異海の霊火

2章:グロテスク - 4 -

 漂流二十六日目。
 お日柄もよく、峻烈しゅんれつたる凍える空気に、低く垂れこめた空は乳石英色に曇っている。
 黙々と甲板磨きをしている愛海の傍に、見知らぬ船員が近づいてきた。
「よぉ、マナミ」
 目深にフードをかぶっているうえに、覆面をつけているので、顔の判別は殆どつかない。見覚えはなさそうだが、愛海は軽く一揖いちゆうした。
 幸い、男はそれ以上からんでくることもなく、手元の帆綱をたぐり寄せている。
 船員のなかには、ウルブスやジャンのように良心的な男もいるが、極めて稀だ。それ以外の、他人に無関心な男はまだいいが、妙に馴れ馴れしかったり、意地悪で嗜虐的な男は注意が必要だ。
 とくに“長包丁”。
 陰険陰湿の冷嘲屋れいちょうやで、病気の魚のような目には邪悪の性が顕れている。気に入らないことがあってもなくても、他人を傷つけずにはいられない悪魔。愛海に対しては特にそうだが、最近では愛海も、彼の言葉をまもとに受けとめないようにしていた。そうでもしないと精神がもたないから。
 甲板の仕事を終えて厨房に向かうと、“長包丁”が長包丁で大きな海獣をさばいていた。海豹あざらしに似ているが、躰は白熊並に大きく、額には立派な角が生えている。
 やれやれ、今日も脂肉切りか……と愛海は内心で辟易するが、ホープはどこか生き生きして見える。革の前掛けと鯨鉤くじらかぎがこれほど似合う男もそういないだろう。
 彼はえぐりとった大きな目玉の一つをとり、ナイフで表面に穴をあけ、くちびるをつけると、ちゅっと白い不定形状ゼリー状の液体を吸いだした。それから味わうように咀嚼して、ごくんと嚥みこんだ。
(うぇっ……)
 愛海は見ているだけで気持ちが悪くなった。嫌悪が顔に顕れていたようで、最悪なことにホープの嗜虐心に火をけてしまった。
「お前も喰ってみろ」
 と、彼はもう一つの目玉もくり抜くと、やはりナイフの切っ先で穴を開けてから愛海に突きだした。
「いえ、結構です」
 愛海は首を振るが、ホープは目玉を突きだしてくる。
「喰えよ」
「すみません、無理です」
 涙目の愛海をじっと見つめて、ホープは乾いたような薄笑いを洩らした。
「喰うんだよ。さっさと口を開けろ」
「ぃやっ、無理です!」
しからん小僧だな。これも船乗りの洗礼だ。目玉は栄養もあるし体力もつく。お前みたいに細っこいやつは、喰った方がいいんだ」
 さとす口調で糊塗ことしているものが、陰気な顔に顕れていた。この性根の腐った男は、怯える愛海を見て愉しんでいるだけだ。
「うぅ……っ」
 泣きだす寸前の愛海の前に、陥没頭のジャンがぬっと顕れた。彼は目玉の刺さったナイフを取りあげると、くちびるをつけてちゅーっと吸った。
「おい……」
 調理長は文句をいいかけたが、ジャンはどこ吹く風できゃっきゃっと笑っている。そのまま目玉を丸呑みすると、口を大きく開けて舌をだし、もう喰ってしまったのだと誇示してみせた。
「この馬鹿が」
 ホープは、ジャンの陥没している側頭部をはたいた。それでもジャンが剽軽ひょうきんな仕草で笑っているのを見、頸を振って低く悪態を洩らした。それから愛海に視線を戻すと、
「喰わなかった罰だ。冷凍室からにしんを持ってこい。今度は一人でやれよ」
「アイサー!」
 それならお安い御用だ。ジャンに感謝しながら、愛海は手提げをひっかけて厨房を飛びだした。
 優しいジャン。心が豊かで朗らかで、いつも愛海を助けてくれる。彼は英雄だ。
 胸を熱くさせながら巨大な冷凍室に向かうと、扉を開いて、明かりを点けた。当然だがすごく寒い。
 大量の魚が氷った状態で陳列されている。にしんを探しながら奥の方へ歩いていき、ふと眉をひそめた。
 隅の方に、奇妙な物体が無造作に積み重なっている。分厚い霜がおりて判りつらいが、切り身の烏賊いかだろうか……正体を見極めようとしていると、不意に頭のなかで警鐘が鳴り響いた。
「やだっ」
 理解すると同時に、氷のような恐怖が総身をかけぬけた。なんてことだ――あれは切断された人間の四肢だ!
