燈幻郷奇譚

2章:桜降る蓬莱山 - 10 -

 灯里の恋人がいるという、くだん悉皆屋しっかいやは、甘味屋と同じ往来にあった。
 おとないを予期していたかのように、屋号の染め抜かれた暖簾のれんをくぐって、美人な青年が顔を出した。
 耳も尾も見当たらないが、一目見て彼が灯里の恋人だと亜沙子は見抜いた。青年も亜沙子を見て、昔ながらの知己ちきに向けるような笑みを浮かべた。
「よくきてくださいました。店主のおぼろです。灯里から姫様の話を聞いて、ずっとお会いしてみたいと思っておりました」
「わぁ、初めまして! 灯里さんには、いつもお世話になっております」
 はしゃいだ声を上げる亜沙子を見て、一世はさりげなく肩を抱き寄せた。悪戯めいた光を目にともす朧の横をすり抜け、お邪魔するよ、とさっさと店に入ってしまう。
「せっかくだから、何か買ってあげる」
 そういって、一世は鏡の前に亜沙子を立たせては、髪や耳元に装飾具を合わせて吟味した。
「これも似合うね」
 珊瑚の耳飾りを亜沙子の耳に合わせて、一世がいった。
「一世さん、耳飾りなら十分持っていますから」
「私が買ってあげたいんだよ」
「でも、さっきも腰帯に靴を買っていただいたばかりですし」
「耳飾りはまだ買っていないよ」
「でも」
「姫様、よくお似合いですよ」
 朧まで、一緒になっておだててくる。営業は関係なしに、亜沙子にあれこれ着せようとするのだ。
「亜沙子、これも似合うんじゃないか?」
 一世は別の耳細工をもって、戻ってきた。細い金の鎖で垂れさがる、揚羽蝶の耳飾りを亜沙子の耳にあてがう。
「一世さん……」
 亜沙子が困ったように呼んでも、一世はどこ吹く風だ。
「亜沙子のかわいい耳には、垂れさがる飾りがよく映える」
「お似合いですよ、姫様」
 にこにこしながら朧がいう。
 一世が財布の紐を緩めそうになる度に、亜沙子はやんわりと断るのだが、最終的に一世は気に入ったものは全て買い上げた。
 白甲はっこう鼈甲べっこうの簪、垂れさがる揚羽蝶の耳飾り、紫水晶の腕輪……今日一日で、彼がどれほど散財したのか考えるのも恐ろしい。
「お買い上げいただき、ありがとうございました」
 戸口まで送ってくれる朧の顔は、ほくほくしているように見えた。
 この手荷物では歩けまい、そう思っていると、一世はどこに隠していたのか、護衛を傍に呼びつけて車に運ばせた。
 荷物を片づけて両手を空けると、一世は当然のように亜沙子の手を引いて歩き始めた。
 夕闇の中、ドン、ドン、ドンと力強い太鼓の音が聴こえてくる。
「何だろう?」
護摩焚ごまたきだよ」
 一世の指さす方を見ると、夕闇の向こうに高く舞い上がる炎が見えた。
「……焚火?」
「護摩木をくべて、祈願をこめながらくんだよ。天帝に請いながら、諸々の煩悩を焼き払うんだ」
「へぇ……」
 近寄ってみると、人が大勢集まっていた。
 護摩壇の傍に法衣を着た男がいて、御経を読み上げている。集まった人々は、神聖な火を前にして、手を合わせて瞑想をしているようだ。
 一つ一つの所作が神秘的で、つい魅入ってしまう。
 烈しく燃えさかる炎を眺めていると、不思議と身体の芯まで力がみなぎってくる気がした。
「亜沙子も手を合わせておくといい。天帝も耳を傾ける、伝統的な神事だから」
「はい……」
 燃ゆる炎をじっと見つめていると、不思議な心地がしてくる。暗がりに揺れる橙色の炎の中に、母の陰影を見た気がした。

