燈幻郷奇譚

3章:人と天狼の轍 - 6 -

 彩国の王と接触してから、七日。
 空にまだ蒼みの残る宵の早暁そうぎょう緋桜邸ひおうていに天帝の遣いを名乗る天女が訪れた。
 彩の間に亜沙子も呼ばれ、寝ぼけまなこで顔を出すと、輪廻を記憶している天狼が全て集められていた。その中には凛夜と和葉の姿もある。
「――亜沙子を独りで彩国へいかせろと? 認められるか、そのようなこと」
 麗しい天女に向かって、一世は険しい表情で吐き捨てた。
 部屋は、しんとなる。
 ぴりっとした空気に、亜沙子の眠気は一遍にどこかへ吹き飛んだ。なるべく静かに着座すると、隣に座っている紫蓮は、事情をかいつまんで教えてくれた。
 天帝の遣い――笹良ささらは、燃えるような赤髪に、神秘的な翠の瞳を持つ絶世の美女である。
 笹良は、一年前、彩国に届けることができなかった澄花酒の代わりに、亜沙子が彩国へおとない、王に言祝ことほげという。
 一方で、彩国の大王には、亜沙子に美味・珍味・歌舞で奉仕すれば、息災祈願は叶うと啓示を与えたらしい。
「主上が望んでおられる」
「ならぬ」
「三日で良い。亜沙子を遣わせ」
「ならぬ」
「たった三日だというに」
「ならぬ」
 一世は聞く耳を持たない。ならぬ、の一点張りだ。涼しい顔をしていた笹良も、次第に苛立ち始めた。
「どうあっても断るというのなら、その旨を主上にお伝えせなばならぬ」
「伝えればよかろう」
「良いのか?」
「無論」
「命に背くとあらば、いくらちょうをいただいている天狼主あめのおおかみぬしといえど、叱責は免れぬぞ」
「構わぬ。好きに伝えよ。業病ごうびょうおかされた大王など知ったことか」
「手前勝手を申すな。元はといえば、一年前に澄花酒を川に落としたせいだろう」
「澄花酒なら届けさせる。なぜ亜沙子をいかせねばならないのだ?」
「これまで再三申したのに、ちっとも届けやしないではないか」
「亜沙子を巻き込むなら話は別だ。そもそも、蓬莱山にになえ筒を持ちこんで、結界を壊したのは人間の方だぞ? 届ける義理がどこにある」
「そこまで追い詰めたのはお主であろ。彩国の大王には徳がある。死なせてはならぬ」
「一向に構わぬが?」
 笹良は疲れたようにため息をついた。
らちが明かん……ともかく、主上の勅令である。澄花酒は持ち出さぬが、亜沙子に王の病を治してもらう」
「ならん!」
 猛々しく怒鳴る一世を笹良は無視して、唖然とする亜沙子の方を向いた。
「良いか、澄花酒を飲み続けてきた亜沙子には、通力がそなわっている。心をこめて患部に触れれば、病魔は失せよう」
「そ、そうでしょうか?」
 亜沙子は、己の掌と笹良の顔を交互に見比べた。美貌の天女は優しくほほえんだ。
「案ずるな。通力はわたくしが保証する――というわけじゃ、そこの石頭は黙っておれ」
 針のような流し目を送る笹良を、一世は忌々しげに睨んだ。
「亜沙子を彩国へ遣わすことはまかりならん。澄花酒なら届けてやる。文句はなかろう?」
「もう遅い。悔悟は独りで存分にいたせ」
「それが天の意思か? 蓬莱山に仕える藩屏はんぺいをお疑いか?」
「――主上の意思である」
 空気はしんと冷えて、糸のように張り詰めた。なりゆきを見守っていた亜沙子は膝の上で拳を握りしめ、あの、とか細い声を発した。全員の目が、一斉に亜沙子に集中する。
「私、いきます」
「ならぬ!」
 殆ど被せるように、一世が吠えた。
「でも、三日経てば帰れるというし、元はといえば、私が澄花酒を飲んでしまったせいですから」
「亜沙子は黙っておれ!」
 一世は怒鳴ったが、笹良は目を輝かせた。
「おぉ、いってくれるか」
「はい」
「私は認めておらん!」
「煩い、少し黙っておれ。本人がいくというてるのじゃ。好きにさせよ」
たぶらかすな、笹良。亜沙子は騙されやすいのだ」
 むっとしている亜沙子を見て、ほほほ、と笹良は品よく笑ってみせた。
「これは愉快。枯れた狼生を送る頑固者と思っておったが、かわいいところもあるではないか」
「誰が枯れておるか。失礼だぞ、笹良」
「ほほ……」
「妙齢の女に、年を訊ねるのと同じこと。のぅ、笹良。老いたのではあるまいか?」
 笹良は羽根扇を広げて口元を隠すと、鼻で嗤う一世を睨みつけた。
「……良い度胸じゃ。それほど天罰を下してほしいか」
 いきなり険悪になる二人を見て、亜沙子は慌てた。
「まぁまぁ、お二人共……私がいけば、丸く収まるんですよね?」
 笹良はにっこり笑った。
「決まりじゃな」
