燈幻郷奇譚

1章:遠き月胡の音 - 9 -

 暮れ始めた黄昏の空に、雅な音色が溶け込んだ。
 亜沙子の歓迎を祝う宴が、緋桜邸ひおうていで催されているのだ。
 絢爛豪華な広間で歌舞音曲かぶおんぎょくが盛大に行われ、絹衣装の綺羅で飾った天狼達は亜沙子のおとないを言祝ことほいだ。
 金色の幻燈が灯された宴は、鮮やかな極彩色で描かれた絵巻物のようだ。
 今宵、亜沙子は桜吹雪のあわせ東雲しののめ色の帯を合わせ、蒼い勾玉の飾りを襟につけている。髪は高く結い上げ、桜の枝を飾っている。
 灯里が春の精のように仕上げてくれたのだが、優麗な仙女達を前にすると気後れしてしまう。綺羅を張るつもりなどないが、彼女達を見る前までは存ったいくばかの自信は、あっけなく粉砕されてしまった。
 楽園のような景観を視界に納め、入り口で立ち尽くす亜沙子を見て、侍女たちが近づいてきた。
「姫様、どうぞこちらへ。主がお待ちしております」
「でも……」
 一世は、床面から高さのある一際豪華な上座にいる。紺地に朱と金を織りなした絨緞の上に、筒状のクッションが幾つも置かれており、天井からは光沢のある紗が垂れている。
 傍には紫蓮もいて、二人は美女に酌をさせて泰然と寛いでいる。
 近寄るには、相当な勇気がいる。
 できればいきたくない。願いをこめて侍女を仰ぐと、にっこり笑顔で跳ね返された。
「亜沙子!」
 戸口で足踏みしている亜沙子に気がついて、一世は子供を呼びつけるように手招いた。
 仕方なく、そろそろと近づき、上座の少し手前で足を止めると、もう一度手招かれた。
「亜沙子、おいで」
「でも……」
 おどおどしていると、肘掛けにもたれて寛いでいた一世は、身体を起こした。こちらへこようとする様子を見て、亜沙子は慌てた。
「今いきます」
 一段高いところへ上がると、一世は万人を魅了するであろう笑みを浮かべた。
「かわらしいね、亜沙子。よく似合っているよ」
 頬が熱くなるのを感じながら、亜沙子はほほえんだ。
「ありがとうございます、一世さんもとても素敵ですよ」
 一世は、透きあや亀甲紋きっこうもんの羽織を、袖を通さずに粋に着流している。長い青銀の髪を、腕に散らせるようにして肘掛にもたれている姿は、艶めかしく、幽幻的な美しさを匂わせている。
 恐縮しながら、毛皮を重ねた場所に着座すると、すぐに暖かな郷土料理が運ばれてきて、見目麗しい酌人が澄花酒を手に現れた。
「ようこそいらっしゃいました」
「わ……ありがとうございます」
 これほど歓待されるとは思っておらず、亜沙子は戸惑いつつ、ありがたく杯を傾けた。
 あれよという間に、亜沙子の皿にあらゆる料理が乗せられた。
 またしても鉄箸の重さに苦心していると、喜々として一世が世話を焼き始めた。
「ほら、口を開けてごらん」
「桐の箸をください。自分で食べますから」
 顔の前で手をふる亜沙子を見て、一世はほほえんだ。攻防はしばし続いたが、譲る気のない一世に、亜沙子の方が根負けした。
 よく手入れされた美しい指を見つめながら口を開くと、小さく切った里芋の煮っ転がしを口に放りこまれた。
「どう?」
「……美味しいです」
 口元を手で押さえながらいうと、一世は嬉しそうにほほえんだ。
「ほら、こちらも」
 雛に餌をやるように、一世は亜沙子に食べ物を運ぶ。
 最初は遠慮をしていた亜沙子だが、そのうち諦めて、箸が顔の前にくると大人しく口を開いた。
「また人の子のご機嫌取りですか。宗主の威厳が台無しですよ」
 傍で見ていた紫蓮は、呆れたように呟いた。委縮する亜沙子を見て、一世は紫蓮を睨んだ。
「煩いな。亜沙子を脅かすでない」
「貴方の振る舞いに問題があるからでしょう」
「判った、判った。お前にも食べさせてやろうか?」
 嫌そうに顔を背ける紫蓮がおかしくて、亜沙子はつい声に出して笑った。すると、二人は殆ど同時に亜沙子を見た。
「……すみません」
「謝ることはない。もっと笑ってごらん、亜沙子」
「そうですよ。子供は笑うものです」
 代わる代わる声をかけられて、亜沙子は噴き出した。
「なんだか、本当に小さな子供になった気がします」
「たんとお食べ」
「はい、いただいています」
 湯気のたつ、美味な料理に舌鼓を打ち、澄花酒で喉を潤す。仄かな甘みとすっきりした味わいがとても美味しい。
 時が進むにつれて、亜沙子の頬は上気し、思考は浮つきはじめた。酒は好きだが、あまり強くないのだ。
「一世、子供に酒を飲ませるものではありませんよ」
 うつらうつらしていると、諫める紫蓮の声が聞こえた。
「薄めた澄花酒だぞ? 子供でも飲めるだろう」
「亜沙子の顔を見てごらんなさい。真っ赤じゃありませんか。眠そうですし……」
「すみません……」
 赤い顔で船を漕ぐ亜沙子を見兼ねて、一世は自分の膝に亜沙子の頭を乗せた。起き上がろうとする亜沙子の肩を、優しく押しとどめる。
