PERFECT GOLDEN BLOOD
1章:十七歳の誕生日 - 7 -
小夜子はなかなか眠れずにいた。
目を閉じていても、逃げるようにして消えたルイのことを考えてしまう。あの時、彼は何を考えていたのだろう? 言葉もなく去っていったことに、小夜子は戸惑い、深く傷ついていた。
(私がいけなかったのかな……嫌がったりしたから……)
自己嫌悪と煩悶は、やがていつもの偏頭痛に変わり、睡眠を妨げていた。空気が希薄になり、手足が冷たく凍えていく。
(嫌だなぁ、家にはこないでよぉ……)
布団を頭まで被って、身体を丸める。最近は家にでることはなかったので、油断していた。唯一の聖域を奪われたら、小夜子の気が休まる場所が無くなってしまう。
部屋の重苦しい気配は、なかなか消えてくれなかった。すすり泣きながら恐怖に耐えていると、
(あれ……?)
恐る恐るベッドから起きあがった。部屋の隅を見ると、どこにも瘴気は溜まっていなかった。ようやく去ってくれた……ほっとしたあまり、涙が頬を伝った。安堵のあとに、途方もない虚しさに襲われた。
この苦しみは、死ぬまで続くのだろうか? このまま年をとって、三十、四十……六十になる頃になっても、小夜子は脅かされ続けるのだろうか? 棺の底に横たわる時にならねば、安寧は訪れないのだとしたら……なんのために生きているのだろう?
「ふ、ぅ……っ」
いつになく後ろ向きな思考が止まらず、喉の奥から消え入りそうな嗚咽が漏れた。
泣けば頭痛は増すと判っているのに、涙を止められそうにない。頭痛は酷くなる一方で、眼がしらの奥が燃えるように熱い。
重苦しい沈黙のなか、突然、スマホが震えだした。液晶に浮かびあがった名前を見て、息が止まりそうになった。三秒ほど逡巡してから、通話ボタンを押して端末を耳に押し当てた。
<小夜子?>
ルイの声を聴いただけで、不安が和らいだ。小夜子は濡れた目を手でこすり、こっそり鼻をすすった。
<こんな時間にごめんね。少し、話せるかな?>
「……はい」
声が少し震えてしまったせいか、ルイが息をのむ気配がした。
<どうしたの?>
「いえ、なんでもありません」
<……泣いていたの?>
「違います」
小夜子は否定したが、ルイはかける言葉に迷っているのか、沈黙している。
「あの、ルイさんはどうしたんですか? こんな時間に……」
<ん……失礼な態度を謝りたかったんだ。さっきはごめんね、びっくりしたよね>
「……少し」
<ごめん。いきなりキスをして、驚かせたことも……もう無理に迫ったりしないから、僕のことを嫌いにならないで。お願い……>
小夜子は息をのんだ。胸がきゅーんとして、甘く痺れる。さっきまで人生に落胆して泣いていたくせに、一瞬で復活してしまった。
「そんな、嫌いになるなんて……っ」
ありえない――力いっぱい口走りそうになり、慌てて踏み留まった。端末の向こうで、ルイが安堵したように微笑している。鼓動が高鳴りすぎて、彼に聞こえてしまうんじゃないかと心配になった。
「……私の方こそ、嫌われたかと思いました。ルイさん、何もいわずに消えちゃうし」
<君を嫌いになるなんて、ありえないよ。さっきは、ごめん。自分でも抑えがきかなくて、ああするしかなかったんだ。次のデートは、ちゃんとお行儀よくするよ> 小夜子は幸福感に酔いしれた。ふわふわと浮ついた心で、微笑を洩らした。
<明日、会えるかな?>
一瞬、小夜子は歓喜に駆られたが、すぐに思わず舌打ちしたい気持ちになった。
「すみません、明日はアルバイトがあって……」
思った以上に惜しむ声がでた。身勝手な感情だが、アルバイト先を恨みそうになる。
