燈幻郷奇譚
1章:遠き月胡の音 - 4 -
美しい邸 、緋桜邸 。
門扉 には、瓦の載った立派な庇 がつけられており、月明かりに照らされ銀色に煌めいている。深い軒の出を持つ勾配 屋根をかけた邸は、明治時代の貴族が住む寝殿造りのようだ。
飛車 の中、邸の全容を目の当たりにして唖然とする亜沙子の肩を、一世は優しく抱き寄せた。
「さぁ、降りよう。掴まって」
返事をするよりも早く、亜沙子の背中と膝裏に腕が伸ばされた。ぎこちなく一世の首に腕を回すと、ぐんと身体が持ち上がった。
「怖ければ、瞳を閉じておいで」
宥める様に耳元で囁かれて、亜沙子はおとなしく瞳を閉じた。
まさか、このまま外に飛び出すつもりだろうか?
身構える亜沙子を、腕の中の子供を守るようにして一世はしっかりと抱きしめた。品の良い香が漂い、別の意味でどきどきしていると、ふわっとした浮遊感に包まれた。
「……ほら、もう大丈夫」
穏やかな声に促されて瞳を開けると、もう地上に降りていた。亜沙子を抱えたまま、一世は歩き始める。
「あの、下してください」
「このままで構わないよ」
「いえいえ、自分で歩きますから!」
必死に頼むと、残念そうにしながらも、一世は亜沙子を下ろした。けれど、肩を抱き寄せ、傍から離そうとしない。困惑気味に仰ぐ亜沙子を見下ろして、蒼と金の瞳を和ませた。
「緋桜邸へようこそ。今日から、ここが亜沙子の家だよ」
「……はい」
「気兼ねなく寛ぐと良い。景観の良い室を用意しようね」
一世はにっこりほほえむと、尾をゆらりと揺らした。
両開きの扉が、衛兵の手で開かれる。
立派な玄関には、紺地に金を織りこんだ絨毯が敷かれており、朱の柱には金色の装飾が施されていた。
天井は驚くほど高い。
和風な外観に反して、内装は一見洋風だが、天井の格子や扉の枠は漆塗り、鳳凰を描いた六尺半双 の金屏風 や、そこかしこに精緻な墨絵、青磁の壺が置かれ、和洋折衷の独特の雰囲気を醸 している。
思わず立ち止まってしまう亜沙子を見て、一世はほほえんだ。
「どうした?」
「すごい豪華……お洒落ですねぇ」
一世は気を良くしたように、あちこち眺める亜沙子に、あれはね、と丁寧に説明をし始めた。
邸に仕える天狼とすれ違う度に、彼等は端に寄って恭しく首を垂れた。
そのうち、廊下の向こうから従者を連れた白い男がやってきた。顔立ちは精緻に整っており、髪も耳も尾も新雪のように白い。
「一世。そちらは?」
中性めいた容姿をしているが、声は落ち着いた男性のものだ。
「亜沙子だよ。かわいいだろう?」
一世は美貌の青年に答えると、今度は亜沙子を見てほほえんだ。
「彼は紫蓮 、私の乳兄弟だよ。邸のことを任せてある」
「初めまして、名倉亜沙子といいます。どうぞよろしくお願いいたします」
お辞儀する亜沙子を、紫蓮は無表情で見下ろした。問いかけるように、一世に流し目を送る。
「礼儀正しいだろう? 夜那川に落ちた澄花酒を、知らずに飲んでしまったらしくてね。万世橋で立ちん坊しているところを、拾ってきたんだ」
「はぁ」
「聞けば私の月胡 に誘われてきたという。澄花酒と月胡が結んだ縁 とは、なかなか素敵だと思わないか?」
「何を寝ぼけたことをいっているのです。貴方の気まぐれは今に始まったことではありませんが、とうとう人の子を攫ってきたのですか?」
紫蓮が呆れたようにいうと、一世は軽く肩をすくめてみせた。
「攫ってきたのではない。いく当てもなく心細そそうにしている様子を見ては、放っておけまい?」
「同じことでしょう。それで、客人として迎えるおつもりですか?」
「うん。紫蓮もよく面倒を見てやってほしい。亜沙子は燈幻郷も天狼も知らず、遠く距 てられた異国から、たった一人でやってきたのだ」
様子をうかがっている亜沙子の顔を、紫蓮は軽く腰を屈めて覗きこんだ。
「……そうですね。人間は脆い生き物ですから。よく気をつけて世話をしなければいけませんね」
神秘的な灰紫の瞳に覗きこまれて、亜沙子は視線を泳がせた。
「何か召し上がりますか?」
「いえ、お構いなく」
手を顔の前で振る亜沙子を見て、紫蓮は気難しそうに、片方の眉を器用にあげてみせた。
「子供が遠慮をするものではありませんよ。よく食べねば、大きくなれないでしょう」
「こ、子供でもありませんし……」
苦笑しつつ、首を傾げる亜沙子を見て、紫蓮は顔をしかめた。
「先達の言葉には従うものですよ。貴方はまだ未熟な子供なのですから」
「えっ、いえ、とっくに成人しています。もう二十八ですよ」
「赤子も同然ではありませんか。よく一人でここへ辿りつけましたね」
