PERFECT GOLDEN BLOOD

4章:黄金律の血 - 2 -

 波の音が聴こえる……
 小夜子は苦痛で目が醒めた。
 どのくらい意識を失っていたことか、全身がブリキのように強張っており、手を動かすと、掌にひんやりと冷たい感触が伝わってきた。
「痛っ……」
 身体を起こそうと床に手をついた瞬間、鋭い痛みに顔をしかめた。
 部屋は薄暗く、濃密な静けさに満ちている。部屋のなかほどまで、月光が差しこんでいた。真冬のように寒い。服は夜露でしっとり濡れて、袖口は泥でべとべとになっている。
「何……?」
 身を起こして視線をめぐらせたものの、自分がどこにいるのか、状況がまるで判らない。
 寒くてかちかちと歯が鳴るが、かろうじて我慢できるのは、身につけている腕輪のおかげのような気がした。ほんのりと暖かい膜に身体を包まれているように感じる。
(どこなの、ここは)
 痛みに悲鳴をあげる体を起こし、どうにか窓辺に寄ると、信じられない光景が拡がっていた。
 重々しい曇天のした、海は黒く渦巻き、荒々しい波が怒りに燃えて吠えている。
 見渡す限りの水平線で、陸や島影は一切見当たらない。漠とした海が広がっているばかり。明滅しながら踊っているかのような、おびただしい数の青碧の鬼火ウィル・オー・ザ・ウィスプが塔をぐるりと囲み、異妖な雰囲気を漂わせている。
「嘘でしょ……」
 絶望をつのらせながら、小夜子は逃げ道を探した。
 しかし、鉛枠の格子窓は素手ではどうにもならず、分厚い鉄扉てっぴも開きそうにない。天井は高くて手が届かず、床や壁もくまなく探したが、外へ通じていそうな仕掛けはなかった。
 逃げられない。
 小夜子は胸を波うたせながら、心を鎮めようと必死に努めた。諦めてはいけない。だが、焦ってもどうにもならない。先ず落ち着かなければ。
「誰かいませんか? 誰か、助けて!」
 小夜子は必死に叫んだ。しかし、いくら声を張りあげても、返事はなく、荒々しい波の音にかき消されるばかりだった。
 やがて気力も尽きて壁にもたれていると、時折、不気味な視線を感じた。誰何すいかを発しても返事はなく、小夜子の気力は刻一刻と消耗されていった。
 ふと、不気味な唸り声がすぐ傍で聴こえた。顔をあげた小夜子は、思わず恐怖にのけ反った。
 床から黒い液体がぼこぼこと粟立ち、そのなかから目のない、黒々とした醜悪な怪物が現れたのだ。
「やだ! こないでっ」 
 小夜子は壁伝いに距離をとり、ぶるぶると震えて縮こまった。怖くてたまらない。救いを求めて腕輪をさすると、清らかな光がこぼれて、近づこうとしていた怪物を牽制した。
「ギギッ……ギ……」
 口からこぼれる濁音は、苦痛を感じているようにも聞こえる。腕輪を見せつけるようにかざすと、怪物は明らかに嫌がり、昏い水たまりのなかへ潜りこんだ。
 小夜子は安堵したが、すぐに重苦しい恐怖と切望に見舞われた。ここはどこなのだ? 誰が、なんの目的で、小夜子をこんなところへ連れてきたのだ?
「うぅっ……」
 嗚咽をこらえながら、窓辺に視線をやる。こんなどことも判らぬ場所で、誰にも知られず、ひっそりと死んでいくのだろうか?
