異海の霊火

2章:グロテスク - 5 -

 ジンシンスは朝から、信号船橋ブリッジに隣接する通信室に籠もって、記録をとっていた。
 この船は五二七日間摩訶不思議の混淆こんこう海域を漂流しているが、帝国との通信は可能である。
 しかし、愛海を海で拾った日から連絡が途絶えており、“ふたつ貴石”の片方を乗せた戦艦も、未だ行方不明だ。
 過去にも何度か通信が途絶えたことはあるが、二五日以上も連絡がとれないのは今回が初めてだった。
 先日の終末の疫獣リヴァイアサンの出現で、基地に問題が起きたのだとしても、そろそろ復旧して良さそうなものだとジンシンスは訝しむ。
(もしや、基地の問題ではないのか?)
 自分たちの座標を特定できたら良いのだが、混淆こんこう海域では予測することさえ不可能だ。
 海図にない未知の暗礁を見つけたと思ったら、次の日には消えていたりする。地形すら変わるので、ここでは正確な測量が不可能なのだ。
(――だが、次元がずれたわけではない)
 ジンシンスは、首からさげたペンダントを指で弄びながら、失われた白貴石の行方を思った。
 黒と白の貴石は互いに呼びあう。引力が働くのだ。ペンダントのなかに黒貴石はある……こうして触れていると、白貴石の存在を、微弱ながら感じとることができる。
 考えこんでいると、船橋ブリッジに呼ばれた。厨房のウルブスが、愛海が戻ってこないと心配して連絡をいれてきたらしい。
 ジンシンスは記録帳を閉じて通信室をでると、まっすぐ船長室に向かった。
 早足で露天甲板を歩きながら、厨房仕事に苦戦している少年の様子を思いだして、凍えないはずの躰が冷たくなるのを感じた。
 ここのところ、あまり話を聞いてやれなかったが、何かあったのだろうか?
 なんとも嫌な予感が胸にきざして、船長室に戻るなり、愛海の姿を探した。
「愛海!」
 扉を開いて居室に向かうが、定位置である窓辺の長椅子に姿は見当たらなかった。書斎と衣裳部屋にも姿はなく、バルコニーにでて、梯子も登ってみたが、姿はなかった。
「愛海? いないのか?」
 ふたたび居室に戻り、注意深く見回しながら歩いていくと、浴室の方から音がした。
(良かった。ここにいたのか)
 自分でも意外なほど、ジンシンスは強い安堵を覚えた。
 入浴の邪魔をしないよう、その場を離れようとしたが、流水音に混じって、かすかな歔欷きょきの咽ぶ音が聴こえたため脚をとめた。
「……愛海?」
 控えめに声をかけると、浴室の向こうから、湯の撥ねる音や紗幕を引く、騒々しい音が鳴った。
「おい、平気か?」
「平気ですっ! すみません、すぐにでます!!」
「いや、ゆっくりしておいで。いるのか確認したかっただけだから」
 そういってジンシンスは離れたが、読みさしの本を開いて間もなく、愛海は濡れ髪のままやってきた。
 長椅子で寛いでいたジンシンスは、愛海の顔を見るなり、ぎょっとなった。黒い瞳にみるみる涙がもりあがり、ぽろっとこぼれ落ちたのだ。
「おい、どうした?」
 ジンシンスは席をたつと、数歩で愛海の前にたち、震える肩に手をおいた。
「何があったんだ?」
「ぅ……」
 愛海は小さな声をもらすと、くちびるを固く結んだ。ごしごしと目をこする腕を掴んでやめさせると、顔を覗きこんだ。涙に濡れた黒い眸を見たら、心臓を鉄の輪で締めつけられるような痛みを覚えた。
「教えてくれ。何があったんだ?」
 愛海は唇を噛み締め、頸を振る。
「誰に泣かされたんだ?」
 優しく声をかけても、なかなか話そうとしない。告げ口の代償を恐れているのだろうか?
