PERFECT GOLDEN BLOOD

4章:黄金律の血 - 1 -

 夏休みが終わり、新学期が始まった。
 休み明けで、クラスの雰囲気はどこか気が抜けている。日焼けしている子も多かったが、小夜子は白いままだった。他クラスに退学した子がいて話題になったりもしたが、殆どの生徒は日常生活に馴染んでいた。小夜子もクラスで浮かないよう付和雷同しながら、気分は浮かないまま毎日を過ごしていた。
 どういうわけか、夏休みが明けてからというもの、正体不明の虚無感に襲われている。
 八月の記憶はいまいち曖昧で、鮮明に思いだせない。誰かと過ごしていたような、見知らぬ光景が断片的に脳裡をよぎるたびに、自分は夢遊病者なのではないかと不安になる。
 一ついえるのは、デジ・リュリュの課題に打ちこんでいたことは確かで、独力で創ったとは思えぬほどの出来栄えに仕上がっていた。これには担任教師も大いに感心し、選考も問題ないだろうと太鼓判を押してくれた。
 学業専念のために休んでいたアルバイトにも復帰して、忙しい日々を送っている。充実しているはずなのに、どこか精彩を欠いており、その正体が判らない。
 ふとした瞬間に、名も知らぬ誰かを思う。
 朧な面影のなか、銀色の眼差しだけを覚えている……あれは誰なのだろう?
 一人きりの夜の静寂しじまは特に切なく、淡々しく寂しい感じがした。
 家にいても何かをしようという気が起きず、時間がきたら学校へいき、アルバイトをこなす……そんな日々が続いている。
 寝る前に、窓からぼんやり外を眺めるようになった。
(……どうして、こんなに切ないんだろう)
 寂しい。会いたい――誰に? 判らない……かすめるように、脳裡に面影が浮かぶが、輪郭は朧で判別できない。ただ、大切な人だということだけは判る。
(あなたは誰なの?)
 思いだそうとして、目を閉じ、全き闇に包まれる。だが、記憶に面紗ヴェールをかけられたように、彼が誰なのかが判らない。
(……誰?)
 胸が苦しくて、泣いてしまいそうになる。どうして忘れているのだろう? 大切な人なのに。忘れられるはずがないのに――判らない。
 その日も淋しさが辛くて、無聊ぶりょうの慰めに、ベッドサイドにあるオルゴォルを手にとり発条を巻いた。RAVENの作品で、とても高価なものだから、自分で買ったとは思えないのだが、いつの間にか部屋にあったものだ。
 流れだす旋律に、どうしようもないほど胸を締めつけられてしまう。
「……会いたいよ」
 頬を涙がこぼれておちていく。名前を呼びたいのに、思いだせない。判らない。
 膝を抱えて顔をうずめて、声を押し殺して泣いた。思いだせないことが、たまらなく辛かった。
 泣いて、泣いて……それでも時間は進んでいく。
 鬱々とした日々をやり過ごすうちに、夏が終わり、風も涼しくなっていった。
 気がつけば、十月になっていた。
 念願のデジ・リュリュの選考に受かり、プレスクールが始まると、日々は増々加速していった。
 覚えることがたくさんあり、悩んでいる暇もないほどだが、心の片隅にはいつも誰かがいた。名前も知らない誰か……
 やりたいことをしている。
 目標もある。
 なのに、満たされない。
 いつでも寂しくて、物足りない。慌ただしく過ぎゆく日々のなか、心は沈んだままだった。
 そんな時、クラスの子から合コンに誘われた。普段は断るのだが、その日は気分転換のつもりで了承した。
 渋谷。十七時。
 同級生たちとカラオケで歌って騒いで、そのあとファミレスにいこうという流れになった。
「小夜子はどうする?」
 友達に訊かれて、小夜子は迷った。返事しようとしたら、視線を感じた。なぜかとても、懐かしい気配に感じられた。
 視線を彷徨わせる小夜子を、友人は不思議そうな目で見ている。
「どうしたの?」
「ううん……なんもでない」
 小夜子は自嘲の笑みを浮かべた。いつまで経っても、憂愁に囚われすぎだ。
「ごめんね、ちょっと疲れたみたい。もう帰るね」
 小夜子はすまなそうに笑った。友人は残念そうな顔をしたが、すぐに笑って頷いた。
「判った、今日はありがとう。またメールするね!」
「うん、楽しんできて」
 朗らかに笑ってくれる友人に手を振ったあと、小夜子は駅に向かって歩き始めた。賑やかな喧騒のなか、心は深い静寂しじまに包まれていた。
 街には、腕を組んで歩く恋人たちがたくさん溢れている。幸せそうに笑いあう彼等が、心の底から羨ましかった。
(いいなぁ……)
 小夜子もあんな風に、腕を組んで歩きたかった。
 誰と?
 誰かと……漠然とした相手ではなく、誰か判っているはずのに、思いだせない。
 夏休みが明けてからずっと、名づけのようない、模糊もことした想い、焦燥に捕らわれている。
 ずっと、誰かを探している。輪郭はおぼろで、顔だちを思いだそうとしても、深淵に吸いこまれていく。
 錯誤する記憶のなかで、必死に誰かを探している。思いだそうとるすればするほど、砂粒のように指の合間をすり抜けていく。
 大切な人のはずなのに……どうして思いだせないのだろう?

