燈幻郷奇譚
2章:桜降る蓬莱山 - 4 -
最近、一世の顔を見ていない。
晩酌を好む一世は、どんなに帰りが遅くなろうとも、星月夜を肴に盃を傾ける癖があった。間に合えば亜沙子も同席するのだが、ここのところ、一世は蓬莱山の哨戒 で忙しいらしく、顔を合わせない日が続いている。
今夜は、どんなに遅くても出迎えよう。亜沙子は夜更かしをして待っていた。
月が真上に昇る頃――
就寝時刻をとうに過ぎた夜更けに、一世はようやく戻ってきた。
機嫌が悪いらしく、使用人達は三角の耳を横に伏せて、主の様子をうかがっている。
(……どうしたんだろう?)
亜沙子も近寄り難くて、廊下の陰から様子をうかがっていた。一世は眉間に皺を寄せて、紫蓮と何やら深刻そうに会話をしながら歩いてくる。
「――全く、神聖な注連縄 を断つとは信じられん」
普段の一世からは想像もつかぬ、冷たい声で吐き捨てた。
「彼等は、短命で儚い生き物ですから、気が急くのかもしれませんね」
「解せぬな。怨霊を恐れるくせに、神罰は怖くないのか?」
「さァ。それだけ追い詰められているのではありませんか?」
紫蓮が淡々と相槌を打つと、一世は疲れたため息をついた。
「手負いの獣は、何を仕出かすか判らぬな」
「ええ……」
「主上はなぜ人間を気にかけるのだろう? 不思議でならぬ」
「慈しみで、夜那川に橋を架けたいのでしょう」
「主上の気が知れぬ。人と狼を区別したのは、天であらせられるのに」
「これではっきりしたのではありませんか?畢竟 、共存など考えるだけ無駄ということを」
「無論。澄花酒は渡さぬ」
二人が目の前を通り過ぎても、亜沙子は動けずにいた。
詳しい事情は知らないが、彼等の人間を疎ましく思っている口ぶりに、少なからずショックを受けていた。
郷の天狼は亜沙子に親切にしてくれるが、人間に対して嫌悪があるのなら、本当のところはどうなのだろう?
(今夜は部屋で大人しくしていよう……)
気落ちして踵を返すと、お待ちください、と使用人達に声をかけられた。
「え?」
「我が主は、ご気分が優れぬご様子。ここは一つ、姫様のお力で憂いを晴らしてくださいまし」
「えぇ?」
「ささっ、これをお持ちになって」
陶製の酒瓶を手渡された。
「ちょ、ちょっとぉ」
「ささっ、お通りくださいませ!」
ぐいぐいと背中を押されて、長い廊下へ追いやられた。
使用人達は廊下の左右で額 づき、亜沙子の渡りをじっと待っている。
「う……一人でいたいのかもしれませんよ?」
弱り切った声で亜沙子がいうと、侍女の一人が顔を上げた。
「我が主の無聊 をお慰めできるのは、姫様だけでございます」
「追い払われるかもしれませんよ……」
不安そうに独りごちたが、誰も何も答えない。無言の圧に気おされ、亜沙子は渋々、渡り廊下に足を向けた。
「……いってきます」
「いってらっしゃいまし~」
背中に、どこか呑気で無責任な声が幾つもかけられた。
気は進まないが、誰にも止められることなく、離れの書院に入り、一世の部屋の前についた。
控えの間に入ると、宿直 が応じるよりも先に、誰だ? と中から誰何 の声がした。
「あの、亜沙子です」
一拍して、すぐに扉は開いた。一世は亜沙子を見下ろすと、表情を綻ばせた。嬉しそうに尾を緩く揺らしている。
歓迎されていることに勇気づけられ、亜沙子は背中に隠していた酒瓶を持ち上げてみせた。
「今晩は。あの、良ければ一緒に飲みませんか?」
一世は瞳を輝かせた。
「嬉しいね。晩酌につき合ってくれるの?」
いまさっきの不機嫌が嘘のように、一世は優しくほほえんだ。
「私で良ければ」
「亜沙子がいいよ」
さぁさぁと部屋に招かれ、縁側に並んで座ると、月を肴に二人は手酌で酒を盃に注いだ。
「お疲れさまです」
亜沙子が盃を近づけると、一世も嬉しそう近づけて、軽く器を鳴らした。
「酷い気分だったけれど、亜沙子のおかげで良くなったよ。感謝しなくては」
「お山で何かあったんですか?」
「桜の樹に巻きつけた注連縄が、幾つか傷つけられていたんだ。誰かが、幻燈郷の結界を壊そうとしたのだろう」
「それは、澄花酒の為に?」
「だろうね……全く、どうして人は歴史に学べないのか」
「……」
沈んだ表情の亜沙子に気がついて、一世は慰めるように肩を抱き寄せた。
いつもなら、新緑の中に漂う伽羅 のような、清涼で上品な香りに安堵するのに、今宵は仄かに火薬と硝煙 の匂いを纏っていて、亜沙子を不安にさせた。
「案ずるな。結界が壊れることはない。幻燈郷には何人たりとも入れぬよ」
「……はい」
心配事はそれだけではない。天狼が怪我をしないか、亜沙子は不安だった。
何事もなければいい――暖かな腕の中で、燈幻郷の平穏を思い、瞳を閉じた。
晩酌を好む一世は、どんなに帰りが遅くなろうとも、星月夜を肴に盃を傾ける癖があった。間に合えば亜沙子も同席するのだが、ここのところ、一世は蓬莱山の
今夜は、どんなに遅くても出迎えよう。亜沙子は夜更かしをして待っていた。
月が真上に昇る頃――
就寝時刻をとうに過ぎた夜更けに、一世はようやく戻ってきた。
機嫌が悪いらしく、使用人達は三角の耳を横に伏せて、主の様子をうかがっている。
(……どうしたんだろう?)