想像していた反応と違い、亜沙子は面食らった。
「……あの、失礼ですが、紫蓮さんはお幾つなのでしょうか?」
「生まれてから、三百年は経ちましたかね。成人してからは、年を算 えるなんて無益なことはいたしませんよ」
「三百……?」
呆然と呟く亜沙子を見て、一世は閃きを瞳に灯 した。
「人間に比べて、天狼は長寿なんだ。蓬莱山の空気に馴染むまでは、亜沙子も澄花酒を飲まなくてはね」
「え、そうなんですか?」
「そう。一口含めば疲れは和らぎ、二口飲めば怪我が癒える。飲み続ければ、神仙に近しくなれる」
「へぇ……?」
「妖界隈 では、不老不死の雫とも呼ばれているよ。欲しがる輩 が後を絶たず、時々、結界を壊して奪いにくる不届者がいるんだ」
「そんなにすごいお酒なんですか?」
呆気にとられる亜沙子の頭を撫で、一世は機嫌よさそうにほほえんだ。
「そうだよ。あとで振る舞ってあげる。さぁ、部屋へ案内しよう」
一世は見目の良い侍女を呼びつけると、亜沙子の世話を命じた。
「我が主の仰せの通りに。姫様、お世話をさせていただく灯里 と申します。どうぞよしなに」
侍女は恭しく拝跪 した。
「わ、こちらこそよろしくお願いいたします。あの、膝をつかなくても……」
亜沙子がお辞儀をすると、灯里はすらりと立ち上がって、琥珀の瞳を和ませた。百六十センチ足らずの亜沙子よりも頭一つ分は背が高く、美しい容貌をしている。亜麻色の髪と同色の耳を持ち、腰下では同じ色の尾が揺れている。
「さぁ、姫様。こちらへどうぞ」
姫、と呼ばれて亜沙子は少し反応に困った。眼を和ませている灯里を仰いで、お世話になります、ともう一度頭を下げる。
中庭を横断するように設計された廊下を渡り、大きな扉を幾つか潜り抜けると、煌 らかで、華やかな雰囲気に変わった。奥にある一室に通されて、亜沙子は思わず息をのんだ。
「わぁ……」
天井には、優しい橙 の照明。
角部屋で、二面に眺望を拝める大きな窓があり、薔薇を模した色硝子に漉 された月明かりが、床に美しい紋様を描いていた。
部屋の隅に、藤を描いた七宝焼きの壺が置かれており、天井から垂れさがる香炉から、馥郁 たる薔薇の香りが漂っている。
白い漆喰 の壁には、雅な絵画が飾られ、床には、紺地に金糸を織りこんだ豪奢な絨毯が敷かれている。
飴色の衣装箪笥に文机。天蓋つきの大きな寝台。猫脚の寝椅子には、白地に薄紅の花草模様 を意匠した生地が張られている。
まるで異国の姫君のお部屋だ。
目を奪われている亜沙子を見て、灯里は表情を綻ばせた。
「お気に召しましたか?」
「はい、とても! 素敵なお部屋ですねぇ……」
亜沙子はしみじみと呟いた。
「お召し物を変えましょうね」
そういって灯里が大きな衣装箪笥を開けると、目にも彩 な衣装がずらりと並んでいた。
亜沙子も箪笥の一つを開けようとしたが、固くてとても開けられない。首を傾げつつ奮闘する亜沙子を、灯里は不思議そうに見ている。
「いかがなさいましたか?」
「いえ、固くて。開かない……あれ?」
「? 変ですね」
傍へやってきた灯里は、亜沙子が苦戦していた引き出しを、いともあっさり開けた。
「あれ? 開いた」
亜沙子は、開いた引き出しを押してみた。重たくて、ほんの少ししか動かない。問いかけるように灯里を仰ぐと、驚いた顔で亜沙子を見ていた。
「姫様は、とてもか弱くていらっしゃるのですね」
「えっ? この引き出しが固すぎるんじゃなくて?」
ぐぐ、っと引き出しを押す亜沙子を見て、灯里はたおやかな繊手 をつと伸ばし、簡単に引き出しをしめた。
「あ、あれぇ?」
「これでは、お一人で扉を開けることも、お辛いかもしれませんね」
「まさか……」
訝しげにつぶやいた亜沙子は、確かめるように真鍮の扉ノブをひねってみた。扉の重たいこと。体重をのせて肩で押すと、どうにか隙間ができた。
「ふぅ」
息をつく亜沙子を見て、灯里は心得たように頷いた。
「お困りでしたら、いつでも鈴を鳴らしてお呼びください。廊下に宿直 も控えておりますから」
「すみません……ご迷惑をおかけいたします」
「このようにか弱くていらっしゃっては、我が主も目を離せませんね」
愉しげにいう灯里に、亜沙子は乾いた笑みで応じた。
「さぁ、降りよう。掴まって」
返事をするよりも早く、亜沙子の背中と膝裏に腕が伸ばされた。ぎこちなく一世の首に腕を回すと、ぐんと身体が持ち上がった。
「怖ければ、瞳を閉じておいで」
宥める様に耳元で囁かれて、亜沙子はおとなしく瞳を閉じた。
まさか、このまま外に飛び出すつもりだろうか?
