異海の霊火
1章:異海 - 8 -
愛海は薄暗い部屋で目が醒めた。
嵐は過ぎ去ったらしい。暴風雨の音が聴こえない。空気は冷たいが、毛布のなかは暖かい。頭上にある天蓋と、背の高い寝台の四柱にかけられた天鵞絨 をぼんやりと見つめて、いっぺんに覚醒した。
「あっ」
小さく驚嘆の声をあげて、愛海は跳ね起きた。隣でジンシンスが眠っている。
彼は、眠っている姿も神聖で美しかった。
穏やかな表情で目を閉じて、青銀色のながい睫毛が頬に影を落としている。青い肌は妙 なる燦めきを放ち、隆起した筋肉をなめらかに包んでいる。広い肩がむきだしになっているので、青い墨の紋様が、神秘的に動く様が見てとれた。
(……この刺青はどうなっているのだろう……まるで生きているみたい)
そのとき彼が幽 かなうめき声をあげて寝返りをうったため、毛布が腰の恥骨までさがった。愛海は動揺し、咄嗟に毛布を掴んで胸までひきあげた。
(ひぇ~~~っ)
どうしよう、どうしよう、どうしよう。彼が目を醒ましたらどうしよう。
早く寝台からでないといけない。けれども後ろは壁で、反対側にジンシンスがいるから、寝台をおりるには彼をまたがないといけない。
なるべくそっと動くつもりが、毛布に脚がからまって、ジンシンスの上に倒れてしまった。
「ぅわっ」
「……マナミ?」
どうしよう。ジンシンスが起きてしまった――
「ご、ごめんなさい」
あろうことかジンシンスは、慌ててどこうとする愛海の腰を掴んで、自分の腹のうえに乗せた。
「ふぎゃっ」
「……元気そうだな。具合はどうだ?」
「だっ、だ……大丈夫です」
「……そうか。今日は昼まで寝ているから、起こさないでくれ」
そういって腰をぽんぽんと叩くと、目を閉じて全身の筋肉を弛緩させた。
愛海は慎重に彼からおりると、今度は心配になってジンシンスの顔を覗きこんだ。
「……どうした?」
目を閉じたまま、彼は訊ねた。愛海は驚いたが、
「具合が悪いのですか?」
なるべく小さな声で訊ねた。
「大したことはない。船を守るために消耗して疲れたんだ。寝れば回復する……」
そういいながら、今度こそ寝入ってしまった。
愛海はそれ以上彼の邪魔をしないよう寝室をでると、静かに身支度を済ませて、窓辺の長椅子に腰を落ち着けた。
昨日と同じように、ぼうっと空を眺める。
雨はやんでいる。重苦しい乱雲も過ぎ去り、鉛色と白鑞 色の雲が、天空に平たく伸びている。
鳥は一羽も飛んでいない……海洋のど真ん中だからだろうか?
ついこの間まで受験勉強に明け暮れていたのに、こうして時間を持て余していることが未だに信じられない。
することがない。生きる目的も判らない。ただ呼吸をしているだけ……
ぼんやりしているうちに、うとうとまどろみ、目を醒ました時には、躰に毛布がかけられていた。酒卓に蓋をした銀皿が置かれていて、なかに果物とサンドイッチが入っていた。
部屋を見回してもジンシンスの姿は見当たらないが、彼が用意してくれたのだろう。
ありがたく腹ごしらえをして、洗面所でくちをすすいだあと、足に負担をかけぬよう、ふたたび長椅子に戻った。
夕方にはまだ早い。一日が長い……ジンシンスは今何をしているのだろう?