「報復を恐れているなら心配いらない。絶対にそんなことはさせないから、理由を教えてくれ」
 それでも頑迷に頸を左右に振るので、ジンシンスはよっぽど焦れったかったが、愛海の方も困惑しきっていた。
 泣くつもりはなかったのに、彼の顔をみたら、辛い気持ちや混乱や恐怖が、いっぺんに押し寄せてきて、こらえる間もなく、涙がこぼれ落ちてしまったのだ。
「すみません。なんでもないんです。お腹が痛くて、泣いていたんです」
 適当ないいわけを口にすると、ジンシンスはいぶかしげに眉間に皺を寄せた。
「腹? いつから痛いんだ?」
「少し前から……横になっていれば、治ると思います」
 愛海は衣装部屋に逃げこもうとしたが、ジンシンスに腕を掴まれた。
「待て、ひとりにはできない」
 愛海が返事をする前に、彼は愛海の肩に柔らかなショールをかけて、肩を引き寄せた。思い遣りに充ちた仕草に、愛海も躰から力を抜いて素直に従う。
 暖炉前の、毛皮と繻子のクッションに腰をおろすと、愛海はぼうっと暖炉の火を見つめた。
「……ジンシンスさん、火にあたっても平気なんですか?」
 ふとそんな疑問が湧いた。いつも上半身裸でいるから、極寒に耐性があるのは判るが、逆に熱には弱いかもしれない。
「熱くて溶けそうだ」
「えっ」
 思わず海底人を仰ぎ見ると、悪戯めいた碧い眼差しに見つめ返された。
「冗談だ。問題ないよ」
 彼は火鉢に薬缶をかけて湯を沸かすと、器に湯を注いでラム酒を垂らし、さらに杏の甘煮をいれてかき混ぜた。
「飲みなさい」
 いい匂いがして、愛海は力なく微笑した。
「いただきます」
 ひと口に含むと、杏の仄甘さが、くちいっぱいに拡がった。酒精が血脈をめぐり、躰の裡からぽかぽかしてくる。
「美味しい……」
 ほっとしたように愛海がいうと、ジンシンスは微笑した。
 そこで会話が途切れて、穏やかな沈黙が流れた。
「……泣いていた理由は、本当に腹痛のせいか?」
 愛海が黙りこむと、ジンシンスは肩を掴んだ。真実を見透す蒼く澄んだ目で、愛海の目を覗きこんだ。
「頼む、教えてくれ。力になりたいんだ」
 彼の大きな掌が、震える愛海の手を握りしめた。愛海の表情が歪む。手を握りしめられただけなのに、生きる活力を、注ぎこまれた気がした。
「……さっき、襲われたんです」
 告げたとたんに、ジンシンスの眸に凶暴な光が宿った気がした。
「誰に?」
 彼のこめかみから、斜めに碧い紋様が素早くはやった。
 視線の強さに怯んだ愛海は、本能的に握られた手を引き抜こうとしたが、ぐっと強く握りしめられた。
「話すんだ。最初から全部」
 愛海は観念して、ぽつぽつと話し始めた。
 最初は遠慮がちに話していたが、しだいに言葉が止まらなくなった。積もりに積もった鬱憤が、堰を切ったようにあふれだしてしまったのだ。
 甲板で乱暴されたことを含め、調理長の振る舞いがどれほどひどいか、どんな目にあわされたか、気がつけば全部打ち明けていた。
 真剣な顔つきで聞いていたジンシンスは、最後に暗鬱なため息をついた。
「よく判った。鞭打ちでは見せしめにならなかったようだな」
「……厨房へいくのが怖いです」
 俯いたまま愛海は呟いた。
「いかなくていい」
 彼がきっぱりと断じたので、愛海は安堵を覚えたが、次の言葉で今度は蒼褪めた。
「冷凍庫の残骸・・も捨てさせる。第一、人間の肉は臭くて不味いんだ。料理に使われたら、たまったものじゃない」
 ブルータスお前もか――という念に駆られたが、懸命にもあらわにせず沈黙を貫いた。
「怖かっただろう? 気がついてやれずに悪かったな」
 肩を抱き寄せられ、腕をさすられると、胸の奥が燃えるように熱くなった。嬉しいのか、安心したのか、はたまた怒りなのか、判別つかない感情が迸り、唇が戦慄わななく。
「……ジンシンスさんが謝ることではありません」
「連中の性根は確かに腐っているが、統括しようとしてこなかった俺の責任でもある。清算しなければな」
 ほとんど厳粛といっていい口調に、愛海は怯んだ。
 このひとは以前、手首切断や骨折といった過剰な懲罰を口にしたことがある。あのときは思い留まってくれたが、今度こそ、彼はやってしまうんじゃないかという気がしてならない。
 怒りに駆られている時は、外道など死ぬばいいと強くいえるが、分別が戻ってくると怖くなる。己の言動で人の生死が左右されるなど、精神の負担が重すぎるではないか。