<じゃあ……再来週の土曜日はどう?>
「はい、空いています! 夏休みが始まるから、いつでも大丈夫です」
<良かった。好きな作家の個展があるんだ。夜に開かれる、光る鉱石のジオラマ展なんだけど、一緒にいかない?>
「ジオラマ……誰の個展ですか?」
<RAVEN。知っているかな?>
小夜子は目を輝かせた。
「知っています! わぁ、いきたい! 私、彼の大ファンなんです。彼の作品が本当に好きで好きで」
RAVENは幻想的な油絵と、鉱石ジオラマを作成している若き天才だ。日本人の祖父と英国人の両親の血が流れており、赤銅色の髪に猫のような青碧 の瞳を持つ、美貌でも知られている。
<良かった。僕もファンなんだよ>
小夜子は笑顔になり、電話越しに頷いた。
「うわぁ、すごい。その個展にいきたいと思っていたんです。SNSでジオラマを見る度に、もう欲しくて欲しくて……っ」
小夜子の食いつきの良さに、端末の向こうでルイがくすくすと笑っている。彼の甘やかな吐息が耳に触れたように感じられて、小夜子は赤面した。
<小夜子がそんなに好きとは知らなかったよ。でも、判る。彼の作品はいいよね>
「ルイさんこそ! RAVENを好きとは知りませんでした」
「割と最近知ったんだ。インスタグラムで作品を見てから、ファンになったんだよ」
小夜子はほほえんだ。さっきまで霊が怖くて震えていたのに、今は手足の先どころか、心のなかまでも、ぽかぽかと暖かい。わくわくとした幸福感に包まれて、頭痛まで消えている。
「また一つ、共通点が見つかりましたね」
小夜子は浮かれ気味にいった。端末越しに、柔らかな微笑が伝わってくる。嗚呼……この通話を永遠に切りたくない。
<それじゃあ……再来週の土曜日、十七時に渋谷のタワーレコード前にこれる?>
「はい! 楽しみにしています」
<僕も……お休み、小夜子>
「お休みなさい、ルイさん」
通話を終えたあとも、小夜子は笑みを抑えきれずにいた。スマホを握りしめてにやにやしていると、LINEのプッシュ通知が液晶に表示された。
“今日はありがとう。また会えるのを、楽しみにしています”
小夜子は口元を手で覆い、液晶をじっと見つめた。ときめきすぎて、胸が苦しい。
またルイに会える。RAVENの個展にいけるのだと思うと、今度はわくわくしすぎて眠れそうになかった。
目を閉じていても、逃げるようにして消えたルイのことを考えてしまう。あの時、彼は何を考えていたのだろう? 言葉もなく去っていったことに、小夜子は戸惑い、深く傷ついていた。
(私がいけなかったのかな……嫌がったりしたから……)
自己嫌悪と煩悶は、やがていつもの偏頭痛に変わり、睡眠を妨げていた。空気が希薄になり、手足が冷たく凍えていく。
(嫌だなぁ、家にはこないでよぉ……)
布団を頭まで被って、身体を丸める。最近は家にでることはなかったので、油断していた。唯一の聖域を奪われたら、小夜子の気が休まる場所が無くなってしまう。
部屋の重苦しい気配は、なかなか消えてくれなかった。すすり泣きながら恐怖に耐えていると、
(あれ……?)
恐る恐るベッドから起きあがった。部屋の隅を見ると、どこにも瘴気は溜まっていなかった。ようやく去ってくれた……ほっとしたあまり、涙が頬を伝った。安堵のあとに、途方もない虚しさに襲われた。
この苦しみは、死ぬまで続くのだろうか? このまま年をとって、三十、四十……六十になる頃になっても、小夜子は脅かされ続けるのだろうか? 棺の底に横たわる時にならねば、安寧は訪れないのだとしたら……なんのために生きているのだろう?