部屋にひとりでいても手持ち無沙汰だが、昨日どんな目にあったか考えると、扉に近づく気にもなれなかった。
じっとうずくまっていると、真っ黒な憂鬱が愛海を襲う。
どうしようもない、よるべなさ。先の見えない不安が辛い。辛くて苦しくて、涙が溢れでてくる。
「うぅ……っ」
泣いたってどうにもならないのに、悲憤慷慨 が止まらない。
何度も助けてくれたジンシンスに対して、申し訳ないという気持ちと、助けなければよかったのにという卑屈な思いが胸に渦巻いた。
いっそ助からなければ……海の藻屑 になっていれば……このように苦しむことはなかったのかもしれない。
どこともしれぬ混淆 海域で生き永らえていることに、意味を見いだせない。遅かれ早かれ死ぬのなら、あの時、ひと思いに死んでしまいたかった。
情緒不安定で、ぐずぐずと泣いていると、澄んだ金管の音が部屋に鳴り響いた。
「わっ」
ぎょっとした愛海は、涙を拭いて、きょろきょろと音の正体を探した。
すると壁に這わされた幾つもの管と、その隣の制御卓に目が留まった。ちかちか明滅している。直感で連絡機器だと思い、愛海は点灯している管をとって、蓋をはずして耳を近づけてみた。
“あー、こちら洗い場。誰かいるかぁ?”
驚くほど鮮明に男の声が聴こえて、愛海はぎょっとなった。
「あの、船長でしたら、今はいません」
“おぉぅ、小僧がいたぞぅ。マナミかぁ?”
聞き覚えのある声だ。
「……はい」
“マナミィ、いつまで寝ていやがる! 船長がお呼びだ、とっとと洗い場にきやがれ”
「えっ!?」
愛海はぎょっとして、返事に詰まった。
“判ったなぁー”
その間延び口調で思いだした。甲板であった、顔色の悪い、ざんばら灰色髪の男だ。
「あの、洗い場って……」
愛海はおろおろといいかけたが、既に通話は切れた後だった。
(どうしよう……ジンシンスさんが呼んでいるって、本当かな?)
彼の性格を考えると、人を介して愛海を呼びつけることに違和感を覚えるが、本人に確認したくても手段がない。
(スマホがないと不便だなぁ……)
ともかく愛海は、杖をもって船長室をでた。
回転扉を抜けて、甲板の近くを通ると、波しぶきの音に混じって、ワァワァ、威勢のいい怒号が聴こえてきた。
なんだろうと思い、立ち止まると、ちょうど反対側から見知らぬ二人の船員がやってきた。
愛海は怯みつつ、お辞儀をして横をすり抜けようとしたが、
「あっ!」
脚をひっかけられ、すっ転んだ。
咄嗟に左脚は庇ったが、腕と右膝をしたたかに床にぶつけてしまった。痛みに呻く愛海の襟首を、男は軽々と片手で掴んで持ちあげた。
「痛っ」
「しぶとい 小僧だぜ」
髭面がいった。底冷えのする茶色の眸を見て、愛海はぞっとした。この男だ。昨日愛海を帆柱にくくりつけた悪魔だ。
「高級船室に出入りしているって話、本当だったのか」
今度は顔に斜めの傷がある男がいった。にやりと笑うと、
「餓鬼のくせに色目使いやがって。うまく船長室に潜りこんだもんだな、え?」
腰を撫でられ、愛海はすくみあがった。男はさらに調子づいて、
「死神なんぞ乗せたら、この船の命運もいよいよ尽きちまう。おお、怖い」
両腕で己を抱きしめると、劇的にぶるりと身を震わせてみせた。
「あの、僕は死神じゃありません。ジンシンスさんが気を使ってくださって、船長室の衣装部屋をお借りしています」
愛海が怯えた上目遣いでいうと、はっ! と男は鼻で嗤った。
「ジンシンスさんだぁ? 馴れ馴れしい餓鬼だな。相手は凄まじい雷霆 の力を振るう海底人だぞ。悪魔とはお似合いか?」
髭面も相槌を打ち、こう続けた。
「海底人は、俺たち死刑囚より残忍冷酷だぜ。人間は虫けら同然と思っているんだからよ」