「……僕が部屋からでなければ、丸く収まりますか?」
「お前が我慢する必要はないし、そういうことでもない。規律を敷いて、徹底するだけだ」
「……規律……?」
 愛海がうかがうようにジンシンスの顔を見ると、頭に大きな手が乗せられた。
「よく話してくれた。あとは俺に任せろ」
「……ごめんなさい」
 この流れはもう止められそうにない。胃に重石が沈んだように感じられて、愛海は暗澹あんたんとなった。
「謝ることはない」
 ジンシンスは力づけるように、愛海の肩をぎゅっと抱き寄せる。
「でも……僕がいなければ、面倒は起きませんでしたよね」
「愛海のせいじゃない。あいつらは問題を起こさずにはいられない病気なんだ」
 冷嘲的な口調だった。
「……ごめんなさい」
「どうして謝る? お前は少しも悪いことをしていないのに」
「っ、……うぅ……」
 優しさが身に沁みて、船員を冷酷に罰するであろう彼が怖くて、すがるような哀願を向けてしまう己の身勝手さが辛くて、あらゆる気持ちが綯交ぜになって、涙が勝手に溢れでてくる。
 結果を恐れる一方で、自分が受けたことを男たちに返してやりたいという、復讐の欲求があることも確かだった。
 今度は自分が見下す立場になって、思いあがった男たちの矜持をへし折り、ぞっとするほど苦しめてやりたい――卑屈で凶暴な感情が、胸の奥処おくかで熾火のように燻っている。
 自分はこんなにも冷酷な思考の持ち主ではなかったはずなのに、負の感情を止められない。
「泣くなよ」
 ジンシンスは愛海を抱きあげ、あぐらをかいた己の膝上に乗せた。慌てる愛海をぎゅっと両腕で抱きしめる。真っ赤な顔で硬直する愛海の額に、くちびるをつけた。
「もう大丈夫だから……泣くな」
 碧い瞳が、驚くほど近くにあって、愛海は息をのんだ。
 思考が砕け散って、頭のなかが真っ白になる――
 茫然と深い海の色に魅入られていると、大きな掌に頬を撫でられた。
「お前はよくやっているよ。不慣れな船の生活に文句もいわず、毎日よく頑張っている。えらいぞ」
 背中をぽんぽんと優しく叩かれながら、慰めの言葉を囁かれると、愛海はふたたび視界が潤むのを感じた。止める間もなく、ぽろっと涙がこぼれ落ちて、親指で優しくぬぐわれる。
「努力は尊いが、辛いことを我慢する必要はないんだ。俺は愛海の庇護者なんだから、これからはなんでも俺に相談しろ。いいな?」
「……はい」
 愛海が素直に頷くと、ジンシンスは海栗うにのような黒髪にちゅっとキスをした。
「いい子だ」
 彼の腕のなかで、愛海はしたを向いて、紅くなった顔を隠した。
 さっきから密着しすぎなのだ。
 彼のおかげで痛めつけられた神経は和らいだが、慰めるにしても、距離感が少々おかしくないだろうか?
 おずおず彼の膝からおりようとしたら、それを阻むように、ぎゅっと抱きしめられた。しかも左右の瞼に交互にキスされたので、上擦った声がくちびるから飛びだした。
「あのっ?」
「じっとしていろ」
「えっ、でも」
「いい子だから……」
 そうはいっても落ち着かない。どうにか逃走を試みるが、すぐに阻まれる。大きく身をよじろうとすると、額や頬にキスされるので、恥ずかしくてたまらず、自然と動作は小さくなる。
「ぅ、そんなにキスしないで……」
「お前が暴れるからだろう」
 面白がるような口調に反撥して、両腕を突きだして距離を取ろうとすると、ぎゅっと抱きしめられた。あっという間に零距離になって、真っ赤に染まっているであろう頬にキスされた。しかも、やんわりと吸われた。
「っ!?」
 あまりの衝撃に、言葉にならなかった。
 放心状態に陥った愛海を、ジンシンスは満足げに腕のなかに抱え直した。
「いい子だ……」
 もはや抗う気も失せて、愛海はたくましい肩に頭をもたせかけた。すると彼も動作がさらに緩やかになって、背中を一定のリズムで優しく叩いてくる。心地良くて、全身の力が抜け落ちていくように感じられた。
「眠い?」
「……ぅん」
 酒精が血管をかけめぐるのに身を任せながら、心身の困憊もあいまって、瞼が勝手におりてくる。
「眠っていいぞ。衣装部屋に運んでやるから」
 耳元に吐息が触れてくすぐったい。
 ぼんやりした思考で、あやされて眠ってしまうなんて本当に小さな子どもみたい……そう思いながら目を閉じた。絶対的な庇護者の胸に甘えて。
 もう一度、額に温かくてやわらかなものが触れた気がした。