異海の霊火

1章:異海 - 9 -

 翌昼、ジンシンスは独房に入れた不届きな船員たちを、最上甲板ハリケーン・デッキで公開鞭打ち刑に処した。
 船員の殆どが見物にやってきたらしいが、愛海は船長室にいたので、その様子を知らない。夜になってジンシンスから事務的な報告は受けたが、鞭打ちがどのようなものか、正しく理解していなかった。
 後になってシドから仔細を聞いたとき、その克明過ぎる説明に、朝食が喉を逆流しかけた。鞭打ちが、皮膚が罅割れて流血するほどの拷問だとは、思っていなかったのだ。
 鞭は、ジンシンスが振るったという。
 愛海にはとても親切にしてくれる彼が、人を厳しく罰する姿というのは、なかなか想像つかなかった。
 だが真実なのだろう。愛海が甲板を歩いていても、船員は以前のようにちょっかいをかけてこない。厭な視線は感じるが、手をだそうとはしない。公開鞭打ち刑がよほど恐ろしかったのだ。
 恐ろしい思いをしたのは愛海も同じだが、波乱に満ちた船生活に、安定と規律が生まれようとしていた。
 朝は船長室でのんびり過ごし、昼になるとジンシンスと共に医務室にく。
 医者のシドは、愛海にとっては親切な紳士で、愛海の脚の具合や体調を気にかけてくれる。死刑囚の烙印がなければ、連続殺人鬼だなんて微塵も思わないだろう。船員には厳しいジンシンスも、彼には一目置いているようで、愛海の体調に関わる助言などをシドが口にするときは、真摯に耳を傾けている。
 彼等のおかげで、愛海の体調は大分よくなった。熱は引いて、船酔いもなくなり、脚の腫れも殆ど引いた。
 昼の診察を終えたあとは船長室に戻り、愛海はひとりで昼餉をとる。
 夜になって、ジンシンスに時間があるときは、ふたりで食事をする。彼は酒を嗜む程度だが、愛海が食事する間、会話につきあってくれる。お互いに一日の出来事を話したり、愛海の質問に答えてくれる。
 夕餉のあとジンシンスは書斎にいき、愛海は早々に寝支度をしてしんに就く。
 愛海の私室と化した衣装部屋は、数日のうちに居心地よく整えられていた。
 衣装櫃や壇には、雑誌が数冊、カードゲーム、玩具といった、子供が好きそうな品々が揃えてある。どこから調達してくるのか不明だが、ジンシンスは頻繁に贈り物をしてくれるのだ。
 その日の夜も、彼は贈り物を持ってきた。
 窓辺で寛いでいる愛海を見て、彼はにっこりしたかと思うと、背に回していた腕を、ぱっと愛海の前にさしだした。
「えっ?」
 青と銀の毛がいりまじった、凛々しくも愛らしい熊のぬいぐるみと目が遭う。
「……ぬいぐるみ?」
 眼前のぬいるぐるみをたっぷり五秒観察したあと、手にしている海底人を仰ぐと、彼は期待に満ちた目で愛海を見つめていた。
「男の子には興味ないかな?」
 愛海はおずおずと受け取った。
「もらっていいんですか?」
「どうぞ」
「かわいい……ありがとうございます」
 愛海が両腕に抱きしめて、嬉しさを表現するように、躰を左右に揺らすと、ジンシンスは思わずうっとりするような微笑みを浮かべた。
 神々しい笑みを目の当たりにして、愛海の心臓は宙返りし、意味もなく、くすくすと笑いたい衝動に駆られて狼狽えてしまう。
(やだ、私……)
 同学年の女子たちが時折見せる、主体性のない甘ったれた仕草、鼻につく媚態を蔑んでいたのに、これでは愛海も同罪だ。
 少し冷静になったところで、ぬいぐるみをじっと見つめてふと思う。
 果たして彼は、愛海を幾つだと思っているのだろう?