吐き捨てるようにいったあと、胡乱げな茶色の目で愛海を見やった。
「ったく、どうしてお前みたいな糞餓鬼を助けたのか……漂流させときゃぁよかったのに」
真向からなじられ、愛海は言葉がでてこなかった。怖くてあとずさる愛海を見て、男たちは冷たい笑みを口に刻んだ。
「まぁ、食料が尽きたら食っちまえばいいか。肉は薄そうだけどよ、ちったぁ腹も膨れるだろう」
ちっとも冗談に聞こえなくて、愛海は心底震えあがった。
「ひひひ……怖いか? この船に拾われたのが運の尽きなのさ」
顔に傷のある男が嗤う。そいつに尻を揉みしだかれ、愛海は悲鳴をあげた。
「やめてください」
「女みてぇに喚くんじゃねぇよ。仕事もできねぇくせに、男を覚えるのは早いときた。いっちょまえに船長をたらしこみやがって。それ、具合 を確かめてやるよ」
「やめてくださいっ!」
「その脚が治ったら、たっぷりご奉仕 させてやるよ。誰が主人か、判らせてやらないとなァ」
「離してっ!」
腕をふって暴れるが、びくともしない。愛海が恐怖に顔をゆがめたとき、
「何をしている」
地を這うような低い声が、厳かに響いた。
ふたりの男の顔は赤黒くなった。悪罵の始まる前兆に見えたが、相手が悪かった。
「死にたいのか?」
海底人の全身から放たれる青い霊気に、男たちの顔が今度は蒼くなる。大言壮語の無頼漢が一言も反駁 できず、硬直している。
一方、愛海はジンシンスに後光が射して見えていた。またしても助けてくれた。果たしてこれで何度目だろう?
「おい、誰かこのふたりを縛って独房にいれておけ」
慌てて数人の船員が駆け寄ってきて、唸ったり喚いたりして暴れる男ふたりを縛りあげ、引きずるようにして連れていった。
その後ろ姿を睨みつけていたジンシンスは、彼等が視界から消えると、愛海を見つめた。
「大丈夫か?」
先程とは打って変わって、気遣わしげな口調で訊ねた。
「はい……助かりました」
愛海はどうにか返事した。恐ろしさのあまり、声まで震えていた。ジンシンスに片腕で抱きあげられたとき、もはや抵抗する気力もなく、されるがまま船長室に運ばれた。
安全な船長室に戻り、定位置になりつつある長椅子に腰を落ち着けると、愛海は安堵のあまり、躰がクッションに沈みこんでいくように感じられた。
「連中に何をされた?」
隣に座ったジンシンスは、親身な声で訊ねた。愛海は首をふって、
「……僕は、気味悪いでしょうか?」
「いいや。なぜそんなことを訊く?」
「……死神だって」
「そんなわけあるか。あんな連中のいうことを、真に受けて傷つく必要はないんだ」
「……っ」
嗚咽を噛み締めながら、愛海は首を振った。ジンシンスの優しさが身に沁みた。
「……泣くな」
彼は愛海の肩を抱き寄せ、しばらく腕をさすりながら、やさしい慰めの言葉をかけ続けた。
愛海が少し落ち着いてくると、壁に這わされた連絡管の一つを引っ張り、船員に葡萄酒をもってくるよう指示した。
しばらくして、黒い肌の少年がいわれた通りの飲み物をもってきた。
彼は受け取ると、また愛海の傍に戻ってきた。
「飲んでごらん。多少は心が落ち着くだろう」
そういって愛海の手に、香料の効いた葡萄酒の杯を握らせた。
「ありがとうございます……」
渋々口をつけた愛海は、思わぬ甘さに小さく目を瞠った。美味しい。檸檬とシナモンの香りがする。
「美味しい……」
愛海が感想をこぼすと、ジンシンスは微笑した。小首を傾げた拍子に、美しい海水青色 の髪が肩からこぼれ落ちて、照明を浴びてきらきらと輝いた。
男性のしどけない仕草に見惚れていると、杯から雫がこぼれた。
「あ」