 急いで冷凍室をでようとしたら、目の前で扉が開いた。
「ひっ」
 最悪だ。ホープがしきいをまたいで冷凍室に入ってくる。
「どうした、マナミ?」
「ぁ……」
 愛海が後ずさりをすると、ホープはゆったりとした、威圧的な歩調で距離をつめた。室の半ばほどで脚を止めると、じっと愛海を観察していたが、やがて冷嘲するような光を、灰青色の眼に閃かせた。
「面白いものでも見つけたか?」
 そういって彼は、部屋の隅に足を向けると、凍りづけにされた腕を掴み、愛海を振り向いた。
「これは非常食・・・だ」
 あまりの恐怖に、愛海は声もでなかった。胃がせりあがってくるのを感じて、咄嗟に両手で口を押える。
「驚いたか?」
 蒼白になっている愛海を見て、ホープはせせら嗤った。
「感謝しろよ。俺のおかげで、皆飢えずに済むんだ」
 愛海は涙に濡れた目でホープを仰ぎ見た。淡々とした無表情のなかに、異常に溌剌はつらつとしたものが顕れている気がした。
「返事」
「ぁ……」
「返事しろ」
「あ、アイアイアサー」
 愛海は震える声でいった。握りしめた拳の関節に、血の気が失せていた。
「このことを船長にいってみろ。お前にこいつを喰わせてやる」
 凍った腕を見せてから、
「それからお前もさばいて・・・・、凍りづけにしてやる。腹が空いたら、内臓を炒めて喰ってやるよ。桃色の脳髄は食後の氷菓子だ。お前を甘やかしている船長にも、振る舞ってやらんとなァ」
 その声は、驚くほどうつろで冷たくて、愛海は一言も口がきけなくなった。
 重苦しい沈黙が流れる。
 茫然と立ち尽くす愛海を、ホープは冷嘲的に睥睨へいげいしてから、ゆっくりと踵を返して立ち去った。
 彼が去った後も、愛海はすぐに動けなかった。慎重に、数秒ほど間をおいてから、静かに冷凍室の扉を開けた。
 ――奴はもういない。
 さらに数秒ほど空けて、ホープが戻ってこないことを確認してから、扉の外にでた。速足で廊下を歩きながら、たった今起きたことを理解しようと努力する――が、うまく処理できない。
(あのおびただしい手脚は何? ホープの仕業なの? まさか本当に食料なの――厭だ、考えたくない!)
 今はとにかく露天甲板にでることが最優先だ。
 階段をのぼって歩廊甲板にでると、船尾に向かう途中で、張り詰めていた糸が切れたように、へなへなと床に座りこんでしまった。
「ふぅ……っ」
 ただ座っているだけなのに、勝手に涙が溢れでてきた。
 まさか、まさか……氷漬けにされた人間の手脚を、ホープが本当に調理しているのだとしたら、あまりにも極悪非道だ。これまで口にしてきた食事に使われていたのだとしたら――考えるだけでも虫唾が走る。
 どうしたらあそこまで残忍になれるのだろう?
 あの徹底的冷血漢は、愛海がすくみあがっているのを見て楽しんでいるのだ。己が人に恐れられることを熟知しており、それを快感とする生来の極悪人なのだ。
 心底憎くて業腹ごうはらなのに、いざとなると何もできない。明日も明後日も、永劫に唯々と従う己を思うと、辛くて惨めで、生きていることがたまらなく厭になる。
 いっそ助からなければ良かった。
 息をしながら、じわじわと朽ちていく病葉わくらばになるくらいなら、ひと思いに海の藻屑になっていれば良かった。
 今さら遅い――この境涯きょうがいから逃げだしたくても、海のど真ん中にいてはどうしようもできない。この船が運よくどこかへ寄港するのを待つことしかできない。
(……本当に?)