身構える亜沙子を、腕の中の子供を守るようにして一世はしっかりと抱きしめた。品の良い香が漂い、別の意味でどきどきしていると、ふわっとした浮遊感に包まれた。
「……ほら、もう大丈夫」
穏やかな声に促されて瞳を開けると、もう地上に降りていた。亜沙子を抱えたまま、一世は歩き始める。
「あの、下してください」
「このままで構わないよ」
「いえいえ、自分で歩きますから!」
必死に頼むと、残念そうにしながらも、一世は亜沙子を下ろした。けれど、肩を抱き寄せ、傍から離そうとしない。困惑気味に仰ぐ亜沙子を見下ろして、蒼と金の瞳を和ませた。
「緋桜邸へようこそ。今日から、ここが亜沙子の家だよ」
「……はい」
「気兼ねなく寛ぐと良い。景観の良い室を用意しようね」
一世はにっこりほほえむと、尾をゆらりと揺らした。
両開きの扉が、衛兵の手で開かれる。
立派な玄関には、紺地に金を織りこんだ絨毯が敷かれており、朱の柱には金色の装飾が施されていた。
天井は驚くほど高い。
和風な外観に反して、内装は一見洋風だが、天井の格子や扉の枠は漆塗り、鳳凰を描いた
思わず立ち止まってしまう亜沙子を見て、一世はほほえんだ。
「どうした?」
「すごい豪華……お洒落ですねぇ」
一世は気を良くしたように、あちこち眺める亜沙子に、あれはね、と丁寧に説明をし始めた。
邸に仕える天狼とすれ違う度に、彼等は端に寄って恭しく首を垂れた。
そのうち、廊下の向こうから従者を連れた白い男がやってきた。顔立ちは精緻に整っており、髪も耳も尾も新雪のように白い。
「一世。そちらは?」
中性めいた容姿をしているが、声は落ち着いた男性のものだ。
「亜沙子だよ。かわいいだろう?」
一世は美貌の青年に答えると、今度は亜沙子を見てほほえんだ。
「彼は
「初めまして、名倉亜沙子といいます。どうぞよろしくお願いいたします」
お辞儀する亜沙子を、紫蓮は無表情で見下ろした。問いかけるように、一世に流し目を送る。
「礼儀正しいだろう? 夜那川に落ちた澄花酒を、知らずに飲んでしまったらしくてね。万世橋で立ちん坊しているところを、拾ってきたんだ」
「はぁ」
「聞けば私の
「何を寝ぼけたことをいっているのです。貴方の気まぐれは今に始まったことではありませんが、とうとう人の子を攫ってきたのですか?」
紫蓮が呆れたようにいうと、一世は軽く肩をすくめてみせた。
「攫ってきたのではない。いく当てもなく心細そそうにしている様子を見ては、放っておけまい?」
「同じことでしょう。それで、客人として迎えるおつもりですか?」
「うん。紫蓮もよく面倒を見てやってほしい。亜沙子は燈幻郷も天狼も知らず、遠く
様子をうかがっている亜沙子の顔を、紫蓮は軽く腰を屈めて覗きこんだ。
「……そうですね。人間は脆い生き物ですから。よく気をつけて世話をしなければいけませんね」
神秘的な灰紫の瞳に覗きこまれて、亜沙子は視線を泳がせた。
「何か召し上がりますか?」
「いえ、お構いなく」
手を顔の前で振る亜沙子を見て、紫蓮は気難しそうに、片方の眉を器用にあげてみせた。
「子供が遠慮をするものではありませんよ。よく食べねば、大きくなれないでしょう」
「こ、子供でもありませんし……」
苦笑しつつ、首を傾げる亜沙子を見て、紫蓮は顔をしかめた。
「先達の言葉には従うものですよ。貴方はまだ未熟な子供なのですから」
「えっ、いえ、とっくに成人しています。もう二十八ですよ」
「赤子も同然ではありませんか。よく一人でここへ辿りつけましたね」
