燈幻郷奇譚

1章:遠き月胡の音 - 3 -

 亜沙子は、飛車とびぐるまの前で狼狽えていた。
 座高があり、昇降用の梯子でもないと登れそうにないのだが、一世は宙に浮くようにして軽々と飛び乗ってしまったのだ。
「あの……?」
 困ったように車のふちに手をかける亜沙子を見て、車上から一世は笑みかけた。
「おいで、亜沙子」
「え、でも……」
 登る手段を探して、あちこち視線を彷徨わせる亜沙子を、一世は不思議そうな顔で手招いた。
「何を遠慮している? ほら、おいで」
「え、あの、どうやって?」
 亜沙子は胸の位置にある縁に手を乗せたまま、上目遣いに一世を仰いだ。
「もしや、一人で登れないの?」
「はい、すみません……」
「ほら」
 伸ばされた手を見て、戸惑いながら手を伸ばすと、一世は亜沙子の脇の下に手を入れて、ぐん、と持ち上げた。
「ひゃあっ」
 急に視界が高くなり、亜沙子は身体を強張らせた。
 風雅な容貌に反する剛力だ。腕力だけで亜沙子の身体を持ち上げた。そのまま、膝の上に乗せる。
「えっ!?」
 亜沙子が動揺の声を上げるのと同時に、シャン、と鈴の音が鳴り、車はゆっくり動き始めた。
 錦の絨毯の敷かれた車内は、思った以上に広い。わざわざ一世の膝上に座らなくても、あと二・三人くらいは余裕で座れるだろう。
「かわいいね、亜沙子」
 耳元で囁かれて、亜沙子の体温は跳ね上がった。
 腰に回された腕、引き締まった大腿、触れた体温の暖かさ、すぐ傍にある端正な顔。一世の全てに緊張する。
「あの、降ろしてください」
「いくら子供でも軽すぎる。ちゃんと食べている?」
「食べてます、あの、降してください」
「腰も手もこのように細いし」
「うひゃ、ちょっと!」
 腰に回された腕に力がこめられ、二人の身体はぴったりと密着した。身をくねらせて逃げようとする亜沙子を、一世は簡単に腕の中に封じこめてしまう。
 動揺を誤魔化すように、亜沙子が頬にかかる髪を耳にかけると、一世は露になった耳を凝視した。
「……小さい耳だね。こんなに小さくて、ちゃんと聞こえているの?」
「もちろん……」
 返事をしながら、亜沙子も一世の頭上にある三角の耳を凝視した。ぴく、と動くのを見て目を丸くする。
「その耳、本物ですか?」
「もちろん」
「嘘ッ、しっぽも?」
「本物だよ」
「触ってみてもいいですか?」
「私の耳に?」
「はい」
「ふむ……」
 戸惑った様子を見て、失礼だったかしら、と亜沙子は反省した。
「すみません、やっぱりいいです」
「構わぬ。触れたければ、好きに触れると良い……ほら」
 そういって、一世は少し頭を下げるので、亜沙子はそろりと手を伸ばした。
「わ……」
 天鵞絨びろうどのような肌触りだ。温かい。そっと撫でると、耳はくすぐったそうに震えて、亜沙子の指から逃げた。
「こそばゆいな」
「あ、すみません」
「良い」
「しっぽも触ってみたい」
 勢いづいて口にすると、一世は目を瞠ったが、楽しそうにほほえんだ。
「私の尾に?」
「はい、嫌でなければ」
「どうぞ」
 亜沙子の大腿の上に、きららかな青銀色の豊かな尾が乗せられた。そっと指を滑らせ、なめらかな肌触りに陶然となる。
「うわぁ、本物だ……」
「疑っていたの?」
「だって、見たことがなくて。でも、本物にしか見えないから、不思議で」
「亜沙子は天狼を知らぬのか?」
「はい、知りません」
「道理で……なら、不思議かもしれぬな。我等には二つの姿がある。このように人の姿と、背に翼をもつ天狼の姿だ」
 眼を輝かせる亜沙子を見て、一世はほほえんだ。
「見てみたいか?」
「はい、見れるのなら」
 ふと、視界を薄霞うすがすみに覆われた。一世の姿も見えなくなり、狼狽えていると、宥めるように頭を撫でられた。
「怖がらなくて良い。薄霞はすぐに抜ける」
「あぁ、びっくりした……この車、どうやって動いているんですか?」
