燈幻郷奇譚

1章:遠き月胡の音 - 2 -

 視界を覆っていた白靄がさぁっと引いて、大きな架け橋の上に立っているのだと判った。
 ゆるやかな弧を描く橋の先は薄霞うすがすみに隠れ、霞の切れ目から瀟洒しょうしゃやしきが覗いている。
 覆いかぶさるような濃紺の夜空には、信じられないほど無数の星が瞬いている。東京では先ずお目にかかれない星空だ。
 四方を囲む、美しくなだらかに連なる、白い山々。
 いただきは雪化粧に覆われて、稜線りょうせんは月明かりに照らされた蒼白の桜に彩られている。
(どういうこと……?)
 ジャズの代わりに、梢の擦れる音、鳥獣の息遣い、山河のせせらぎが聴こえてくる。うだるような八月の暑さは失せて、涼風が吹いている。空気は澄み渡り、少し肌寒いくらいだ。
「何、ここ……?」
 橋の左右には蜂蜜色の提灯が点々と並び、誘うように、皓々こうこうと足元を照らしている。まるで、この世ではない異国に迷いこんだような気分になる。

 ヒュゥ、リリ……

 深みのある弦の音色に、亜沙子は弾かれたように顔を上げた。
 弦の音にまじって、澄んだ鈴の音色も聞こえる。ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
 やがて、薄霞の向こうに影が映った。
 幻想的な光景に、呆然となる。
 霞から現れたのは、宙に浮く飛車とびぐるまと、それを護るみやびやかな隊伍たいごだ。
 先頭に、紺地に朱金で刺繍された旗を掲げる騎馬が一騎、その後ろに数騎が続き、歩兵と共に、豪奢な飛車を守っている。
 一行は、緩やかに下降して、亜沙子の立つ橋に着地した。
 精緻な刺繍の施された、紋つき羽織に袴姿で、腰に刀をいている。白や黄金色の髪をしており、顔に奇妙な面をつけて、頭に三角の耳を生やし、腰下から狼のような尾を垂らしている。
 呆気にとられている亜沙子を見て、彼等もまた驚いているようだった。何者だ? どうやってここへ? 訝しむ複数の声が聞えてくる。
「――主上!」
 飛車を護る衛兵が危ぶむ声を発した。
「構わぬ」
 車の奥から、低い美声が聞こえた。
 固唾を飲んで亜沙子が見守る中、黒塗りに金箔の扇面流せんめんながしを装飾された扉が、侍従の手で左右に開かれた。
 現れたのは、和装の麗しい青年だ。
 騎馬兵は恭しく首を垂れ、歩兵は道を譲り拝跪はいきした。
 青年は周囲に目もくれず、優雅な足取りで亜沙子の方へやってくる。背は高く、腰の位置は驚くほど高い。
「どここからきたの?」
 目の前に立つ、青年のあまりの美しさに、亜沙子は雷に打たれたような衝撃を受けた。綺麗というよりふるえ上がるような美貌だ。
 頭についている三角の耳や、背後でゆらり、揺れている長い尾の異様さなど少しも気にならない。むしろ、青銀の髪と同色の耳や尾は、神々しい美貌と相まって、神話に登場する英雄か半獣の神のあかしのようだ。
「どうした?」
 時を止めている亜沙子を見下ろして、青年は微笑した。
 後光が射すほど眩しくて、ぼぅっと見上げていると、少し骨ばった形の良い指に、そっと顎をしゃくられた。
「話せないの?」
 神秘的なアーモンド型の瞳は、驚くことに、左右で色が異なる。左は晴れた日の海のように澄んだ蒼、右は満月のような黄金。
 一度見たら忘れられない、神秘的な瞳だ。
 初めて彼の瞳を見たはずなのに、どうしてか、遠い昔に見たことがあるような、なんともいえぬ懐かしさが亜沙子の胸にこみあげた。