 十一月に入ると、空気は増々冷たくなった。
 近所の沿線にコスモスが群れ咲き、可憐でノスタルジックな情緒を醸している。
 デジ・リュリュのプレスクールが始まり、気分は少しずつ上向いていった。
 それでも、夏休みの余映は消えない。
 断片的な記憶が脳裡をよぎる時、黒い石のついた腕環をぼんやり眺めたまま、結構な時間を過ごしてしまうことがしばしばあった。
 嵐の夜。
 土砂降りの雨のなか、アルバイトを終えて帰宅した小夜子は、冷えた躰を温めようと、久しぶりに浴槽に湯を張った。
 たっぷりの湯舟にラベンダーの入浴剤を溶かし、浴室に入ろうとした時、不思議な精神感応に囚われた。
“ねぇ、待って……腕環を外さないと……湯で傷んでしまうわ……”
 その声はまるで、どこか遠い別の世界から聴こえてくるかのような、超常めいた神秘的な響きだった。
 小夜子は導かれるようにして薄紫色の湯を見、次に腕輪を見た。黒い貴石のついた腕輪は、夏あたりから常に身に着けているものだ。大切にしているのに、入浴剤で痛むかもしれないと突然に躊躇われた。
 腕環を外す瞬間、頭の片隅で警鐘が鳴り響いた気がしたが、首を傾げつつ、腕環を洗面台に置いた。
 いつも身に着けている腕環がないのは妙な感覚だったが、浴槽に身を沈めた瞬間、あまりの心地良さに全てを忘れた。
 ラベンダーの香りに癒されながら、裸体を浴槽にゆったり伸ばし、天国の心地を味わう。肌にぼうっと紅みがさし、内側から明るんでいく。
 爪先までぽかぽかと温まると、湯からあがって部屋着にきがえた。
 リラックスした心地でいたが、部屋に入ったところで異変に気づいた。
 床に黒い沁みがある。近づいてみると、蠅の死骸だと判った。五匹の死骸が、輪を描くようにして横たわっている。
「やだっ」
 災いの前触れにぞっとなり、小夜子は思わずあとずさりした。
 ゴム手袋をして、キッチンペーパーで片づけようと床に屈みこんだ時、インターフォンが鳴った。
 夜の十時過ぎに、誰が、何の用件だろう?
 警戒しながらカメラを見るが、誰も映っていなかった。
 またしても背筋がぞっと冷えた次の瞬間、棚が激しく揺れて、全ての窓が一斉に割れた。
「きゃあぁっ!」
 両腕で頭をかばい蹲る。這って机のしたに逃げこもうとしたとき、床に朱金の紋――五芒星が浮かびあがった。そこからおびただしい数の、青や金色の蝶が床から舞いあがった。羽で照明を翳らすほど濃密に群がり、骸骨の紋をもつ羽をひらひらと、まるで死の舞踏ダンス・マカーブルのようだ。
 なんと非現実的でおぞましい光景だろう!
 身の毛もよだつ恐怖に飲みこまれ、小夜子は口を両手で覆い、ぎゅっと目を閉じた。
 瞼の奥に銀色の斑点が散らつき、恐る恐る目を開けると、蝶の群れは襲いかかってこようとはせず、ただ渦をなしていた。
 腕環が宙に浮いている。
 金と銀の粒子を撒き散らしながら、小夜子の周囲をゆっくり回っている。その軌跡は、床に白光する正円を描いていた。祓魔儀式エクソシズムが発動したのだ。
「な、なにこれ」
 蝶は正円の内側に入ってこれないようだった。震えるばかりの無防備な小夜子から一定の距離をとり、近づくことを躊躇っている。
 やがて蝶は不規則に飛び回り、女の顔を形状したとき、小夜子は意識を失った。