「ふ、ぅ……っ」
いつになく後ろ向きな思考が止まらず、喉の奥から消え入りそうな嗚咽が漏れた。
泣けば頭痛は増すと判っているのに、涙を止められそうにない。頭痛は酷くなる一方で、眼がしらの奥が燃えるように熱い。
重苦しい沈黙のなか、突然、スマホが震えだした。液晶に浮かびあがった名前を見て、息が止まりそうになった。三秒ほど逡巡してから、通話ボタンを押して端末を耳に押し当てた。
<小夜子?>
ルイの声を聴いただけで、不安が和らいだ。小夜子は濡れた目を手でこすり、こっそり鼻をすすった。
<こんな時間にごめんね。少し、話せるかな?>
「……はい」
声が少し震えてしまったせいか、ルイが息をのむ気配がした。
<どうしたの?>
「いえ、なんでもありません」
<……泣いていたの?>
「違います」
小夜子は否定したが、ルイはかける言葉に迷っているのか、沈黙している。
「あの、ルイさんはどうしたんですか? こんな時間に……」
<ん……失礼な態度を謝りたかったんだ。さっきはごめんね、びっくりしたよね>
「……少し」
<ごめん。いきなりキスをして、驚かせたことも……もう無理に迫ったりしないから、僕のことを嫌いにならないで。お願い……>
小夜子は息をのんだ。胸がきゅーんとして、甘く痺れる。さっきまで人生に落胆して泣いていたくせに、一瞬で復活してしまった。
「そんな、嫌いになるなんて……っ」
ありえない――力いっぱい口走りそうになり、慌てて踏み留まった。端末の向こうで、ルイが安堵したように微笑している。鼓動が高鳴りすぎて、彼に聞こえてしまうんじゃないかと心配になった。
「……私の方こそ、嫌われたかと思いました。ルイさん、何もいわずに消えちゃうし」
<君を嫌いになるなんて、ありえないよ。さっきは、ごめん。自分でも抑えがきかなくて、ああするしかなかったんだ。次のデートは、ちゃんとお行儀よくするよ> 小夜子は幸福感に酔いしれた。ふわふわと浮ついた心で、微笑を洩らした。
<明日、会えるかな?>
一瞬、小夜子は歓喜に駆られたが、すぐに思わず舌打ちしたい気持ちになった。
「すみません、明日はアルバイトがあって……」
思った以上に惜しむ声がでた。身勝手な感情だが、アルバイト先を恨みそうになる。
<じゃあ……再来週の土曜日はどう?>
「はい、空いています! 夏休みが始まるから、いつでも大丈夫です」
<良かった。好きな作家の個展があるんだ。夜に開かれる、光る鉱石のジオラマ展なんだけど、一緒にいかない?>
「ジオラマ……誰の個展ですか?」
<RAVEN。知っているかな?>
小夜子は目を輝かせた。
「知っています! わぁ、いきたい! 私、彼の大ファンなんです。彼の作品が本当に好きで好きで」
RAVENは幻想的な油絵と、鉱石ジオラマを作成している若き天才だ。日本人の祖父と英国人の両親の血が流れており、赤銅色の髪に猫のような
<良かった。僕もファンなんだよ>
小夜子は笑顔になり、電話越しに頷いた。
「うわぁ、すごい。その個展にいきたいと思っていたんです。SNSでジオラマを見る度に、もう欲しくて欲しくて……っ」
小夜子の食いつきの良さに、端末の向こうでルイがくすくすと笑っている。彼の甘やかな吐息が耳に触れたように感じられて、小夜子は赤面した。
<小夜子がそんなに好きとは知らなかったよ。でも、判る。彼の作品はいいよね>
「ルイさんこそ! RAVENを好きとは知りませんでした」
「割と最近知ったんだ。インスタグラムで作品を見てから、ファンになったんだよ」
小夜子はほほえんだ。さっきまで霊が怖くて震えていたのに、今は手足の先どころか、心のなかまでも、ぽかぽかと暖かい。わくわくとした幸福感に包まれて、頭痛まで消えている。
「また一つ、共通点が見つかりましたね」
小夜子は浮かれ気味にいった。端末越しに、柔らかな微笑が伝わってくる。嗚呼……この通話を永遠に切りたくない。
<それじゃあ……再来週の土曜日、十七時に渋谷のタワーレコード前にこれる?>
「はい! 楽しみにしています」
<僕も……お休み、小夜子>
「お休みなさい、ルイさん」
通話を終えたあとも、小夜子は笑みを抑えきれずにいた。スマホを握りしめてにやにやしていると、LINEのプッシュ通知が液晶に表示された。
“今日はありがとう。また会えるのを、楽しみにしています”
小夜子は口元を手で覆い、液晶をじっと見つめた。ときめきすぎて、胸が苦しい。
またルイに会える。RAVENの個展にいけるのだと思うと、今度はわくわくしすぎて眠れそうになかった。