燈幻郷奇譚

2章:桜降る蓬莱山 - 8 -

 小春日和の午下ひるさがり。
 凛夜達が道場に通っていると聞いて、亜沙子は覗いてみることにした。
 しかし、中には殆ど人影がなく、姿を探して道場をぐるっと回ると、井戸端の方から賑やかな声が聴こえてきた。
 月橘げっきつの生け垣から覗いてみると、下履き姿の男衆が、釣瓶つるべで水を汲みとり、肩から豪快に水を浴びていた。
「わぁっ」
 つい声を上げると、男衆は一斉にこちらを振り向いた。亜沙子は慌てて背を向けたが、背中越しに、わいわいがやがやと集まってくる。
「あれ、姫様?」
「どうかされましたか?」
「すみません! 覗くつもりじゃなかったんです! 凛夜達を探していて」
 背を向けたまま答えると、誰かが凛夜の名前を大声で呼んだ。遠くから、元気の良い返事と、駆け寄ってくる足音が聞こえる。
「姫様っ!?」
 息を弾ませて、凛夜がやってきた。
「あ、凛夜?」
 振り向いていいものか、おろおろしていると、もう平気だよ、と凛夜はいった。
 恐る恐る振り向くと、全員が天狼の姿に変わっていた。亜沙子は肩から力を抜くと、頭を下げた。
「お騒がせしてすみません、出直してきますね」
「今でええよ。道場に何の用じゃ?」
「稽古を見学しにきたのだけれど」
「稽古なら、ちょうど終わったところじゃ」
「そうみたいね。またくるよ」
 すると、天狼達は顔を見合わせた。
「姫様の希望とあらば、喜んで再開しましょう」
 大きな天狼がいうと、ゲェッ、と凛夜達は蛙が潰れたような声で唸った。
「いいです、いいです! またきますから!」
 そぉ? といいたげに天狼達は揃って首を傾けた。その仕草に、亜沙子はときめいた。立派な体躯の凛々しい神獣なのに、とても愛らしい。
 結局、天狼達のやる気に火がいて、稽古を再開し、亜沙子は見学していくことになった。
 げんなりしている凛夜を見て、少々申し訳ない気持ちになったが、体術や剣術槍術の稽古は見応えがあった。巧みで鮮やかな身のこなし、殺気だった空気といい、見ているだけで身体に力が入る。
 しばらく見学していると、灯里が亜沙子を探しにやってきた。
「姫様、我が主がお呼びです」
「一世さんが?」
 先日の件を思い出して、ドキッとした。
 向こうは飄々ひょうひょう、泰然としているが、亜沙子の方はそうもいかない。顔を見ると、どうしても緊張してしまうのだ。
「はい。離れの書院で紫蓮様と休憩していらっしゃいます。姫様もお呼びするよう、仰せつかりました」
「判りました」
 紫蓮も一緒ならば、二人きりになる心配はいらなそうだ。安堵しつつ、亜沙子は腰を上げた。道場にいる天狼に挨拶をして、一世の待つ書院に向かった。
 控えの間に入ると、扉の左右に立つ侍従が心得たように扉を開いた。
「我が主がお待ちです。どうぞお入りください」
「ありがとうございます」
 礼をいって中へ入ると、奥の方から、おいで、と一世の声がした。
 部屋は広く、天井は高い。
 内装は上品に整えられており、壁際に黒漆塗りの箪笥や飾り棚、文机が並んでいる。鎖で吊るされた高炉で香が焚かれていて、金木犀のような、甘く爽やかな香りが漂っている。
 縁側に衣桁いこうが置かれており、そよ風に揺れる錦紗きんしゃ薄衣うすぎぬに、二人の陰影が映っていた。
「こんにちは?」
 遠慮がちに声をかけると、二つの陰が揺らいだ。一世の隣に紫蓮もいるようだ。
「いらっしゃい、よくきたね」
 長い煙管きせるで煙草をふかし、しどけなくひじ掛けに凭れながら一世はほほえんだ。
 璃色のセルロイド軸の万年筆を指で弄んでいた紫蓮は、亜沙子を見て手帳を閉じた。
「……お仕事中でしたか?」
 亜沙子が訊ねると、いいや、と二人は揃って首を振った。
「一世の気が乗らないので、一服しているところです」