「一杯しか飲んでいないのだがなぁ。亜沙子がこれほど酒に弱いとは……私が傍にいない時に、酒を口にしてはいけないよ。いい?」
「ご心配なく……ここ以外では飲む機会もありませんから……ふぅ……」
「こんなに朱い顔をして、説得力がないよ」
 ほてった頬に、優しい口づけが落ちる。ちゅ、と音を立てて柔らかな唇は離れていった。
「よく気をつけなさい。貴方には注意力というものが足りないのですから。酒を飲ませて、よからぬことをする輩がいてもおかしくありませんよ」
 なにやら、紫蓮の小言も聞こえてくる。眠くて、勝手に瞼が降りてくる。もう、まともに喋れそうにない。
「亜沙子、眠いなら部屋にいく?」
「はい……お暇させていただきますね。楽しい時間を、ありがとうございました……」
 身体を起こして頭を下げると、一世はほほえんだ。背中でゆらゆらと尾が嬉しそうに揺れている。
「良い良い。私も楽しかったよ。さぁ、おいで」
 両腕を広げられたが、亜沙子はさりげなく身をかわした。
「いえいえ、お構いなく……」
「足元が覚束ないのに?」
「……あれ」
 指摘されて始めて、ふらついていることに気がついた。真っすぐ歩けない。声も微醺びくんを帯びている気がする。
「ほらほら、お姫様」
「わぁ」
 端正な顔が近づいたと思ったら、またしても身体を持ち上げられた。
 頭の螺子が緩んでいるせいか、寝室に運ばれても、危機感を覚えなかった。
「……ねやを共にする?」
 寝椅子に降ろされて、流し目で訊ねられた。ぽかんとする亜沙子の頬を手の甲で撫でながら、一世は蠱惑的にほほ笑んだ。
「一緒に眠ってあげようか?」
「え……」
 頭が少し冷えた。どういう肚積はらづもりなのかと、端正な顔を仰いだが、澄んだ瞳に疾しさは欠片も無い。
 疑うのもおこがましかった。
 麗しい美女を侍らせていた一世が、亜沙子ごときにくらっとするわけがないのだ。きっと、子供に添い寝をしてやろうと考えているのだろう。
「……平気です」
「本当に? 遠慮してはいけないよ」
「子供じゃないんですから」
 反駁はんばくする亜沙子を、そうだね、と見つめる眼差しは、子供を見るそれだ。叡智の神獣たる一世にしてみれば、二十八歳の亜沙子など、昨日生まれた赤ん坊も同然なのだろう。
「亜沙子は控えめで、とても礼儀正しい。もっと甘えてくれていいんだよ?」
 他意はないと判っていても、神々しい美貌でそんな風にほほえまれると、くらくらしてしまう。
「十分、甘えさせていただいてます」
「そういうところが控えめなんだよ。なら、この姿ならどうか?」
 そういって、一世は天狼の姿に変化した。凛々しい青銀の狼が、身体を伏せて上目遣いに亜沙子を見つめる。
「ぅ、うっ!」
 ときめきを堪えていると、一世はそろりと首を伸ばして、亜沙子の腹に頭をこすりつけた。
「ッ!!」
 亜沙子は屈した。その場にしゃがみこむと、一世の頭を両手で抱きしめる。温くて、ふわふわで、木犀の香りがする。
「あぁ、ふわふわ~」
 正体は一世だと知っていても、暖かくて、ふわふわで、とても心地がいい。この素晴らしい毛皮にくるまって眠る魅力には抗えそうにない。
「ちょっと待っていてくださいね」
 頭を撫でると、一世は嬉しそうにしっぽを揺らした。亜沙子は急いで化粧を落とし、薄手の長襦袢に着替えた。部屋に戻ると、交差した前脚に頭を乗せていた一世は顔をあげた。
「お待たせしました」
 黒羅紗くろらしゃを縫いつけてある寝具の縁を叩くと、尾を揺らしながら青銀毛の天狼が寄ってきた。
 亜沙子が上掛けを捲って布団にもぐりこむと、一世も一緒にもぐりこんできた。十分な広さがあるので、巨躯が寝そべっても問題はない。
「はぁ~……ふわふわ……」
 目を閉じたまま、頬を撫でると、一世は小さく喉を鳴らした。
「お休み、亜沙子」
「……お休みなさい」
 眼を閉じると、馥郁ふくいくたる桜の香が漂った。思考は心地いい眠りに溶けていく。

 あくる朝、頬を舐められる感触に目を開けると、天狼の姿の一世が視界に飛びこんできた。
「お早う、亜沙子」
 頬を舐められる。
「……お早うございます?」
 ぼんやり答えると、控えめに扉を叩く音が聞こえた。
「姫様、起きていらっしゃいますか?」
 灯里の声に、亜沙子の頭はすぐに冴え渡った。
 この状況をどう説明しようか逡巡していると、一世は忽ち人の姿に変わった。変幻無窮へんげんむきゅう御業みわざに、衣装の着脱は不要らしい。瞬きしたら、もう凛々しい金釦きんぼたんの軍装姿である。長い青銀の髪をけだるげに手で払い、扉に目を向けた。
「入れ」
 亜沙子にかわって一世が返事をすると、灯里はそっと扉を開いてこちらを見た。ま、と口元を手で抑えて目を輝かせる。
後朝きぬぎぬの別れに野暮をいたしました。申し訳ありません……」
 と、心得たように扉をしめようとするので、亜沙子は慌てた。
「待って、誤解ですッ!!」
 焦った拍子に寝台から落っこちて、いらぬあざをこさえる羽目になった。