愛海は垂れた雫を指でぬぐい、その指を口にもっていき、舐めとろうとした。視線を感じて顔をあげると、ジンシンスがじっと見つめているのに気がついて頬が熱くなった。
(子供だなって思われたかな)
指を舐めようかどうしようか迷っていると、ジンシンスはきちんと折りたたまれた布巾をとりだし、愛海に渡した。
「これを使いなさい」
「ありがとうございます……」
恥ずかしくて真っ赤になると、ジンシンスは苦笑をこぼした。
「顔が真っ赤だぞ」
「大丈夫ですっ」
「そんなに強かったか?」
ジンシンスはおもむろに手を伸ばすと、愛海の手から杯を奪いとり一口飲んだ。
「甘いじゃないか」
ますます顔が紅くなる愛海を見て、ジンシンスは愉快そうに笑った。
「マナミには強かったようだな」
「はい……」
杯を両手で受け取り、もじもじしている愛海を、ジンシンスはふと思案げな顔になって見つめた。
「どうして部屋のそとにでたんだ? 昨日怖い思いをしたばかりだろうに」
びくっとなる愛海を見て、ジンシンスはすぐにつけくわえた。
「怒っているわけじゃない。理由を知りたいだけだ」
「……連絡管が光っていたので、蓋をとってみたら声が聞こえて、船長が呼んでいるから洗い場にこいといわれまして」
「なんだと? 俺はそんなこといっていないぞ」
愛海も薄々、そんな気はしていた。
「……すみません、連絡管に触ってしまって」
「いや、構わないが、次からは俺以外の奴の言葉を信じるな。洗い場当番はドーファンだな。あいつはさぼり癖があるんだ。大方面倒になって、愛海を呼びつけて仕事をやらせようとしたのだろう」
「……」
「さっきのふたりは、昨日愛海を帆柱にくくりつけたやつか?」
「……はい。茶色の瞳のひとが、そうだと思います」
ジンシンスの顔つきが厳しくなる。
「そうか……ドーファンは罰として船倉樽の掃除、愛海を縛りつけたやつ、アラバードは右手頸を切断、もうひとりはベイブリーだな。そっちは右脚をへし折ろうと思う。どうだ?」
「えっ!? えぇっと……」
「怖い思いをしたのはマナミだ。お前が相応の罰を決めていい。細かく刻んで鮫の餌にしてもいいが、どうしたい?」
愛海は高速で頸を振った。
「鮫の餌はだめです、切るのも折るのも……! ……すごく怖かったし、反省してほしいけど、ぃ、痛いのは……」
視線をふせる愛海の頭を、ジンシンスはぽんと撫でた。
「……優しいな、マナミは。判った。さっきのふたりは、茨の鞭打ち七回にしておく」
愛海は逡巡してから、小さく頷いた。鞭も痛そうだが、他の刑に比べたらマシだろう。それに、暴行した相手を、これ以上かばう気は起こらなかった。
「……あの、甲板が騒々しかったけれど、どうかされたのですか?」
話題を変えたくて、愛海は気になっていたことを訊ねてみた。
「ああ、双角鯨の群れに遭遇したから、船員総出で漁をしていたんだ。さっきようやく仕留めて船に繋留 したところだ。全員疲労困憊しているから、解体作業は明日に持ち越しだ」
「双角鯨……」
「いい燃料になるし、角も色々と使い道がある。肉もなかなかの美味だぞ。あとでマナミにも食べさせてやる」
愛海は曖昧に頷いた。この世界にも鯨がいるらしい。日本ですら食べたことがないのに、異海で食べることになるとは思ってもみなかった。
「することがなくて、退屈か?」
その質問に、愛海はすぐに返事できなかった。かつての自分の部屋が脳裏を過ぎったからだ。愛すべき、居心地の良い空間。部屋にいれば、携帯をかまったり、漫画を読んだり、テレビを見たりといくらでもすることがあったけれど、ここにいても空を眺めるくらいしかすることがない。
助けてもらった身で我がままはいえないが、はっきりいって、退屈だった。