想像していた反応と違い、亜沙子は面食らった。
「……あの、失礼ですが、紫蓮さんはお幾つなのでしょうか?」
「生まれてから、三百年は経ちましたかね。成人してからは、年を
「三百……?」
呆然と呟く亜沙子を見て、一世は閃きを瞳に
「人間に比べて、天狼は長寿なんだ。蓬莱山の空気に馴染むまでは、亜沙子も澄花酒を飲まなくてはね」
「え、そうなんですか?」
「そう。一口含めば疲れは和らぎ、二口飲めば怪我が癒える。飲み続ければ、神仙に近しくなれる」
「へぇ……?」
「
「そんなにすごいお酒なんですか?」
呆気にとられる亜沙子の頭を撫で、一世は機嫌よさそうにほほえんだ。
「そうだよ。あとで振る舞ってあげる。さぁ、部屋へ案内しよう」
一世は見目の良い侍女を呼びつけると、亜沙子の世話を命じた。
「我が主の仰せの通りに。姫様、お世話をさせていただく
侍女は恭しく
「わ、こちらこそよろしくお願いいたします。あの、膝をつかなくても……」
亜沙子がお辞儀をすると、灯里はすらりと立ち上がって、琥珀の瞳を和ませた。百六十センチ足らずの亜沙子よりも頭一つ分は背が高く、美しい容貌をしている。亜麻色の髪と同色の耳を持ち、腰下では同じ色の尾が揺れている。
「さぁ、姫様。こちらへどうぞ」
姫、と呼ばれて亜沙子は少し反応に困った。眼を和ませている灯里を仰いで、お世話になります、ともう一度頭を下げる。
中庭を横断するように設計された廊下を渡り、大きな扉を幾つか潜り抜けると、
「わぁ……」
天井には、優しい
角部屋で、二面に眺望を拝める大きな窓があり、薔薇を模した色硝子に
部屋の隅に、藤を描いた七宝焼きの壺が置かれており、天井から垂れさがる香炉から、
白い
飴色の衣装箪笥に文机。天蓋つきの大きな寝台。猫脚の寝椅子には、白地に薄紅の
まるで異国の姫君のお部屋だ。
目を奪われている亜沙子を見て、灯里は表情を綻ばせた。
「お気に召しましたか?」
「はい、とても! 素敵なお部屋ですねぇ……」
亜沙子はしみじみと呟いた。
「お召し物を変えましょうね」
そういって灯里が大きな衣装箪笥を開けると、目にも
亜沙子も箪笥の一つを開けようとしたが、固くてとても開けられない。首を傾げつつ奮闘する亜沙子を、灯里は不思議そうに見ている。
「いかがなさいましたか?」
「いえ、固くて。開かない……あれ?」
「? 変ですね」
傍へやってきた灯里は、亜沙子が苦戦していた引き出しを、いともあっさり開けた。
「あれ? 開いた」
亜沙子は、開いた引き出しを押してみた。重たくて、ほんの少ししか動かない。問いかけるように灯里を仰ぐと、驚いた顔で亜沙子を見ていた。
「姫様は、とてもか弱くていらっしゃるのですね」
「えっ? この引き出しが固すぎるんじゃなくて?」
ぐぐ、っと引き出しを押す亜沙子を見て、灯里はたおやかな
「あ、あれぇ?」
「これでは、お一人で扉を開けることも、お辛いかもしれませんね」
「まさか……」
訝しげにつぶやいた亜沙子は、確かめるように真鍮の扉ノブをひねってみた。扉の重たいこと。体重をのせて肩で押すと、どうにか隙間ができた。
「ふぅ」
息をつく亜沙子を見て、灯里は心得たように頷いた。
「お困りでしたら、いつでも鈴を鳴らしてお呼びください。廊下に
「すみません……ご迷惑をおかけいたします」
「このようにか弱くていらっしゃっては、我が主も目を離せませんね」
愉しげにいう灯里に、亜沙子は乾いた笑みで応じた。