 ふらふらと躰を起こした愛海は、手すりを掴んだ。
 曇天で濃霧もでているので、辺り一面石灰水を流したみたいに乳白色に包まれている。
 白い波濤はとうは見えないが、唸り声は聴こえる。息の凍るような冷たい海だ。身を投じればきっと死ねる……
 地獄のあなをのぞくように、愛海は身を乗りだした。
「おい」
 ぎょっとして振り向くと、三人の船員が見ていた。びくつく愛海を見て、ひとりが嗜虐的な笑みを浮かべた。
「なんだ、死ぬつもりか? え?」
 覆面を指でさげて笑った男の歯は、やすりで磨きでもしたのか、鮫のように尖っていた。
 鮫男の隣にいるふたりには見覚えがある。
 底冷えのする茶色の眸の男、アルバートは雷雨のなか愛海を最上甲板ハリケーン・デッキに縛りつけて置き去りにした男だ。あとひとり、顔に斜めの傷がある男はベイブリー、歩廊で愛海を襲おうとした男だ。
 ふたりともジンシンスに拷問鞭打ちに処されたはずだ。まさか、愛海に仕返しにきたのだろうか?
 恐怖で動けない愛海の腕を、にやついた顔でベイブリーが掴んだ。腐臭のような息が顔にかかり、愛海は心底ぞっとして震えあがった。
「よせ、船長に見つかったら今度こそ殺されるぞ」
 意外にもアルバートは警句を発したが、
「こいつにはたっぷり礼をしてもらわんとなぁ。第一、死のうとしていたんだぜ? 俺らが遊んで海に落としたって、同じことだろう」
 ベイブリーはぎらついた眸でいい放った。
「……好きにしろ。俺はもう疫病神に関わるのは御免だ」
 アルバートは背を向けたが、鮫男は乗り気のようで、威嚇するように愛海に近づいてきた。
 愛海は己の命運を呪った。一難去ってまた一難。男のふりをしていれば、少なくとも貞操の危険はないと思っていたが、甘かった。
 恥辱と怒り、無力がどっと押し寄せてきて、こぶしを固く握りしめる。
「もう部屋に戻りますから……きゃっ」
 踵を返して走ろうとしたが、叶うはずもなく、あっけなく短艇の影にひっぱりこまれた。
「そんなに急ぐことないだろ」
 欲に濡れた目が愛海を見据えた。
「離してくださいっ」
「それで全力かよ? へへ……ちょろいもんだな」
 いとも容易く愛海を抑えこんだベイブリーは、分厚い防寒服の釦に手をかけた。
「やだやだやだ! やめて!」
「うるせぇ、静かにしろ」
 愛海は烈しく暴れたが、グローブのような手で頬をはたかれた。乾いた音が鳴って、顔が燃えるように熱くなる。暴力に怯みかけたが、抵抗することはやめなかった。
「ぅ、やだァッ!!」
 死にもの狂いの全力でもがいて、手が、床に置いてある索具の部品を掴んだ。本能に身を任せて、そいつでベイブリーの側頭部を力いっぱい殴った。腕がびーんと痺れる。
「ってぇ! この糞餓鬼ッ」
 殴られたベイブリーは、ぱっと愛海から手を離した。それを見た鮫男がげらげらと笑う。
「だっせぇ、餓鬼にやられてるのかよ」
「うるせぇ、手伝え! 脚押さえてろ」
「あいよ」
 笑っていた鮫男が愛海の脚の方にまわり、防寒下衣をぐっと掴んだ。
「いやァッ!!!」
 愛海の絶叫が響き渡る。
 と、ぐらっと地面が傾いた。予期せぬ海獣にでも襲われたのか、前方から船員たちの怒号と悲鳴が聞こえてきた。
「んだぁ!?」
 男たちは、慌ただしく着衣を直しながら立ちあがった。慄えている愛海を見おろし、逡巡したが、一言二言悪罵あくばを投げつけて船首に向かって走っていった。
 助かった――愛海は襟元を押さえながら、この船で唯一安心できる船長室に逃げこんだ。
 まっすぐ浴室に向かうと、壁にとりつけられた照明をけた。銀糸で縁取りされたシェード越しに、タイル敷の浴室を照らしている。
 服を脱いで、磁器製の大きな浴槽に湯をはりながら、頭からつま先まで、一心不乱にごしごしと洗った。男どもに移されたひどい硫化臭を、全身全霊で拒絶するように。
 甲板作業のごとく黙々と自分を磨きあげて、ようやく満足のいく状態になると、浴槽のなかで膝をかかえてうずくまった。
「ぅ……」
 唇をきつく噛み締めても、ぶるぶると震えてしまう。熱い湯に浸かりながら、こらえきれぬ歔欷きょきを洩らした。