「……いえ、大丈夫です」
ぎこちない返事を聞いてジンシンスは、クックッと笑いながら、
「判った。無聊 の慰めになるものを用意しよう。もし本を読みたければ、書斎を見てみるといい」
「すみません、お手数をおかけして」
「ちっとも手間じゃないさ。それにこういう時は、感謝の言葉を口にするものだ」
「ありがとうございます」
うん、とジンシンスは頷いたあと、面白がるような光を目に灯して、こう訊ねた。
「ところで、今夜はどこで寝る? 俺の寝台を使ってもいいぞ。あっちの方が広いだろう」
「いえ、大丈夫です。衣装部屋で十分です」
なんてことを訊くのだろうと思いながら、愛海は背筋を伸ばして答えた。
「そうか? 遠慮しなくていいんだぞ」
「大丈夫ですぅ!」
そそくさと衣裳部屋に逃げていく愛海の背に、くすくすと笑い声が聞こえてきた。からかわれたのだ。顔が燃えるように熱くなるのを自覚しながら、愛海は小さな聖域に逃げこんだ。
嵐は過ぎ去ったらしい。暴風雨の音が聴こえない。空気は冷たいが、毛布のなかは暖かい。頭上にある天蓋と、背の高い寝台の四柱にかけられた
「あっ」
小さく驚嘆の声をあげて、愛海は跳ね起きた。隣でジンシンスが眠っている。
彼は、眠っている姿も神聖で美しかった。
穏やかな表情で目を閉じて、青銀色のながい睫毛が頬に影を落としている。青い肌は
(……この刺青はどうなっているのだろう……まるで生きているみたい)
そのとき彼が
(ひぇ~~~っ)
どうしよう、どうしよう、どうしよう。彼が目を醒ましたらどうしよう。
早く寝台からでないといけない。けれども後ろは壁で、反対側にジンシンスがいるから、寝台をおりるには彼をまたがないといけない。
なるべくそっと動くつもりが、毛布に脚がからまって、ジンシンスの上に倒れてしまった。
「ぅわっ」
「……マナミ?」
どうしよう。ジンシンスが起きてしまった――
「ご、ごめんなさい」
あろうことかジンシンスは、慌ててどこうとする愛海の腰を掴んで、自分の腹のうえに乗せた。
「ふぎゃっ」
「……元気そうだな。具合はどうだ?」
「だっ、だ……大丈夫です」
「……そうか。今日は昼まで寝ているから、起こさないでくれ」
そういって腰をぽんぽんと叩くと、目を閉じて全身の筋肉を弛緩させた。
愛海は慎重に彼からおりると、今度は心配になってジンシンスの顔を覗きこんだ。
「……どうした?」
目を閉じたまま、彼は訊ねた。愛海は驚いたが、
「具合が悪いのですか?」
なるべく小さな声で訊ねた。
「大したことはない。船を守るために消耗して疲れたんだ。寝れば回復する……」
そういいながら、今度こそ寝入ってしまった。
愛海はそれ以上彼の邪魔をしないよう寝室をでると、静かに身支度を済ませて、窓辺の長椅子に腰を落ち着けた。
昨日と同じように、ぼうっと空を眺める。
雨はやんでいる。重苦しい乱雲も過ぎ去り、鉛色と
鳥は一羽も飛んでいない……海洋のど真ん中だからだろうか?
ついこの間まで受験勉強に明け暮れていたのに、こうして時間を持て余していることが未だに信じられない。
することがない。生きる目的も判らない。ただ呼吸をしているだけ……
ぼんやりしているうちに、うとうとまどろみ、目を醒ました時には、躰に毛布がかけられていた。酒卓に蓋をした銀皿が置かれていて、なかに果物とサンドイッチが入っていた。
部屋を見回してもジンシンスの姿は見当たらないが、彼が用意してくれたのだろう。
ありがたく腹ごしらえをして、洗面所でくちをすすいだあと、足に負担をかけぬよう、ふたたび長椅子に戻った。
夕方にはまだ早い。一日が長い……ジンシンスは今何をしているのだろう?