 見たところ、エンジンを積んでいるわけでもないし、馬がいているわけでもない。宙を水平に動く様は、少し、否、かなり異様だ。
「通力だよ。普段は天狼の姿で翔けることの方が多いのだけれど、今日は天帝に呼ばれていたものでね」
「通力……」
「なかなか良い乗り心地だろう? 天狼で翔ける方が楽だが、たまには車も良い。澄花酒を口にしたのなら、亜沙子も天狼に化けれるやもしれぬな」
「いや、どう頑張ってもなれないと思います」
「諦めるには早い」
「いやぁ~……」
 彼が冗談をいっているのかどうか判らず、亜沙子は苦笑いを浮かべた。
 雑談しているうちに、視界は晴れた。茂みの合間に、広大な邸の一部が覗いて、亜沙子は目を見張った。
「……一世さん、あそこに住んでいるのですか?」
「そうだよ。これからは、亜沙子もあそこで暮らすんだ」
「え、私も?」
「燈幻郷は良いところだ。きっと気に入る」
「はぁ……」
「帰りたい?」
「……帰れるのなら?」
「かわいそうだが、私でも元の場所に帰してやることはできぬ。夜那川の流れは絶えず変化するから、道を繋げたとしても同じにならぬのだ」
 言葉が見つからず俯く亜沙子の頭を、一世は優しく撫でた。
「……安心おし。郷で大切にすると約束しよう」
 返事をしなかったのは、哀しいからではなかった。
 帰れないといわれて、大してショックを受けていないことにショックを受けていた。
 見知らぬ世界に迷いこみ、元の場所に帰れないといわれたのに、落ちこむどころか、金縛りが解けたように心が軽くなっている。
(……そんなに追い詰められていたの?)
 ひょっとしたら、果てしない現実逃避中なのかもしれない。本当は、バーのカウンターで酔い潰れていて、都合のいい夢を見ているのかもしれない。
「ほら、もう着くよ」
 一世の声に、亜沙子は顔を上げた。
「やっぱり、夢を見ているのかなぁ?」
「夢ではないよ。ちゃんと触れられるし、暖かいだろう?」
 そういって、一世は亜沙子の頬を撫でた。
「……このまま、瞳が醒めなければいいのに」
「醒めないよ。混乱するのも無理はないが、亜沙子は夜那川に運ばれて、幻燈郷ここに流れ着いたのだ」
「そう、ですかね?」
「不安かい?」
「……いえ、気分爽快です。貴方みたいに綺麗なひと、初めて見たし」
 少しお道化どけていうと、一世は慈しむように亜沙子の髪を撫でた。
「ふふ、ありがとう。亜沙子もかわいらしいよ」
 涼しげな眼差しは、三日月のように優しく細められた。
 亜沙子は自分でいった台詞に照れて、視線を泳がせると、隅に立てかけられた飴色の弦楽器に目を留めた。
「……もしかして、一世さんが演奏していたのですか?」
月胡げっこのこと? そうだね、さっきまで弾いていたよ」
 一世は膝から亜沙子を下ろすと、堂に入った仕草で楽器を構え、弦をつま弾いた。
 ヒュウ、リリ……清かな月光を編んだような音色に、亜沙子は瞳を輝かせた。
「綺麗……」
 一世はほほえむと、巧みに弦を鳴らした。
 優しく、美しい旋律に心を洗われる。
 恐怖。怒り。驕り――おりを濯ぐように、かたくな心の鎧は一つ、また一つ乖離かいりして、むき出しの素直な感情が現れていく。
 忘れていた……清涼な風に吹かれるような、凪いだ波間をたゆたうような、久しくなかった穏やかな気持ち。
 心にみいる音色は、雫となって亜沙子の頬を滑った。
「……泣いているの?」
 音がやんだ。俯いて顔を隠す亜沙子の頭に、一世は優しく触れた。
「すみません、泣いて……すごく綺麗な音だから、感動しちゃって……なんか、感動するの久しぶりで……私、この音色に誘われて、ここへきたんです」
「泣くほど感動してくれたの? 嬉しいね。どうやら本当に、亜沙子とは不思議なえにしがあるようだ」
「もう少し、弾いてくださいませんか?」
「良いよ」
 夜の静寂しじまに、美しい音色が溶けこんだ。邸に着くまでの間、亜沙子は瞳を閉じて月光のような音に聴き入った。