「何が目的なの……どうしてこんなこと、するの……」
 涙まじりに訴えるが、返事はない。小夜子は膝を抱えて、その間に顔をうずめた。
 海の音。
 風の音。
 海の音。
 風の音。
 淡々と時間は流れ、小夜子は精神的にも肉体的にも、限界を迎えつつあった。寒さにひっきりなしに身体がふるえて、よけいに体力を消耗する。何度も叫んだせいで喉も痛い。意識は半ば朦朧とし、このまま目を閉じたら、二度と覚まさない予感すらした。
 細い気力をどうにか保っていると、ふと、視線の先に女の素足が見えた。
「ひっ……!?」
 小夜子は勢いよく顔をあげ、恐怖にのけ反った
 月光を背に、異妖な女が立っている。
 美しい顔立ちだが、光沢を帯びた灰褐色の肌と長い黒髪が不気味さを醸している。昏い配色のなかで、朱金の瞳だけは、狂気を宿し、かくと燃えていた。
「何? だれ?」
 弱々しい誰何すいかの声に、女は冷笑を浮かべた。
“手に入れたぞ、黄金律の娘……”
「え?」
 初めて耳にする言語にも関わらず、どういうわけか、小夜子には彼女の言葉を理解することができた。
 霊妙なる女は、光沢を帯びた灰色のほっそりした腕を伸ばし、小夜子の腕を掴もうとした。だが、小夜子の腕輪から銀色の粒子が散るや、慌てたように指先を引っこめた。
“ッ、護符アミュレットめ”
 忌々しげに唸る。鋭い双眸に射すくめられ、小夜子は震えあがった。慌てて距離をとり、背を壁に押し当てる。思わず腕輪を掴むが、小夜子には何の害もない。
“まぁよい……”
 女は冷笑を浮かべた。
“恐怖に苛まれるうちに、護符アミュレットの効力も失せるだろう”
 床に黒い沁みがぽつぽつと浮かびあがり、おぞましい異形のものどもが現れた。小夜子は悲鳴をあげながら、既視感のある恐怖に疑問を抱いた。
 自分はこの恐怖を知っている。どこかで味わったことがある。どこで?
 脳裡に閃く残影にはっとなる。あの時も・・・・誰かが助けてくれた? 誰が?
“お前は大いなるふるき異界の神、ミッヒルギへの最後の貢物こうぶつ。肉片は私のかわいい子供たちに与えてやろう。ほんの少し、黄昏の王に分けてやってもいい”
 恐怖に蒼褪める小夜子を眺めおろし、女王は口元を嘲弄に歪めた。
“哀れな娘だこと……総裁神ザハラの祝福などもらい受けねば、もう少し生き長らえたろうに”
 禍々しい朱金の双眸が、にぃっと嗤った。小夜子は両手を胸の前で組みながら、唇を戦慄かせた。
「あ、貴方は、誰なの? 何が目的なの?」
 女は、空中をすべるように移動し、小夜子の目と鼻の先で足をとめた。小夜子は一言も発することができなかった。彼女は、全てを圧倒する恐怖そのものだった。
“私はナーディルニティ。ウルティマスにかわって、新世界を創造する女王”
 何もいえずにいる小夜子を見て、女王はほほえんだ。
“怯えずともよい。遅かれ早かれ、人間は滅びるのだから”
 まるで子供にいいきかせるように囁くと、灰色の腕を伸ばした。灰色の掌で、二度、三度と小夜子の頬に触れるぎりぎりのところを、奇妙なほど優しい仕草で撫でる。
“お前が死んだと知った時、黄昏の王が、どのように反応するのか少し興味がある”
「黄昏の王……?」
“ふふ……人間の借腹で産んだせいか、まるで人間のように葛藤する。無聊の慰めにちょうど良い”
 おののく小夜子を満足げに見おろし、女王は嗜虐的に笑む。そうして炭がぱっと散るようにして消えた。
 残された小夜子は、取り囲む怪物どもを見回し、唾を呑みこんだ。
 視界の暴力だ。
 腕輪のおかげで襲ってはこないが、黒い無貌むぼうの旧上種族、食屍鬼グールに囲まれて、恐怖するなという方が無理な話だ。広々とした石造りの部屋が、怪物の稠密ちゅうみつさに息苦しいほど狭く感じる。
 気が狂いそうな視界に耐え切れず、目を閉じた。そうしたところで恐怖が消えるはずもなく、両手で塞いだ耳の奥に、ひしめきあうような、かまびすしい唸り声が響いていた。
 やがておぞましい吐息を頬に感じた時、嫌悪感は極限に達した。
「助けて、誰か、誰か……っ」
 誰か。
 呼びたい名前があるのに、思いだせない。胸をしぼられるほど苦しい。助けてほしい――に。誰に?
「誰か、お願い……」
 殆ど聞き取れないほど小さな声で、小夜子は囁いた。