部屋にひとりでいても手持ち無沙汰だが、昨日どんな目にあったか考えると、扉に近づく気にもなれなかった。
じっとうずくまっていると、真っ黒な憂鬱が愛海を襲う。
どうしようもない、よるべなさ。先の見えない不安が辛い。辛くて苦しくて、涙が溢れでてくる。
「うぅ……っ」
泣いたってどうにもならないのに、
何度も助けてくれたジンシンスに対して、申し訳ないという気持ちと、助けなければよかったのにという卑屈な思いが胸に渦巻いた。
いっそ助からなければ……海の
どこともしれぬ
情緒不安定で、ぐずぐずと泣いていると、澄んだ金管の音が部屋に鳴り響いた。
「わっ」
ぎょっとした愛海は、涙を拭いて、きょろきょろと音の正体を探した。
すると壁に這わされた幾つもの管と、その隣の制御卓に目が留まった。ちかちか明滅している。直感で連絡機器だと思い、愛海は点灯している管をとって、蓋をはずして耳を近づけてみた。
“あー、こちら洗い場。誰かいるかぁ?”
驚くほど鮮明に男の声が聴こえて、愛海はぎょっとなった。
「あの、船長でしたら、今はいません」
“おぉぅ、小僧がいたぞぅ。マナミかぁ?”
聞き覚えのある声だ。
「……はい」
“マナミィ、いつまで寝ていやがる! 船長がお呼びだ、とっとと洗い場にきやがれ”
「えっ!?」
愛海はぎょっとして、返事に詰まった。
“判ったなぁー”
その間延び口調で思いだした。甲板であった、顔色の悪い、ざんばら灰色髪の男だ。
「あの、洗い場って……」
愛海はおろおろといいかけたが、既に通話は切れた後だった。
(どうしよう……ジンシンスさんが呼んでいるって、本当かな?)
彼の性格を考えると、人を介して愛海を呼びつけることに違和感を覚えるが、本人に確認したくても手段がない。
(スマホがないと不便だなぁ……)
ともかく愛海は、杖をもって船長室をでた。
回転扉を抜けて、甲板の近くを通ると、波しぶきの音に混じって、ワァワァ、威勢のいい怒号が聴こえてきた。
なんだろうと思い、立ち止まると、ちょうど反対側から見知らぬ二人の船員がやってきた。
愛海は怯みつつ、お辞儀をして横をすり抜けようとしたが、
「あっ!」
脚をひっかけられ、すっ転んだ。
咄嗟に左脚は庇ったが、腕と右膝をしたたかに床にぶつけてしまった。痛みに呻く愛海の襟首を、男は軽々と片手で掴んで持ちあげた。
「痛っ」
「
髭面がいった。底冷えのする茶色の眸を見て、愛海はぞっとした。この男だ。昨日愛海を帆柱にくくりつけた悪魔だ。
「高級船室に出入りしているって話、本当だったのか」
今度は顔に斜めの傷がある男がいった。にやりと笑うと、
「餓鬼のくせに色目使いやがって。うまく船長室に潜りこんだもんだな、え?」
腰を撫でられ、愛海はすくみあがった。男はさらに調子づいて、
「死神なんぞ乗せたら、この船の命運もいよいよ尽きちまう。おお、怖い」
両腕で己を抱きしめると、劇的にぶるりと身を震わせてみせた。
「あの、僕は死神じゃありません。ジンシンスさんが気を使ってくださって、船長室の衣装部屋をお借りしています」
愛海が怯えた上目遣いでいうと、はっ! と男は鼻で嗤った。
「ジンシンスさんだぁ? 馴れ馴れしい餓鬼だな。相手は凄まじい
髭面も相槌を打ち、こう続けた。
「海底人は、俺たち死刑囚より残忍冷酷だぜ。人間は虫けら同然と思っているんだからよ」
吐き捨てるようにいったあと、胡乱げな茶色の目で愛海を見やった。
「ったく、どうしてお前みたいな糞餓鬼を助けたのか……漂流させときゃぁよかったのに」
真向からなじられ、愛海は言葉がでてこなかった。怖くてあとずさる愛海を見て、男たちは冷たい笑みを口に刻んだ。
「まぁ、食料が尽きたら食っちまえばいいか。肉は薄そうだけどよ、ちったぁ腹も膨れるだろう」
ちっとも冗談に聞こえなくて、愛海は心底震えあがった。
「ひひひ……怖いか? この船に拾われたのが運の尽きなのさ」
顔に傷のある男が嗤う。そいつに尻を揉みしだかれ、愛海は悲鳴をあげた。
「やめてください」
「女みてぇに喚くんじゃねぇよ。仕事もできねぇくせに、男を覚えるのは早いときた。いっちょまえに船長をたらしこみやがって。それ、
「やめてくださいっ!」
「その脚が治ったら、たっぷり
「離してっ!」
腕をふって暴れるが、びくともしない。愛海が恐怖に顔をゆがめたとき、
「何をしている」
地を這うような低い声が、厳かに響いた。
ふたりの男の顔は赤黒くなった。悪罵の始まる前兆に見えたが、相手が悪かった。
「死にたいのか?」
海底人の全身から放たれる青い霊気に、男たちの顔が今度は蒼くなる。大言壮語の無頼漢が一言も
一方、愛海はジンシンスに後光が射して見えていた。またしても助けてくれた。果たしてこれで何度目だろう?