亜沙子も近寄り難くて、廊下の陰から様子をうかがっていた。一世は眉間に皺を寄せて、紫蓮と何やら深刻そうに会話をしながら歩いてくる。
「――全く、神聖な
普段の一世からは想像もつかぬ、冷たい声で吐き捨てた。
「彼等は、短命で儚い生き物ですから、気が急くのかもしれませんね」
「解せぬな。怨霊を恐れるくせに、神罰は怖くないのか?」
「さァ。それだけ追い詰められているのではありませんか?」
紫蓮が淡々と相槌を打つと、一世は疲れたため息をついた。
「手負いの獣は、何を仕出かすか判らぬな」
「ええ……」
「主上はなぜ人間を気にかけるのだろう? 不思議でならぬ」
「慈しみで、夜那川に橋を架けたいのでしょう」
「主上の気が知れぬ。人と狼を区別したのは、天であらせられるのに」
「これではっきりしたのではありませんか?
「無論。澄花酒は渡さぬ」
二人が目の前を通り過ぎても、亜沙子は動けずにいた。
詳しい事情は知らないが、彼等の人間を疎ましく思っている口ぶりに、少なからずショックを受けていた。
郷の天狼は亜沙子に親切にしてくれるが、人間に対して嫌悪があるのなら、本当のところはどうなのだろう?
(今夜は部屋で大人しくしていよう……)
気落ちして踵を返すと、お待ちください、と使用人達に声をかけられた。
「え?」
「我が主は、ご気分が優れぬご様子。ここは一つ、姫様のお力で憂いを晴らしてくださいまし」
「えぇ?」
「ささっ、これをお持ちになって」
陶製の酒瓶を手渡された。
「ちょ、ちょっとぉ」
「ささっ、お通りくださいませ!」
ぐいぐいと背中を押されて、長い廊下へ追いやられた。
使用人達は廊下の左右で
「う……一人でいたいのかもしれませんよ?」
弱り切った声で亜沙子がいうと、侍女の一人が顔を上げた。
「我が主の
「追い払われるかもしれませんよ……」
不安そうに独りごちたが、誰も何も答えない。無言の圧に気おされ、亜沙子は渋々、渡り廊下に足を向けた。
「……いってきます」
「いってらっしゃいまし~」
背中に、どこか呑気で無責任な声が幾つもかけられた。
気は進まないが、誰にも止められることなく、離れの書院に入り、一世の部屋の前についた。
控えの間に入ると、
「あの、亜沙子です」
一拍して、すぐに扉は開いた。一世は亜沙子を見下ろすと、表情を綻ばせた。嬉しそうに尾を緩く揺らしている。
歓迎されていることに勇気づけられ、亜沙子は背中に隠していた酒瓶を持ち上げてみせた。
「今晩は。あの、良ければ一緒に飲みませんか?」
一世は瞳を輝かせた。
「嬉しいね。晩酌につき合ってくれるの?」
いまさっきの不機嫌が嘘のように、一世は優しくほほえんだ。
「私で良ければ」
「亜沙子がいいよ」
さぁさぁと部屋に招かれ、縁側に並んで座ると、月を肴に二人は手酌で酒を盃に注いだ。
「お疲れさまです」
亜沙子が盃を近づけると、一世も嬉しそう近づけて、軽く器を鳴らした。
「酷い気分だったけれど、亜沙子のおかげで良くなったよ。感謝しなくては」
「お山で何かあったんですか?」
「桜の樹に巻きつけた注連縄が、幾つか傷つけられていたんだ。誰かが、幻燈郷の結界を壊そうとしたのだろう」
「それは、澄花酒の為に?」
「だろうね……全く、どうして人は歴史に学べないのか」
「……」
沈んだ表情の亜沙子に気がついて、一世は慰めるように肩を抱き寄せた。
いつもなら、新緑の中に漂う
「案ずるな。結界が壊れることはない。幻燈郷には何人たりとも入れぬよ」
「……はい」
心配事はそれだけではない。天狼が怪我をしないか、亜沙子は不安だった。
何事もなければいい――暖かな腕の中で、燈幻郷の平穏を思い、瞳を閉じた。