PERFECT GOLDEN BLOOD

4章:黄金律の血 - 3 -

 嵐がきた。
 鉛色の空から、つぶてのような雨が斜めに降り注ぎ、風雨はごうごうと音を立てて吹き荒れている。
 今夜は、呪いの館にも客脚が少ない。ルイはカウンターに座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
(雷に怯えていないといいけれど……)
 臆病な小夜子を心配している自分に気がついて、ルイの胸に自嘲の念がよぎった。気を紛らわそうと酒を飲んでいるのに、気がつけば、小夜子のことを考えている始末だ。
 小夜子が美しい館ベル・サーラを去ってからというもの、ルイは懊悩おうのうの日々を送っていた。そう仕向けたのは自分なのに、行き場のない恋着に苦しんでいる。
 意気消沈し、とことん打ちひしがれているという自覚はあるのだが、どうしようもできない。酒もあまり役に立っていない。
 途方もない年月を生きてきて、初めての失恋である。小夜子と過ごした僅かな時間を、毎日反芻している。女々しいと思いつつ、学校や、アルバイトに通う小夜子を時々見にいったりもした。元気そうな姿を見て安堵すると同時に、同世代の男と談笑している姿を見ると、酷く落ちこまされた。その場に割って入り、彼等を威嚇したい衝動に何遍も駆られた。
 嫉妬と羨望に身を焦がしながら、小夜子を遠くから眺め、これで良かったのだと自分にいい聞かせている。
 小夜子の前に二度と現れない。
 そのような決意は、脆弱な鍍金めっきでしかなかった。毎夜のように葛藤に揺さぶられ、いっそ攫ってしまおうか――危うい衝動を鎮めるために、仕事に専念している。
 もう凶悪な食屍鬼グールは残っていないが、神経質なほど首都圏を巡回し、小さな悪鬼であっても見つけたら容赦なく叩き潰した。
 戦闘で多少気は昂るが、満足感はなく、癒えぬ渇望に苛まれている。
 こうも苦しむのなら、いっそ小夜子を忘れることができたら良かったのだろうか?
 だが、小夜子を知ったあとで、彼女を感じられない生活は、もはや味も、色も、風味も感じられないのだった。
「よぉ、しけた面してんなぁ」
 不意に現れたアラスターが、隣の席に荒っぽく座った。
「……放っておいてくれ」
「気高いヴァンパイアの王が、哀れな獣のようだぞ」
「その通り、僕は哀れな獣だよ」
 ルイは自分を冷たく嗤った。
「馬鹿いってないで、帰ってシャワーを浴びろ。それから、小夜子を連れ戻してこい」
 ルイは力なく首を振った。アラスターは仕方なさそうにため息を吐いた。
「とにかく、今夜の巡回は終わっただろ。さっさと帰ろうぜ。千尋が心配していたぞ」
 日に日に憔悴していくルイを見て、兄弟たちが心配していることは、ルイも判っていた。
「……これを飲んだら帰るよ。先に戻っていてくれ」
 今は一人でいたかった。アラスターは、ウィスキーの入ったグラスをちらりと見て、肩をすくめた。
「あんまり思い詰めるなよ。どうせそのうち、我慢できずに小夜子を攫ってくるんだから、さっさと連れてきちまえよ」
「……できないよ」
 アラスターはうんざりしたように天井を見やり、重苦しさと鬱陶しさの籠った息を吐いた。
「全く、俺まで憂鬱になってくるぜ」
 そういって席を立つと、ルイの肩を叩き、手を振りながら帰っていった。
 ルイは半刻ほどしてから店をでたものの、住処への帰途につくか躊躇した。一目でいいから小夜子に会いたい。やめておけ――理性が囁くが、本能には抗えなかった。
 闇に溶け、次の瞬間には、小夜子の住むアパートの前に立っていた。
 彼女の気配を感じられたら、すぐにでも引き返すつもりだった。だが、彼女の気配はどこにもなかった。
(小夜子?)
 意識を集中して探ってみるが、彼女の匂い、暖かな呼気を感じられない。部屋にいないのだ。窓からなかを覗くと、荒らされている様子が見てとれた。霊的な残滓ざんし塵芥ちりあくたのような魍魎どもが漂っている。
 その瞬間、ルイの鼓動が不規則に脈打った。
 なんてことだ。彼女は、敵の襲撃を受けたのだ。女王の仕業――すなわち、食屍鬼グールがまだ残っていたのか!
(くそっ)
 迂闊だった。雨のせいで、彼女の気配を感じとることができなかった。
 既に敵はいない。小夜子を連れ去ったのだろう。窓辺から、彼女の甘い残り香が微かに漂っている。