「許さぬ!」
 膝立ちで反駁はんばくを叫ぶ一世を、笹良は打って代わって氷のような眼差しで睨みつけた。
「――天狼主。わたくしは、主上の言葉を語っているのじゃ。藩屏を名乗るなら、身を弁えよ」
「聴きれられぬ」
 鋼のような視線が交錯し、両者の間に蒼い火花を散らした。一触即発――どんな修羅場になるかと亜沙子が身構えたが、笹良は飽きたように視線を逸らすと、春の女神のようなほほえみを亜沙子に向けた。
「七日後に迎えの車をよこす。準備をして待っておいで」
「は、はい」
 亜沙子が頭を下げると、笹良は用は済んだとばかりに立ち上がった。さざなみのように揺れる裾を翻して、悠々と部屋を出てく。
 天女が出ていったあと、部屋に沈黙が流れた。
 頭痛を堪えるように目を閉じていた一世は、ゆっくり瞳を開けると、静かな眼差しで亜沙子を見つめた。
「――なぜ、勝手を申した」
「だって……」
「何?」
「……真相も判らないのに」
「疑われて当然のことを、人間はこれまでに散々繰り返してきたんだ」
「過去のことは判りませんが、今回の件に限っては私が彩国へいけば済む話じゃありませんか。天帝もそうしろとおっしゃっているのですから」
 不満をぶつけると、一世も不機嫌そうに沈黙した。睨み合っていると、凛夜がのそりと亜沙子の傍へ近づいた。
「……姫様、宗主様は間違っとらんよ。人間の郷は安全じゃない」
「凛夜……」
「人間なぞ信用できるか。姫様は判ってないんじゃ」
「私だって人間だよ、凛夜」
 首を振る亜沙子を、凛夜は強い金の瞳で睨んだ。
「姫様は姫様じゃ! なんで姫様は、彩国の人間なんぞにくみするんじゃ。俺達より人間の方がいいのか?」
「違うよ! そうじゃない」
 気色ばむ凛夜を、一世は視線で黙らせた。少年はしゅんと耳を倒して口を噤む。
 しかし、困惑しているのは凛夜だけでなく、部屋にいる天狼達も口々に弁を交わし始めた。
「大王は、憐憫の情に訴え、澄花酒をせしめようという肚積はらづもりなのではないか?」

「一兵も差し向けずに澄花酒が手に入れば、万々歳。手に入らずとも、蓬莱山に攻め入る大義名分がある。欲深い人間の考えそうなことだ」
 いくべきだ、いくべきではない……意見は二つに割れたが、大半の者は反対意見だった。
 亜沙子が困った顔をしていると、一世は切れ長の双眸をすぅと細めた。
「不満があるという顔をしているね?」
「……」
 唇をかみしめ、泣きそうになっている亜沙子を見て、一世はそっと胸に抱き寄せた。
「皆、朝からご苦労だった。解散して良い」
 そういうと、一世は亜沙子を片手に抱いて、部屋を出ていく。
「……どこにいくんですか?」
 子供のように運ばれながら、腕の中で亜沙子は囁いた。一世は質問には答えず、離れの書院に入った。
 寝椅子に座り、膝の上に亜沙子を横向きに乗せて、後ろから抱っこするように緩く抱きしめる。
「……一世さん?」
「亜沙子は優しいな。本当に慈悲深い……出会う者全てに情けをかけるようでは、私の心配が絶えないよ」
「そういうわけじゃ……」
「いっそ、邸に閉じこめてしまおうか?」
「え?」
「あんまり聞き訳がないと、本当に閉じこめてしまうかもしれないよ」
「……いいですよ。一世さんは、私を大切にしてくれるもの」
 亜沙子は、青銀の髪を優しく指で梳いた。さらさら、指の間から髪が滑り落ちていく。顔を寄せて、頬に触れるだけのキスをした。熱を帯びた瞳で見つめられて、亜沙子はふいと視線を逸らした。
「……私の姫は、いつの間にこんな手練手管を身につけたのかな?」
「何度もいっているじゃありませんか。私は、子供とは違うんです」
 一世は顔を下げると、亜沙子の頭に優しい口づけを落とした。
「……そうだね。かわいい姫に篭絡されてあげようか?」
 瞼の上、まなじり、頬と唇は降りていき、唇に触れるだけのキスが与えられた。怯む亜沙子を、一世は獲物を狙うような眼差しで見下ろした。
「ほら、私にお願いがあるのだろう?」
「あ……」
 しっとりと唇をふさがれて、亜沙子は素直に瞳を閉じた。
「……甘い唇だね」
 蠱惑的にほほ笑む一世を見て、亜沙子の顔は熱くなった。
「瞳を閉じて……」
 耳朶に囁かれて、身体の芯が蕩けそうになる。妖しい色香に酔ってしまいそう。
 襟の内側に手がもぐりこみ、亜沙子は震えた。
 それ以上の侵入を拒むように手を掴むと、一世は小さく笑った。
「ほら、私を篭絡するのではないの?」
 青と金の双眸が細められる。耳朶に息を吹きかけられて、くらり、亜沙子は眩暈を覚えた。
