燈幻郷奇譚

1章:遠き月胡の音 - 1 -

 名倉亜沙子は、仕事に疲れ切っていた。
 大学を卒業して、エンジニアとして働くようになり、もうすぐ七年が経とうとしている。
 気がつけば、二十八歳。恋人はいない。
 飲み会の席で、いい寄られることも稀にあったが、連絡を取り合おうとは一度も思えなかった。不仲な両親、多情な母を長年見てきたので、子供の頃から恋愛に否定的で、妙な厭世観えんせいかんがつきまとっていたせいもある。
 このまま、誰かと暮らすこともなく、一人で働き、老いて、やがて死んでいくのだろう……それでもいい。煩わしい人づき合いに悩ませられるより、独りでいる方がずっと気楽だ。
 結婚もせず働き詰めで、いつの間にか中堅に差しかかろうとしているが、キャリアや昇給はどうでも良かった。
 ねがいは只一つ。
 休みが欲しい。
 会社を辞めてのんびり過ごしたい。
 四ヶ月前、人事に退社の意志を伝えて、上司の承認も得たのに、未だに後任育成と引継ぎの為に辞められずにいる。
 こんな調子で、一体いつになったら辞められるのだろう?
 鬱になりそうだ。
 最近は同僚達と雑談をしていても、笑顔を作れなくなっている。愛想笑いを浮かべるのが精一杯で、心から楽しいと思えない。
 元から痩せ気味だったが、更に体重が落ちた。化粧をしないとパッとしない地味で扁平へいぺいな顔なのに、毎朝の化粧も面倒で、かなり手を抜いている。眉毛を描くことすら忘れる日もあって、女としていかがなものかと思う。
 休日でも心は休まらず、携帯が震動する度に怯えている。
 会社で扱う基幹システムにトラブルが起きた時、真っ先に連絡がくるのは亜沙子だ。亜沙子はフロントエンジニアであって、決してサーバーに強いインフラ専門ではない。仕方なく兼任しているが、毎度吐きそうなプレッシャーを抱えて解決にあたっていた。
 会社も亜沙子の負担を理解はしているが、代わりを務められる人材が見つからず、なかなか解決できずにいる。
 不満をあげればキリがないが、もう有給消化もどうでもいいから、とにかく解放して欲しかった。

 金曜日の二十二時。
 会社を出て、田園都市線に向かって歩く亜沙子の足取りは重かった。
 今日の会議で、来期プロジェクトのサブ・リーダーに任命されたのだ。それも退社したいと相談をした直属の上司から、任命されたのだった。
 今辞めてしまうのは勿体ない。十日のリフレッシュ休暇をあげるから、来期も頑張って欲しい――皆の前で交渉をされると、気の弱い亜沙子は断りきれなかった。
(もう嫌……)
 賑々しい金曜日の渋谷で、こんなに沈んでいるのは亜沙子くらいのものだろう。

 ヒュゥ、リリ……

 どこからか聴こえてくるかそけげんの音色に、亜沙子は疲れた顔を上げた。
「……?」
 周囲を見渡しても、音源は見当たらない。
 ふと、路地の隙間から覗く、洒落た看板が目に留まった。体調があまり良くないので、直帰するつもりでいたが、飲んで帰るのもいいかもしれない。
 ふらふら、亜沙子は誘われるように地下の階段を下りていった。
 扉を開くと、ひんやりとした空気と、落ち着いたジャズの音色に包まれた。
 こじんまりとしているが居心地の良さそうな内装で、二、三組のカップルが部屋の隅のテーブルと、カウンターの端に座っている。
 亜沙子はバーのカウンター席に座り、ハイネケンを注文した。冷えたグラスを傾けながら、蟻地獄のような会社のことを考える。
(どうやったら、会社をやめられるんだろ……)
 正攻法は駄目。情に訴えても、粘ってみても通用しない。こうなったらもう、辞表を会社に送りつけてばっくれる意外に手段を思いつかない。
(さんざん働いてきたじゃない。もう辞めさせてよ……)
 長く、重いため息が唇から零れた。
 周囲を見渡せば、顔を寄せてさざめき笑う恋人達ばかり。金曜日の夜を謳歌していられる彼等を、妬ましく感じる。
「マスター、ハイネケンお代わり」
 少々やさぐれた声で、亜沙子は二杯目を頼んだ。酒は好きだが弱い性質たちで、あと一時間もすれば、酔いが回って眠くなるだろう。判ってはいるが、もう少し飲みたい気分だった。
 そっと目の前に置かれたグラスを見て、亜沙子は首を傾げた。
 一瞬、琥珀色に光ったように見えたのだ。炭酸も、妙に煌いて見える……気のせいだろうか?
「どうかされましたか?」
 グラスを凝視する亜沙子を見て、傍にいた店員が声をかけた。
「……いえ、いただきます」
 気のせいだろう、結論づけて亜沙子はグラスを傾けた。
 香ばしくて、芳醇な香りと味わいがする。一杯目よりも遥かに美味しいと感じるのは、どうしてだろう?
 訝しんでいると、どこからか、美しい弦の音色が聴こえてきた。

 ヒュゥ、リリ……

 先ほども耳にした音だ。
 バイオリンとも違う、深みのある優しい音色。店のBGMというわけでもなさそうだ。
 誰かが演奏しているのだろうか?
 首をめぐらして音源を探す亜沙子を見て、店員が傍へ寄ってきた。
「お呼びでしょうか?」
「いえ、誰が演奏しているのかなと思って」
「演奏?」
「BGMじゃありませんよね?」
 店員の戸惑った顔を見て、亜沙子も戸惑った。どうして伝わらないのだろう?
 亜沙子は腰を軽く浮かして、店内の様子を見回した。本当に、どこから聞こえてくるのだろう?
 いつまでも聞いていたくなるような、哀愁のある、不思議な調べ。

 ヒュゥ、リリ……

 弦の音色が聴こえる――席を立った途端に、視界は曖昧模糊あいまいもこにぼやけた。
 さやかな梢の音。涼風を頬に撫でられ、夜の匂いに包まれた。

 気がつけば、見たこともない場所に立っていた。