燈幻郷奇譚

2章:桜降る蓬莱山 - 9 -

 日が暮れて、夜のとばりが降りてきた。
 町人風に変装をした亜沙子は、蓬莱山のふもとで催される千年天満ちとせてんま神社例大祭に、これから繰り出すところだ。
「姫様、お気をつけていってらっしゃいまし」
 玄関まで見送ってくれる灯里に、亜沙子はほほみかけた。
「お土産は何がいいですか?」
「お気遣いなく、楽しんできてくださいまし」
 そういいながら、帯を直してくれる。
 今日の亜沙子は天女の衣装ではなく、町娘に扮している。
 桜刺繍の単衣ひとえに、くちなし色の帯を合わせ、木綿の草履をはいている。肩から斜めがけにしている金紗縮緬きんしゃちりめんのがま口の鞄は、灯里のお手製である。
「一世の傍を離れてはいけませんよ。貴方はそそっかしいのだから」
 紫蓮の言葉に、はい、と亜沙子は素直に頷いた。
「私がついてるのだから、心配あるまい」
 質素な藍染の着物に、長い袋包ふくろづつみを肩にかけた一世が、玄関先に姿を見せた。
「わぁ、一世さん、書生みたい! 素敵」
 通力で耳や尾を隠し、青銀の髪は黒く見せている。いつもとは違った雰囲気だ。だが、この世のものとは思えぬ端正な顔立ちは相変わらずである。
「ふふ、変装だよ。似合う?」
「よくお似合いですよ」
「ありがとう。亜沙子は今日もかわいい。世界で一番かわいいよ、私のお姫様」
「ッ」
 そういって、頭のてっぺんに羽のようなキスを落とす。甘い仕草に亜沙子は視線を泳がせた。
駕籠かごの準備が整っていますよ」
 呆れたように紫蓮が口を挟み、亜沙子はようやく顔を上げることができた。これほど亜沙子の心を掻き乱した一世は、楽しそうに紫蓮と言葉を交わしている。
 今日は仰々しい輿こし飛車とびぐるまではなく、庶民の乗り物、人力の駕籠を門の前に呼んである。といっても、担ぐのは人間に扮した天狼である。
「では、いってくる」
 二人乗り用の駕籠に、亜沙子が先に乗り、次に一世も乗りこんだ。
「いってらっしゃいませ」
 使用人達に見守れて、駕籠は動き始めた。
 窓から外を覗くと、月明りに照らされ、夜那川は銀斑ぎんはんに煌いていた。
 いい夜だ。
 薄靄の漂う万世橋を越えて、妖の通る九十九折つづらおりの山道を下っていく。足場の悪い隘路あいろでも、天狼には問題ない。
 お山のどこを見ても、荘厳で崇高な雰囲気に満ちていた。
 鬱蒼と茂る樹齢千年を超える桜の大樹。蓬莱山に八百万やおろずの神々が住むというのも頷ける。
 蓬莱山の麓に出ると、間もなく苔むす石灯篭いしどうろうに照らされた石畳の参道が見えてきた。
 ぴぃ、ひゃら、ひゃっ、ドドン……
 遠くから祭囃子まつりばやし音頭おんどが聴こえてくる。
 千年天満は、人間に妖、一世のように徳の高い神仙も寄りつく、賑いを見せる街だ。
 往来の盛んな通りには、所狭しと大小の露店が並び、声を張り上げて道ゆく人々を呼びこんでいる。
 初めて見る街なのに、遠い記憶を呼び起こすような、不思議な懐かしさを覚えた。猥雑わいざつとした喧騒は、渋谷界隈に通ずるものがある。だが、廃棄ガスやアスファルトの匂いは微塵もしない。
 異国の香華に、したたるような新緑の香り。
 燈幻郷にはない、濃密な夏の匂いがする。
 無数に灯る朱金の提灯。ノスタルジックな夏の風情。あやかしと人が共存する、猥雑で活気に満ち溢れた不思議な街だ。
 駕籠を下りて、二人は並んで歩き始め始めた。しかし、数歩もいかぬうちに一世は足を止めた。
「亜沙子」
 佩珠おびだまの擦れ合う涼しい音をさせて亜沙子を振り向くと、一世は、亜沙子の手を覆った。
「物珍しいものがあっても、駆けてはいけないよ」
「はい」
「迷子にならないよう、私の傍を離れてはいけないよ。もちろん、知らない人間にも妖にもついていったら駄目だからね?」
 子供にいい聞かせるような口調に、亜沙子は小さく噴き出した。
「そこまで子供じゃありませんよ。いくら何でも過保護です」
「口煩くてごめんね。でも心配なんだ。亜沙子が邸で暮らしていることは、耳聡い者ならもう知っているからね。よからぬ輩が亜沙子に近づくかもしれない」
 一世の真剣な表情を見て、亜沙子も笑いを引っ込めた。
「判りました。よく気をつけます」
 実際、彼の忠告がもっともであることは、往来を数歩もいかぬうちに証明された。
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 世にも不思議な一つ目男、火を噴く火炎男、これぞ千年天満名物、怖い怖い見世物小屋はこっちだよ!!」
「いらっしゃ~い! 冷えた氷菓子、氷飴、果実水はいかがですかー?」
 と、このように商売人の呼びこみが半端ないのだ。
 世間知らずな亜沙子が一人で歩いていたら、身ぐるみ剥され、悲惨な目に合う可能性は高い。
「……よく判りました。十分に気をつけます」
「そうして。亜沙子は世間知らずなのだから、よく警戒しないといけないよ」
「肝に命じておきます。私は気が弱いし、この街をよく知らないから、あんな風に強引に営業されたら、逃げられないかもしれない……」
 物見遊山で訪れている観光客に、臆せず営業を仕掛け、手を突き出して金をせびる姿は非常にたくましい。商売人とは皆ああなのだろうか?