 紫蓮は諦めたような口調でいった。
「冷えた枇杷があるよ」
 紫蓮の気苦労はどこ吹く風で、一世は亜沙子に枇杷を勧めてくる。
 氷の入った硝子の器に、色艶のよい大ぶりの枇杷がたくさん入っていて、亜沙子は瞳を輝かせた。
「あら、美味しそう」
「ここにお座り。一緒に食べよう」
「はい」
 一世の隣に座り、亜沙子はしみじみと庭を眺めた。
「……素敵なお庭ですね」
 鹿おどしのある坪庭で、手水鉢ちょうずばちの清水には、庭木の木漏れ陽が落ちて揺れている。新緑に色を添えるツツジや芝桜、山吹がなんとも風雅だ。
「ゆっくりしておいき」
「お邪魔ではありませんか?」
 一世は嬉しそうに尾を揺らしているが、紫蓮はやれやれ、といった顔をしている。
「邪魔なものか。私の息抜きにつき合っておくれ」
 一世は、冷えた枇杷を手に取ると、器用に皮を剥いて、亜沙子の口元に近づけた。
「自分で食べれますよ」
「いいから、お食べ」
 一世は尾をぱたり、ぱたりと左右に揺らしている。沈黙が流れ、亜沙子が折れた。
「……はい」
 差し出された枇杷をかじると、果汁が滴り、一世の指を濡らした。手巾で拭こうとするよりも早く、一世はぺろりと舐めた。妙に艶めかしくて、亜沙子は慌てて視線を逸らした。
「美味しい?」
「はい」
 緊張気味に答える亜沙子を、一世は楽しそうに見ている。亜沙子も頂戴、と強請られ、剥いた枇杷を差しだした。指に果汁がしたたり、拭おうとする前に一世は口に含んだ。
「一世さん!」
 亜沙子が声を荒げると、一世は悪戯が成功したような顔で笑った。
「美味しい」
「何いってるんですか! もう、舐めないで」
「もっとちょうだい」
 逃げようとするが、手首を掴まれていて振り払えない。果汁に濡れた指を白い歯で甘噛みされた。体の芯が甘く痺れる。
「……一世が、このように幼い娘にのめりこむ嗜好を有しているとは知りませんでした」
 二人の様子を見ていた紫蓮は、少し呆れたようにいった。亜沙子は我に返って、頬を染めたが、一世は睨むように紫蓮を見た。
「失礼なことをいわないでほしいね」
「いえいえ、紫蓮さんのいうことも一理ありますよ。一世さんは、私を子供だと思って気軽に触りすぎです!」
 睨むように亜沙子がいうと、一世は不機嫌な目で紫蓮を見た。
「お前のせいで、叱られたではないか」
「当然の指摘をしたまでです」
 紫蓮は我関せず、無表情で枇杷を食べている。鉄壁の平常心を見習いたいものだ。
 心を落ち着けようと亜沙子は庭に目を注いだ。
 涼風が風鈴を鳴らし、風雅な鹿おどしが響く。寄り添う虫の音。
 苔の絨毯に、餌をついばみに雀が降りてきている。枇杷の皮を千切って放ると、雀達は小さな嘴で突き始めた。和んでいると、またしても不意打ちで頬を手の甲で撫でられた。
「一世さん?」
 亜沙子が狼狽えても、一世は答えない。青と金の双眸が細められる。愛でるような甘い眼差しに、亜沙子はよく判らない焦燥に駆られた。
「もう、何ですか?」
 亜沙子は、誤魔化すように前を向いた。さりげなく腰を浮かして、一世と距離を開ける。
「おやおや、一世がちょっかいを出しすぎるから、警戒されていますよ」
 紫蓮の冷静なツッコミに、煩いな、と一世は文句をいった。空気が緩んで、亜沙子はほっとした。自然と笑みを浮かべていると、ぱちっと一世と眼が合った。
「……亜沙子の嫌がることはしないよ。怖がらないでおくれ」
 一世は困ったように笑った。
「怖くありません」
 貴方が魅力的過ぎて、どきどきするんです――そう心の中でつけ加える。腰を浮かして空けた距離を詰めると、一世は嬉しそうにほほえんだ。
 蕩けそうな笑みに魅了されていると、こちらを脅かさないよう、遠慮がちに髪に触れてくる。控えめで優しい仕草に、亜沙子の胸はいっぱいになった。