「私の言葉が判る?」
 不思議そうに訊ねられて、亜沙子はようやく我に返った。
 すっかり見惚れていた。明らかに日本語ではないのに、言葉を理解できている奇妙さに気づく。
「あ、はい。判ります……?」
 唇から、日本語ではない言葉が零れ出た。原理は不明だが、脳裏で組み立てた文章を、唇が勝手にどこぞの言葉で吐き出したのだ。
「奇妙だな。結界を破ったわけでもなさそうだし……どうやって夜那よな川を越えたの?」
「……? 何の話ですか?」
「そなたのことだよ」
「私ですか? え、私は今、渋谷で飲んでいたんですけれど」
「しぶや?」
「はい。道玄坂の……あれ? 私、どうしちゃったんだろう……?」
 亜沙子は、落ち着きなく辺りを見渡した。何度見ても、幾ら目を瞬いたいても、眼前の光景は変わらない。
 狼狽える亜沙子を見て、青年は考えこむように顎を白い指で撫でた。
「どうげんざか? 千年天満ちとせてんまの方か?」
「ちとせてんま?」
「違うの?」
「えっと……」
 周囲を見渡して、亜沙子は口元を手で覆った。ここがどこなのか、さっぱり判らない。
「あのぅ、ここはどこでしょうか?」
「ここは、霊験灼れいけんあらたかな蓬莱山ほうらいさんの秘境、天狼の住む燈幻郷とうげんきょうだよ」
「とうげんきょう?」
「知っているだろう?」
「いえ」
 不安そうに答える亜沙子を見て、青年は考えこむように黙した。
「……それにしても、随分と面妖な格好をしているね」
「え、私ですか?」
 亜沙子は、ちょっと慌てて自分の恰好を見下ろした。ゆったりした黒のパンツに、白いノースリーブのシャツ。赤いエナメルのパンプスを合わせている。
 特におかしな点は見つけられず、顔を上げると、青年は観察するように亜沙子を眺めていた。同じように、亜沙子も耳と尾を生やした青年を観察してみる。
 紺地を基調にした着物を、いきに着流している。
 黄丹おうたん色の半襟はんえり、唐草紋様を銀糸で織りこんだ紋つき羽織、紫紺の袴。襟や裾には金銀の刺繍がふんだんに施されていている。腰には黒鞘の刀。先の尖ったブーツを履いて、凛々しい青年剣士のようだ。
「……? そなたから、澄花酒の霊気を感じる。まさか、飲んだのか?」
 亜沙子は、青年の言葉を反芻して首を傾けた。
「とうかしゅ?」
「左様。澄花酒を持たせた子供が、道中で誤って夜那川に落としてしまってな。総出で探していたところだ」
「……?」
 狼狽える亜沙子を見て、青年は瞳をすがめた。
「人間に見えるが、結界を越えられぬしな……あやかしたぐいでもなさそうだし……そなた、本当に何者だ?」
「と、いわれましても……渋谷にいたとしかいいようが……私にも、何がなんだか」
「そなた、どこで澄花酒を口にした?」
「とうかしゅって? 何ですか?」
「知らぬのか? 燈幻郷で造られる霊薬だよ」
 言葉を失くす亜沙子を見て、青年は柔らかく笑みかけた。
「咎めているわけではない。そなたが盗んだとは思っておらぬ」
「盗んでいません! 本当に判らないんですっ」
「ふふ、愉快だな。飲んでしまったものはしょうがない。彩国へ渡すより、よほど良い」
「あの、本当に盗んでいませんから!」
「判った、判った。私は蓬莱山の天狼を束ねている、四百十七代目の一世いっせいだよ。そなたは?」
「あ、名倉亜沙子と申します。都内で六年ほどフロントエンジニアをしておりまして……」
 亜沙子は挨拶の妙さに気がついて、途中で言葉を切った。
「名倉、亜沙子」