 難しい顔をする亜沙子の頭を、一世は大きな手で撫でた。
「安心おし。私が傍にいるからね」
「はい! 助かります」
 なんとも頼もしい言葉に、亜沙子は心から礼をいった。
 夏祭りを心置きなく楽しめるのは、一世が傍にいてくれるおかげだ。彼は先ほどから、この世のものとは思えぬ美貌、隠しきれぬ覇気で、一言も発せずに周囲を威圧していた。
「さぁ、楽しもう。何でも好きなものを買ってあげるよ」
 気風きっぷのいい申し出に、亜沙子は笑顔になった。
「あの出店の、林檎飴を買ってくださいな」
「よし」
 一世は、邸への土産も考慮して多めに買った。亜沙子が幸せそうに飴を頬張ると、他には? と目を輝かせて問うた。
「今のところは……店を覗くだけで、楽しいですから」
 心からの言葉だが、一世は不満そうな顔をした。
「飴だけ? 亜沙子は欲がない。もっとねだってくれないとつまらぬ」
「十分、贅沢をさせていただいていますから」
「子供が遠慮するものではないよ」
 子供でもありませんし、と亜沙子は笑った。
「美味しそうなものがたくさん。目移りしてしまいますね」
「例えば?」
 あれ、と亜沙子は店の一つを指さした。
 冷えた麦酒に、夏野菜の盛り合わせを振る舞っている店だ。軒につるされた風鈴が、涼しげな音色を響かせている。
「寄っていく?」
「はいっ」
 葦簀張よしずばりの縁台に座ると、店の畑で収穫した夏野菜、胡瓜、トマト、茄子に西瓜すいかを盛ったざるを出してくれた。砕いた氷で冷えていて、味噌をつけて食べるととても美味しい。
 食べ終えたあと、幾らも歩かぬうちに亜沙子は千疋屋せんびきやを指さして、一世の袖を引っ張った。
「一世さん、餡蜜ですって! 入りましょうよ」
 目を輝かせる亜沙子を見て、一世は笑った。
「よく食べるね、亜沙子は」
「花より団子ですよ」
「私も甘いものは大好きだよ」
 店は繁盛していた。
 渦巻き状の蚊取り線香の焚かれた入り口を、頻繁に人が出入りしている。
 暖簾をくぐると、ちりん、と清らかな鈴が鳴った。すぐに勝気そうな看板娘がやってきて、一世を見るなり綻ぶような笑みを閃かせた。
「まぁ、宗主様! いらっしゃいまし。どうぞ、お上がりくださいな」
「久しぶりだね、萩乃はぎの。元気にしていた?」
「はい、おかげさまで! ようきてくださいました」
 溌剌とした美少女は、うっとりとした表情で一世を見上げた。その様子を傍で観察している亜沙子に気づくと、不思議そうに首を傾けた。
「我が主、こちらの方は?」
「亜沙子という。私の大切な客人なんだ」
 一世は亜沙子の背中に腕を回して、軽く抱き寄せた。親密な仕草に亜沙子の胸は弾む。その様子を見て、萩乃は瞳を和ませた。
「聞いていた通り、かわいらしいお姫様ですね。萩乃と申します。どうぞよしなに」
「ご丁寧に、ありがとうございます。亜沙子と申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
 亜沙子が頭を下げると、萩乃は驚いたように瞳を丸くした。
「まぁ、お行儀のよいお姫様ですねぇ」
 頭を撫でられて、亜沙子は苦笑いを浮かべた。よもや、自分よりも年下であろう少女に撫でられるとは。
 席につくと、間もなく美味しそうな餡蜜が運ばれてきた。至福を味わいながら、亜沙子はてきぱきと働く萩乃を観察した。
「萩乃をじっと見て、どうかした?」
「彼女は天狼ですよね?」
「そうだよ。町人に扮して、諜報をしているんだ」
「そうなんですか? ああしていると、本当に人のように見えますね。すごい美少女だけれど」
 ふと、灯里の恋人も千年天満にいることを思い出した。
「そういえば、灯里さんの恋人も、ここで悉皆屋しっかいやをされているんですよね」
「灯里に聞いたの?」
「はい。お店の場所は知らないのですけれど」
「すぐそこだよ。いってみる?」
「はいっ」
 亜沙子が破顔すると、一世は目を細めてほほえんだ。