「おい、誰かこのふたりを縛って独房にいれておけ」
慌てて数人の船員が駆け寄ってきて、唸ったり喚いたりして暴れる男ふたりを縛りあげ、引きずるようにして連れていった。
その後ろ姿を睨みつけていたジンシンスは、彼等が視界から消えると、愛海を見つめた。
「大丈夫か?」
先程とは打って変わって、気遣わしげな口調で訊ねた。
「はい……助かりました」
愛海はどうにか返事した。恐ろしさのあまり、声まで震えていた。ジンシンスに片腕で抱きあげられたとき、もはや抵抗する気力もなく、されるがまま船長室に運ばれた。
安全な船長室に戻り、定位置になりつつある長椅子に腰を落ち着けると、愛海は安堵のあまり、躰がクッションに沈みこんでいくように感じられた。
「連中に何をされた?」
隣に座ったジンシンスは、親身な声で訊ねた。愛海は首をふって、
「……僕は、気味悪いでしょうか?」
「いいや。なぜそんなことを訊く?」
「……死神だって」
「そんなわけあるか。あんな連中のいうことを、真に受けて傷つく必要はないんだ」
「……っ」
嗚咽を噛み締めながら、愛海は首を振った。ジンシンスの優しさが身に沁みた。
「……泣くな」
彼は愛海の肩を抱き寄せ、しばらく腕をさすりながら、やさしい慰めの言葉をかけ続けた。
愛海が少し落ち着いてくると、壁に這わされた連絡管の一つを引っ張り、船員に葡萄酒をもってくるよう指示した。
しばらくして、黒い肌の少年がいわれた通りの飲み物をもってきた。
彼は受け取ると、また愛海の傍に戻ってきた。
「飲んでごらん。多少は心が落ち着くだろう」
そういって愛海の手に、香料の効いた葡萄酒の杯を握らせた。
「ありがとうございます……」
渋々口をつけた愛海は、思わぬ甘さに小さく目を瞠った。美味しい。檸檬とシナモンの香りがする。
「美味しい……」
愛海が感想をこぼすと、ジンシンスは微笑した。小首を傾げた拍子に、美しい
男性のしどけない仕草に見惚れていると、杯から雫がこぼれた。
「あ」
愛海は垂れた雫を指でぬぐい、その指を口にもっていき、舐めとろうとした。視線を感じて顔をあげると、ジンシンスがじっと見つめているのに気がついて頬が熱くなった。
(子供だなって思われたかな)
指を舐めようかどうしようか迷っていると、ジンシンスはきちんと折りたたまれた布巾をとりだし、愛海に渡した。
「これを使いなさい」
「ありがとうございます……」
恥ずかしくて真っ赤になると、ジンシンスは苦笑をこぼした。
「顔が真っ赤だぞ」
「大丈夫ですっ」
「そんなに強かったか?」
ジンシンスはおもむろに手を伸ばすと、愛海の手から杯を奪いとり一口飲んだ。
「甘いじゃないか」
ますます顔が紅くなる愛海を見て、ジンシンスは愉快そうに笑った。
「マナミには強かったようだな」
「はい……」
杯を両手で受け取り、もじもじしている愛海を、ジンシンスはふと思案げな顔になって見つめた。
「どうして部屋のそとにでたんだ? 昨日怖い思いをしたばかりだろうに」
びくっとなる愛海を見て、ジンシンスはすぐにつけくわえた。
「怒っているわけじゃない。理由を知りたいだけだ」
「……連絡管が光っていたので、蓋をとってみたら声が聞こえて、船長が呼んでいるから洗い場にこいといわれまして」