 驚くほど綺麗な発音だった。はい、と亜沙子が返事をすると、一世はもう一度、噛みしめるように名を口ずさんだ。しみじみと亜沙子を眺めて、首を傾ける。
「それで、本当にどうやってここへきたの?」
「……私にも何が起きたのかよく判らないんですけれど、気がついたらここにいて……」
「ここへくる前は、何をしていた?」
「バーでお酒を飲んでいました……あ、そういえば、私の鞄!」
 蒼白な顔で鞄を探す亜沙子を見て、一世は気の毒そうな顔をした。腕を伸ばして、亜沙子を胸の中に抱き寄せた。
「わぁッ」
 上品な伽羅きゃらの匂いに混じって、彼の肌から甘い香りが立ち昇った。
「数奇なことだ。そなたにとっては、災難であったな」
「あ、あの……?」
「恐らく、澄花酒はそなたが口にした飲み物に紛れたのだろう」
「私が口にしたって……ビール?」
「それ以外に考えられぬ。澄花酒を飲んだから、ここへこれたのだろう」
 理解が追いつかず、絶句する亜沙子を、一世は静かに見つめた。
「夜那川はあらゆる世界の水に通じ、澄花酒は水に紛れる性質をしている。亜沙子が口にしていた酒に、偶然紛れこんだのろう」
「え、えぇ??」
 亜沙子は目を丸くした。いわれてみれば、バーで飲んだ二杯目のビールは、色艶、香り、味、どれも素晴らしかった。あれほど美味な酒は、生まれて初めて飲んだと思うほどに。
「……あのビールに、その、とうかしゅが混じっていたと?」
 独りごちると、頬を掌で撫でられた。顔を上げると、金と青の瞳に見つめられて、鼓動が跳ねた。焦って押しのけようとするが、びくともしない。
「あのっ? 離してください!」
「……そのように非力で、これまでどうやって生きてきたのだ?」
「離してください!」
 怯えた声を出すと、一世は腕を解いて、子供を安心させるように亜沙子の頭を撫でた。
「恐れることはない」
「……無理です。ちょっと、混乱していて」
 亜沙子は、片手を額に当てて深呼吸を繰り返した。
「安心おし。これも何かのえにし、天狼の郷に招待しよう」
 一世は、柔らかい微笑を浮かべた。
 あまりの美しさに、亜沙子は言葉も忘れて魅入られてしまう。
 琺瑯ほうろうのように滑らかな肌。形の良い鼻梁に唇。
 後ろで結い上げた青銀の髪は、からまることなく真っ直ぐに腰まで流れ、毛先はそよ風に揺れている。この美しい人は、本当にこの世のものなのだろうか?
「あの……あれはもしかして、三途の河ですか?」
 橋の下を流れる大河を指さすと、いや、と一世は首を振った。
「夜那川は、蓬莱山からしみ出た湧き水による河だよ。さかのぼっていけば、天帝のおわしまする涅槃ねはんに通じている」
「涅槃……? ……ここはどこなんですか?」
「天狼の住む燈幻郷だよ」
「……」
「すぐには理解できまい。ゆっくりで良い。おいで、いとけない姫」
 いとけない? 疑問に思いつつ、亜沙子は差し伸べられた手をとった。優しく指先を握られ、照れて視線を泳がせると、見惚れるような笑みを一世は浮かべた。
「なんて小さな手だろう。こんなに柔らかくて、獲物を捕れるのか?」
 掌の内側を親指で擦られて、亜沙子は身震いした。困ったように、掴まれた手と一世の顔を交互に見る亜沙子を、一世は瞳を細めて見つめている。
「安心おし、何も怖いことなどないから」
「……お手数をおかけします」
 不得要領に頷くと、その仕草が拙く映ったのか、一世は蕩けるような笑みを浮かべた。奇妙不思議の連続に、内心で盛大に首を傾げつつ、亜沙子はおずおずと頭を下げた。