 ルイは急ぎ美しい館ベル・サーラへ戻ると、兄弟たちを招集した。
 一同が集まったのは、展示室の奥にある広々とした隠し部屋で、片側は書棚が敷き詰められていた。そこに納められているのは、古代の福音書や黙示録、秘された聖書外典アポクリファといった稀覯書きこうしょばかりだ。
 正面に置かれた可動式のボードには大きな世界地図が貼られ、食屍鬼グールの襲撃場所や、暗号や数式などを記した付箋が、無数に張られている。
「何か見落としているはずだ。最初から整理しよう」
 ルイはボードの脇に立ち、レーザーポインターを手に取った。
「ウルティマスの予言通り、食屍鬼グールが最初に出現したのは日本だ。被害者の背中には“叫んでも誰にも聞こえやしない”と刻まれていた」
 と、ルイは無残な姿で伏している男性の写真を、ポインターで指した。その背中に刻まれた文字は、此の世には存在し得ない古語である。
「小夜子といるところを狙われた時、女王は僕にこういった“カ・バユ・ダチーナエル……ムァッソ”。アナグラムで紐解けば“暗くて孤独な青い城”を意味する」
食屍鬼グールの巣のことだろ? 上海の下水から、メキシコシティの洞穴まで、一匹残らず始末したぞ」
 と、アラスターが口を挟んだ。ヴィエルも頷いて、
「メキシコ討伐のあとは、市街地での被害は報告されていないよね」
「なら、どうして女王は干渉できたの? まだ巣が残っているの?」
 千尋の疑問に、アラスターは唸った。
「話が違うぜ。こんな時に限って、我らが予言者ウルティマスには面通りできないのか」
「いつものことだよ」
 ヴィエルが肩をすくめていった。
「どうでもいい時には会えるのにな」
 アラスターが不満そうにいうと、ヴィエルだけでなく、他の全員が肩をすくめた。
 神が地上に干渉するには、幾つもの複雑な制約を必要とする。望んだ時に言葉を交わせない不便さは、これまでに幾度も経験してきたことだ。
「気になることがある。メキシコ討伐の時、召喚の兆しを感じたんだ。あの時は、時間がなくて引き返したけど」
 ルイはボードに貼られた写真の一つを、ポインターの赤い光点で指した。
 秘儀のにえは、世界各地で見つかっている。場所や人物に共通点はない。無差別に選ばれている――小夜子以外は。
「巣は破壊した。けど、女王は小夜子を攫った。秘儀はまだ途絶えていないということだ」
 秘儀の場所は?
 根拠地はどこだ?
 女王の残したヒント一つ一つは点に過ぎないが、線になるはずなのだ。
“暗くて孤独な城”
 死体に刻まれた文字を凝視していると、アンブローズが千尋にこう訊ねた。
「今も結果は同じですか?」
 やってみるわね、と千尋は紅と黄金の双眸を瞬いた。
 かつて女王ナーディルニティの巫女として仕えていた千尋は、その神妙なる瞳で、時に千里先を見透せるのだ。
 じっっと虚空を見つめていた千尋は、やがて訝しげに眉をひそめた。
すがたが変わったわ。荒々しい海……青碧の鬼火ウィル・オー・ザ・ウィスプが視える」
 ヴィエルは、はっと蒼氷色の目を瞠り、ボードに留められた写真を凝視した。
 それは、上海で食屍鬼グールに襲われた被害者の大腿を拡大したもので、肉に抉らえた文字は、
「“叫んでも誰にも聞こえやしない”……つまり、声が届かない場所だ。例えば海の上とか――“絶叫する六十度”!」
 驚嘆の声に、ルイとアンブローズは閃きを目に灯したが、アラスターは眉をひそめた。
「なんだそれは」
「南緯六十度のことだよ! 南極海に続く登竜門といわれ、人間たちが俗にいう、吠える四十度、狂う五十度のさらに先になる、絶叫する六十度の荒波をいうのさ」
 ヴィエルは少し興奮気味にいった。彼はこうした感覚が大好きだった。集中して何かを考え、次第に答えに近づいていく感覚が。
「なるほど、船が六十度も傾くのか。そりゃ人間にとっては試練だな」
 アラスターが相槌を打つと、その隣でルイは両手で顔を覆い、忌々しげに唸った。
「ドレーク海峡だって? そんなところに、小夜子を連れ去ったっていうのか?」
食屍鬼グールの巣は目くらましで、女王は海底から、古き神を呼びだすつもりですか」
 アンブローズが重々しくいった。
「“No more sagacious agent could, I suppose, be desired, or even imagined.”」
 ヴィエルがしたり顔でエドガー・アラン・ポオを引用するので、千尋は目をぐるりと回した。
「やましい秘密は暴かれるものだよ」
 とルイが言葉を継ぐと、アラスターはふと真面目な顔をしてルイを見つめた。
「この件が片付いたら、ちゃんと小夜子と話せ。お前の秘密だって、遅かれ早かれいわないといけないんだ」
 ルイは眉をしかめたが、否定はしなかった。しばし押し黙り、苦々しげに頷いた。
「彼女を助けたら、きっとそうするよ」
 そういったあとで、表情を改め、全員の顔を見回した。
「時間がない。急ごう。僕は小夜子、千尋はウルティマス、ヴィエルは補佐、アラスターとアンヴローズは陽動、教団に連絡して応援も頼む」
 全員が頷いた。ヴィエルは妙に生き生きとした顔で、
「時はきたり! 焼夷しょうい弾を持っていこう。火炎武器もね。僕たちの戦いも近代化してきたよねぇ」
 呆れ顔の面々を見回し、ヴィエルは首を傾げた。
「何? 必要でしょ? 敵の退路を断つのは、殲滅戦における定石セオリーだよ」
「まぁな」
 アラスターが相槌を打つと、ヴィエルは機嫌よさそうに続けた。
「驚くなかれ、開発したばかりの光線刀もあるよ。切れ味抜群。強靭な食屍鬼グールの皮膚も、豆腐のごとく一刀両断できるんだ」
 発明家よろしく、ヴィエルはどこか楽しげにいった。呆れを含んだ目で見つめられていることに気がつくと、咳払いでごまかした。本当はスター・ウォーズの台詞を借りて、理力フォースと共にあれ……といいたかったのだが、自制した。
「お前はいつでも楽しそうだな」
 アラスターのやや呆れを含んだ声に、ヴィエルは肩をすくめて、こういった。
「僕はいつだって真面目にやってるよ。さ、準備しよう」