「なんだと? 俺はそんなこといっていないぞ」
愛海も薄々、そんな気はしていた。
「……すみません、連絡管に触ってしまって」
「いや、構わないが、次からは俺以外の奴の言葉を信じるな。洗い場当番はドーファンだな。あいつはさぼり癖があるんだ。大方面倒になって、愛海を呼びつけて仕事をやらせようとしたのだろう」
「……」
「さっきのふたりは、昨日愛海を帆柱にくくりつけたやつか?」
「……はい。茶色の瞳のひとが、そうだと思います」
ジンシンスの顔つきが厳しくなる。
「そうか……ドーファンは罰として船倉樽の掃除、愛海を縛りつけたやつ、アラバードは右手頸を切断、もうひとりはベイブリーだな。そっちは右脚をへし折ろうと思う。どうだ?」
「えっ!? えぇっと……」
「怖い思いをしたのはマナミだ。お前が相応の罰を決めていい。細かく刻んで鮫の餌にしてもいいが、どうしたい?」
愛海は高速で頸を振った。
「鮫の餌はだめです、切るのも折るのも……! ……すごく怖かったし、反省してほしいけど、ぃ、痛いのは……」
視線をふせる愛海の頭を、ジンシンスはぽんと撫でた。
「……優しいな、マナミは。判った。さっきのふたりは、茨の鞭打ち七回にしておく」
愛海は逡巡してから、小さく頷いた。鞭も痛そうだが、他の刑に比べたらマシだろう。それに、暴行した相手を、これ以上かばう気は起こらなかった。
「……あの、甲板が騒々しかったけれど、どうかされたのですか?」
話題を変えたくて、愛海は気になっていたことを訊ねてみた。
「ああ、双角鯨の群れに遭遇したから、船員総出で漁をしていたんだ。さっきようやく仕留めて船に
「双角鯨……」
「いい燃料になるし、角も色々と使い道がある。肉もなかなかの美味だぞ。あとでマナミにも食べさせてやる」
愛海は曖昧に頷いた。この世界にも鯨がいるらしい。日本ですら食べたことがないのに、異海で食べることになるとは思ってもみなかった。
「することがなくて、退屈か?」
その質問に、愛海はすぐに返事できなかった。かつての自分の部屋が脳裏を過ぎったからだ。愛すべき、居心地の良い空間。部屋にいれば、携帯をかまったり、漫画を読んだり、テレビを見たりといくらでもすることがあったけれど、ここにいても空を眺めるくらいしかすることがない。
助けてもらった身で我がままはいえないが、はっきりいって、退屈だった。
「……いえ、大丈夫です」
ぎこちない返事を聞いてジンシンスは、クックッと笑いながら、
「判った。
「すみません、お手数をおかけして」
「ちっとも手間じゃないさ。それにこういう時は、感謝の言葉を口にするものだ」
「ありがとうございます」
うん、とジンシンスは頷いたあと、面白がるような光を目に灯して、こう訊ねた。
「ところで、今夜はどこで寝る? 俺の寝台を使ってもいいぞ。あっちの方が広いだろう」
「いえ、大丈夫です。衣装部屋で十分です」
なんてことを訊くのだろうと思いながら、愛海は背筋を伸ばして答えた。
「そうか? 遠慮しなくていいんだぞ」
「大丈夫ですぅ!」
そそくさと衣裳部屋に逃げていく愛海の背に、くすくすと笑い声が聞こえてきた。からかわれたのだ。顔が燃えるように熱くなるのを自覚しながら、愛海は小さな聖域に逃げこんだ。