ”
 女の言葉に呼ばれるようにして、黒い瘴気のなかから、おぞましい異妖な怪物が続々と現れた。
 巨大で、犬のような胴体に腕は六本もある。目はどこにあるのか不明で、ぱっくり避けた口は尖った牙がずらりと二重に並び、またとない凶悪な相である。
 小夜子はぞっとしたが、女は、愛おしそうに怪物の頭を撫でた。それは身を伏せて甘えるように頭を傾け、恭順を示している。
「ナーディルニテイ……」
 ルイが硬質な声で呼びかけると、女は優美な首を傾げた。
“カ・バユ・ダチーナエル……ムァッソ”
 そう呟き、女は忽然と姿を消した。次の瞬間、伏せていた怪物たちがのそりと立ちあがり、ルイと小夜子を睨みつけた。