 十年前――
 大学を卒業して、独り暮らしを始めようとしていた頃。
 亜沙子が荷造りをしている傍らで、母は縁側に座り、緑の庭を眺めていた。
「少し休憩にしたら? 月見草が咲いたのよ」
 誘われて隣に腰を下ろすと、母は華奢な外見に反する強い力で、亜沙子の腰に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「綺麗に咲いたわねぇ」
 明るい声に、そうだねぇ、と亜沙子も笑う。
「ごめんねぇ、亜沙子」
「何が?」
「片親で、苦労させちゃって」
 しんみりとした口調で、母はいった。
「……いいよ。私もごめんね。わがままで、聞き分けがなくて」
「亜沙子は真っすぐでいい子よ。元気でいなさいね」
 記憶の中で、母は春溜まりに吹く、微風そよかぜのようにほほえんだ。
 ずっと、両親に対して、怒りの鬼火が胸底で燻っていたが、彼等ばかりを責めることはできない。亜沙子も、父に、母に対して、硬くなに親であることを求めていた気がする。
 道ならぬ恋を応援することだけはできなかったけれど……母は、亜沙子を生み育ててくれた、たった一人の母なのだ。
 移ろう、東京の四季が懐かしい。
 桜降る春がきて、照りつける真夏に喘ぎ、過ぎゆく夏の後に秋がきて、大地に霜が降りて、雪降る冬がくる。繰り返し、繰り返して、季節はめぐり――また夏がくる。
 今年の夏も、母は縁側で月見草を眺めているのだろうか。
 不変の光景の中で、亜沙子だけがそこにいない。
 遠くへだてられた故郷を想い、胸に哀切がこみ上げた。
(……ごめんなさい、帰れなくて。どうか、元気でいてください)
 目を閉じて手を合わせ、心の中で母の息災をねがう。
(……ここで生きていくことを、どうか許して。燈幻郷で、天狼達と穏やかに暮らしていきたいんです……)
 胸の寂寥が尽きる日は、永遠に訪れないかもしれないけれど、燈幻郷に、一世の傍にいたい。
「――何をねがっていたの?」
 隣を仰ぐと、優しい双眸が三日月のように細められた。内緒です、と亜沙子は淡くほほえんだ。
「教えてくれないの? 私を誰だと思っている?」
天狼主あめのおおかみぬし様です」
 ふふ、と亜沙子が笑うと、一世は腕を組んだ。
「いかにも」
 腕を絡めて、腕にもたれかかると、一世のほほえむ気配がした。尾が見えていたら、きっと左右に揺れていただろう。
 穏やかな沈黙。
 言葉はないけれど、気持ちは通じている気がして亜沙子は幸せだった。
 和んでいると、鈴の音を響かせ、豪奢な神輿が現れた。
 護摩壇の傍に停まり、中から豪奢な衣装をきた美丈夫が現れた。亜沙子が目を奪われていると、視線を辿り、面白くなさそうに一世は鼻を鳴らした。
「彩国の大王だよ」
「え、あの人が?」
「この街は、天狼をまつるお社を中心に栄えているからね。神事があると、王や貴顕も立ち寄る」
 大王は瞳を閉じて、揺らめく炎に手を合わせている。端正な顔立ちも、錦の衣装も、だいだい色に照らされて神々しい。
「王様も願いごとをしているのかな?」
「彩国も、いろいろと問題を抱えているからね。国の安寧と、厄払いを祈っているのだろう」
「……」
 一世は何気ない口調でいうが、亜沙子は申し訳ない気持ちで押し黙った。
 蓬莱山へやってきた経緯いきさつを思い出す。
 本来、彼が飲むはずだった澄花酒を、不可抗力とはいえ奪ってしまった。亜沙子の方は、物見遊山で夏祭りにきているが、彼は仕事できているのだ。真剣に瞑想する姿から、なんとなく心労がかさんでいるような気がしてしまう。
 あの日、もし澄花酒を口にしていたら、彼の心境はどうだったろう? 少しは楽になっていただろうか?
「……気の病むのはおよし。亜沙子が気にすることではないのだから」
 肩を抱き寄せられ、亜沙子は小さく目を見開いた。大きな掌に頭を撫でられ、自然と頬が緩む。
「……今度、澄花酒をお届けする際は、私も同席したいです。謝罪させてほしい」
「――ほら、亜沙子。花火が打ちあがるよ」
「え?」
 顔を上げた途端に、ドドンッと音を響かせて、夜空に大輪の花が咲いた。
「わぁっ」
 まさか花火を見れるとは思わなかった。
 空を皓々こうこうと照らす火花に、あちこちから歓声が上がる。
 ドドンッ。
 次々と花火が打ちあがる。見事な夏の風物詩だ。
 夢中で眺めているうちに、神輿はどこかへ消えてしまった。視線を彷徨わせて大王の姿を探したが、人が密集していて見つけられない。
 探すことを諦めると、亜沙子は大輪を咲かせる夜空に目を向けた。