(ぬいぐるみで喜ぶ男の子……十二歳くらい? もっと下? いやいやまさか……)
 そのまさかである。ジンシンスは、愛海を八つか九つあたりだと見ていた。外見の幼さと、たどたどしい言葉遣い、傷を負った動物のような臆病な眼差しが、実際の年齢よりも遥かに幼く見せていたのである。
 このときの、ぬいぐるみを喜ぶ愛海の笑顔は、ジンシンスの心に強く残った。
 彼は、小さな手でぬいぐるみを抱き寄せる愛海を愛らしく思い、つい衣裳部屋に入っていく後ろ姿を追いかけてしまった。もしかしたら、ぬいぐるみを抱き寄せて眠る姿を見られるかもしれないと思ったのだ。
 衣装部屋は色々な小物で溢れている。宝石箱、小さな植物、画用紙と筆。すべてジンシンスが無聊の慰めに与えたものだ。
 新品の航海日誌もそのひとつで、櫃に置かれたそれをふと見ると、表紙に見慣れぬ“愛海”という記号があり、ジンシンスは小首を傾げた。
「綺麗な紋様だな」
「わた……僕の名前です。愛する海と書いて、まなみと読むんです」
「へぇ! そうなのか」
「はい。海のように広い愛をもつように、そんな願いをこめて両親が授けてくれました」
「なんと良い名だ。愛海か、覚えたぞ。御両親から良い名を戴いたな」
「はい……」
 愛海の目が潤んだ。
 ジンシンスがそっと髪を撫でると、愛海はくちびるを噛み締めて、目を伏せた。
「……俺は、偉大な祖先の名を継承した。俺の一族はそうして後衛から前衛へと受け継ぎ、繋いでいく。名は魂だ。愛海も、その名と共に一族の魂を受け継いでいる。どれだけ離れていても、それは変わらない」
「ふ、ぅ……っ」
 ぽろっと流れ落ちた涙が、赤い頬を伝い落ちる。その滴を指でぬぐってやると、たまらない気持ちになって、ジンシンスは白い額に強く、くちびるを押しつけた。そしてそのまま囁いた。
「泣くな、愛海。これからは、御両親に代わって俺が愛海の名を呼ぼう。何があろうとも、俺が守ってやる」
 悲しみにうち震える小さな躰を、ジンシンスは両腕で抱きしめた。やがて泣き疲れて眠りに就くまで、優しい慰めの言葉をかけ続けた。
 しかし愛海が眠りに就いたあとも、ジンシンスはなかなか傍を離れることができなかった。つい寝顔を見守ってしまう。
 ――なぜだろう?
 この小さな生き物が己の庇護下にあり、安心した様子でくつろぎ、食事をして、穏やかな眠りに就くことに、不思議なほど満足している。
 それは、決して短くはないジンシンスのせいにおいて、初めて知る充足感にほかならなかった。
 名残惜しい気持ちで衣装部屋の扉をしめて、書斎に入り、書き物を始めても、ふとした瞬間に愛海のことが思いだされて手が止まってしまう。
 海底国の王子という身分にありながら、人間世界を見聞してきたジンシンスは、他の懐古的な同族と違って、人間社会をそれなりに知っていた。
 大陸人は貪欲酷薄でいやしい。純血主義は海底人も同じだが、彼らの場合は徹底した資本主義でもあり、陋劣ろうれつ宿痾しゅくあに罹っている。人間が人間を差別し、売買し、奴隷として使役し、平気で処刑したりする。  歴史に学べない、最悪な生き物なのだ。大地を穢し、海を穢し、いつまで経っても同族同士で滅ぼしあうことをやめようとしない。この数世紀は特にひどい。
 だから旧神が海洋に顕れたときは、ついに人間共に鉄槌をくだしにきたのだと思ったほどだ。
 しかし、愛海は大陸人とはまるで違う。
 あまりにも果敢はかない。弱すぎる。頼りげない姿には、妙に庇護欲をそそられる。
 果たして自分が同じ年頃の時、あそこまで儚げだったろうか?
 外貌はともかく、性格は今よりも遥かに気性が荒かった。
 大陸の寄宿学校に預けられていた頃は、王子とほめそやされる一方で、特異な、少女めいた容姿を嗤う貴族連中を、かたっぱしから締めあげていた記憶がある。
 ジンシンスにとって成人前の少年というのは、腕白の盛りで、時に手がつけられぬほど暴れるものだ。その点は人間も海底人もそう大差ない。
 しかし、そういった兆候をあの子供には一切感じられない。
 世故せこに疎く、内気で控えめで、ジンシンスのほかに自分から話しかけるのは、シドくらいだ。
 そんな臆病な子供だから、少年と知りながら、思わずぬいぐるみを渡してしまったのだろう。
(喜んでくれたから良かったが、考えてみると、とち狂った選択だったよな……)
 船には十六歳の少年もいるが、もっとふてぶてしいし、そもそも殺人に躊躇のない性格をしている。ぬいぐるみなど渡したら、真顔でその腹に短剣を突き刺しかねない。
(愛海は他の少年と違う。もっとこう……繊細なんだ)
 考えれば考えるほど、己が庇護する小さな臆病な子供が、鮫の群れに落とされた餌のように思えてならなかった。
 親が恋しくて歔欷きょきする姿を思うと、なんともいえない気持ちにさせられる。哀れにか弱く、今にもこわれてしまいそうに見えてあまりに愛おしく、何が何でも守ってやらなければと思う。
 それは、庇護心にしては強い感情だったが、胸に沸き起こった決意をうべなうように、ジンシンスは静かに、二度、三度と頷いた。