燈幻郷奇譚

2章:桜降る蓬莱山 - 3 -

 宙を舞う瞬間、時が止まったように感じた。
 蒼い空。たなびく白い雲。驚いた顔をしている凛夜達。桜の花びら一枚一枚までもが、くっきりと目に映った。
 地面が迫ってくる――衝撃に備えて腕で頭を庇い、背中から落ちた。ごろごろと緑の上を転がり、背中に重たい衝撃を受けて回転は止まった。
「うぐッ」
 肺が潰れたと思った。重い衝撃のあとに、鋭い痛みが身体中に走った。手も脚も背中も、全身が悲鳴をあげている。
「姫様ッ!!」
 大地を揺るがす振動が、地面に横たわる亜沙子の身体に伝わってきた。
 一瞬、彼等が勢いのまま飛びかかってくるのではないかと怯えたが、体格差を思い出したように、彼等は慌てて速度を落とした。
「姫様! 大丈夫!?」
「動くな! 天狼の姿で近づいちゃ駄目だ」
「誰か! 早く緋桜邸に」
 切羽詰まった声が、四方から聞こえる。声をかけたいけれど、肺が苦しくて、咳こむことしかできない。口の中も切ったようで、咳に血が混じっていた。
「俺、緋桜邸にいってくる! 宗主様に知らせてくる!」
 切羽詰まった凛夜の声。
「判った。僕は姫様を見てるから、早く!」
 顔に陰が射して、瞼を開けると、人の姿をした和葉がいた。心配そうに亜沙子の顔を覗きこんでいる。
「姫様、大丈夫?」
 大丈夫、答えたつもりだが、声にならなかった。子供達は泣きそうな顔をしている。
「うぅ……ッ」
 全身が酷く痛む。久しぶりに痛みで涙が流れた。
 ささめ泣く亜沙子の手を、和葉はそっと握りしめた。
 慌ただしい怒号、飛車の鈴の音。子供の泣き声……傍に一世と灯里の気配を感じたところで、意識は沈んだ。

 再び意識が清明になった時、寝台の上にいた。
 部屋には仄かな照明が灯されていて、窓の外は暗い。
 唇に、澄花酒の余韻が残っている。
 仰向けに横臥おうがしたまま、ぼんやり唇を舐めていると、部屋に灯里が入ってきた。亜沙子が目を醒ましていることに気づかず、細々とした片づけをしている。
「……灯里さん」
 背中に声をかけると、灯里は弾かれたように振り向いた。
「姫様!」
 寝台の縁に駆け寄り、亜沙子の顔を覗きこんで、ほっとしたように表情を緩めた。
「姫様、お身体は? 苦しくありませんか?」
「平気です。どこも痛くない……?」
 起き上がろうとすると、灯里が背を支えてくれた。
「どうかこのまま。すぐに、我が主に知らせて参ります」
「凛夜達は?」
「姫様をとても心配していましたよ。紫蓮様がいい聞かせて、一度家に帰しました」
「そうですか……」
「明日には会えますよ。きっと早暁そうぎょうから邸の周辺をうろついているでしょうから」
 暫しお待ちくださいまし、そういって灯里は部屋を出ていくと、すぐに一世を連れて戻ってきた。
「亜沙子!」
「一世さん、ご心配をおかけしました」
 亜沙子の顔を見て、一世は肩から力を抜いた。傍へやってくると、浅く寝台に腰かけ、労わるように亜沙子の黒髪を撫でた。
「……無事でよかった」
 その声には、紛れもない安堵が滲んでいた。頬を大きな手で撫でられ、亜沙子は頬ずりしながら瞳を閉じた。
「どこも痛くない?」
「大丈夫です。あの、凛夜達はどんな様子でしたか?」
「泣きべそをかいていたよ」
「怖い思いをしたでしょうね」
「それは亜沙子の方だろう。自分より大きな天狼が飛びかかってきて、さぞ怖かったろう?」
「少し……でも、私もいけなかったんです。興奮している凛夜達の傍に、迂闊に近寄ってしまったから」
「凛夜達は遊んでいるつもりでも、亜沙子にとっては脅威だということを理解していないんだ」
「あの、凛夜達を怒らないでくださいね。私が気をつければ済むことですし」
「もう紫蓮がたっぷり叱ったよ。明朝、様子を見にくるけれど、会いたい?」
「はい。お願いします」
 案じるような眼差しを見つめて、亜沙子は頷いた。瞼を覆うように、掌が乗せられた。
「今度のことは凛夜達に非がある。だが、亜沙子も十分に気をつけるように。目を離す度に怪我をするようでは、本当に外へ出せなくなる」
「……はい。ごめんなさい」
 衣擦れの音がして、暖かな身体が優しく亜沙子の上に覆い被さった。視界を掌で覆われたまま、頬に柔らかなものが触れる。
「澄花酒を与えたから、傷は癒えているよ。でも、今夜はたっぷり眠った方がいい」
 耳元で囁かれて、亜沙子は頬を染めながら頷いた。一世は微笑すると、そっと身体を起こした。どんな魔法を使ったのか、思考は曖昧模糊にぼやけていく。吸いこまれるように、眠りに落ちていった。

 翌朝、子供達は不安そうな顔で緋桜邸にやってきた。
 笑顔で出迎える亜沙子を見て、わっと駆け寄ってくる。傍で様子を見ている一世が、警戒するように亜沙子の腰を抱き寄せた。真っ先に駆け寄った凛夜は、勢いを緩め、姿勢を正した。
「姫様、ごめんなさい! 俺のせいで、怪我をさせて」
「ううん、この通り元気だから心配しないで。邸に運んでくれて、ありがとうね」
 泣きそうな顔をしている凛夜の頭を撫でながら、亜沙子はほほえんだ。
「そんな顔をしないで。私の方こそごめんね、狩りの邪魔をしちゃって。今度は気をつけるから、また遊んでくれる?」
「もちろんじゃ!」
 声を上げたあと、凛夜は少し不安そうに一世を見た。子供達を見回して、一世は静かに唇を開く。
「亜沙子は、我等よりもずっと弱くて脆いんだ。お前達はじゃれているつもりでも、亜沙子には命を脅かす危険になりかねない。判るな?」
「はい……」
「二度と亜沙子を傷つけるな」
 凛夜は力強く頷いた。
「俺はもう、絶対に姫様を傷つけない。天狼の姿で駆け寄ったりしないし、爪や牙も隠す。絶対に乱暴なことはしない」
 凛夜はきりっと顔をあげて、一世と亜沙子を見ながら宣言した。
「よろしい。忘れるなよ」
「はい!」
 凛夜が元気よく返事をすると、一世は目を和ませた。それを合図のように、子供達は表情を緩めて亜沙子に群がった。
「ごめんね、姫様」
 子供達は、しょげた顔で謝罪を口にした。
「ううん、平気だよ。懲りずにまた遊んでね」
「それは俺の台詞じゃ。ありがとう、姫様」
 月色の瞳が、優しい三日月のように細くなって、きらきらとした光が零れた。
 図らずも見つめ合っていると、他の子供達も、甘えるように亜沙子の肩に頭を乗せたり、腕に触れてきた。力加減を気をつけていると判る、硝子細工にでも触れるかのような、繊細な触れ方だ。
「皆、ありがとうね」
 順番に子供達の髪を撫でてやると、子供達は嬉しそうに尾を左右に振った。一人が亜沙子の頬を舐めようとして、一世にむんずと襟首を掴まれた。
「――そのように触れるな。全く、百年早いわ」
 不機嫌の滲んだものいいがおかしくて、亜沙子は声をあげて笑った。