 一世は亜沙子の腰を引き寄せると、背中で蝶々結びにしていた絹の帯を、何の躊躇いもなく、音を立てて解いた。身体の締めつけがなくなり、閉じていた服の中に空気が入り込む
「一世さん!」
 寝椅子に押し倒される。上から覆い被さられ、亜沙子はもがいた。少しもびくともしない。
「……どうした? それでも抵抗しているの?」
「ッ!?」
「そんなにか弱くて、彩国の大王に迫られたら、どうするつもり?」
「そんなこと、あるわけがないじゃないですか!」
「あったら?」
「わ、私は天帝の遣いとしていくのでしょう? そんな、私を襲うなんて、そんな不敬なこと……どうして、意地悪するんですか……っ」
 怖くて、哀しくて、声は潤みかけた。一世は亜沙子を見下ろして、頬を手の甲で撫でた。
「……本当に判らない?」
「え……?」
 亜沙子はおののき、鋼のような腕から逃げようとするが、呆気なく腰を浚われた。容赦なく前襟に指を挿し入れられ、寛げられる。
「あッ」
 一世は、露になった亜沙子の胸、心臓の上に口づけた。触れたところから、燃えてしまいそうだった。
「大きな音だね、亜沙子」
「や、やだ」
 後ろへ逃げようと腰を引かしても、少しも遠ざけられない。肌をまさぐる手を抑えていても、妖しく胸を揉みしだかれ、身体に火を灯されていく。ぎゅっと眼を閉じて、情欲のきざしから逃げようとした。
「……そんなに、彩国の王が心配?」
 静かな口調なのに深い響きがあり、亜沙子はぞくりと背筋をふるわせた。顔を俯けて首を左右に振ると、頬を両手で包まれて、顔を上げさせられた。
「どうなの?」
「……違います。そうじゃありません」
「何が違う?」
 唇に親指で触れられて、亜沙子は再び口を噤んだ。
「答えてごらん」
 口を開くことを躊躇っていると、焦れたように、親指が口内で潜り込んできた。涼しい顔で、亜沙子の顔に視線を注ぎながら、逃げる舌を指でくすぐる。
「やめてほしい?」
「んぅ」
 思いきり顔を背けると、音を立てて指は口から出ていった。その濡れた指を、見せつけるように、ゆっくりと口に含んだ。
「――ッ!?」
 絶句する亜沙子を見つめて、美貌の天狼主は優艶にほほえむ。
 亜沙子はパニックに陥り、身体を捻って後じさると、そのまま駆けだそうとした。
 だが、立ち上がりかけたところで腕を引かれて、一世の胸の中に逆戻りした。
「あっ」
 心臓が痛いほど鳴っている。いろんな感情が綯い交ぜになり、視界が潤んだ。
「亜沙子」
 肩を震わせる亜沙子に気がついて、一世は気遣うように、優しく亜沙子を抱きしめ直した。
「……すまない。やりすぎた」
 亜沙子は、大きく身をよじった。
「離して」
「亜沙子」
「もうやだ、やだ。離して」
 肩に乗せられた手を、力任せにはじいた。
「力で迫られると、私は絶対に敵わない。それがどんなに怖いか、一世さんは判っていない!」
「亜沙子……」
 腕の力が緩んだ。
 さっと立ち上がると、亜沙子は扉の前で足を止めた。せめて毅然とした後ろ姿で出ていきたかったのに、一人では扉が重くて開けることさえできない。
 声をかみ殺して泣く亜沙子の傍に、一世はそっと近づいた。
「……私が悪かった」
 こちらをうかがうように、少し離れたところから一世がいう。さっきまで纏っていた威圧的な空気や、不機嫌さはどこにもなかった。
 でも、亜沙子は頷く気になれなかった。
 感情が昂り、涙がこぼれた。とても落ち着いて話をできる状態ではない。一人になりたかった。
「……開けてください」
「亜沙子……」
「一世さんは、私が一番辛い時に、手を差し伸べてくれた。郷の皆のおかげで、癒されたんです。だから、私にできることがあるなら力になりたい……それだけです……」
 一世は悩ましげに、ため息をついた。
「亜沙子が、それほど彩国を気に懸けるとは思わなかったよ。人の世界が恋しい?」
「違います! 私はここでの暮らしを気に入っています」
「私も亜沙子にここにいてほしいよ。いつまでも」
「私だって……ッ……で、でも、天帝の命令を無視するのは、まずいでしょう? 私のせいで、一世さんたちが責められるのは、嫌なのッ」
 しゃくりあげる亜沙子の肩を、一世は優しく抱き寄せた。
「……泣かないでおくれ」
 優しい腕に包まれて、亜沙子は身を任せた。
「泣いても、彩国へはいかせられない。亜沙子が大切なんだ。どうか判っておくれ」
 一世はゆっくり身体を起こすと、亜沙子の手を引いて立たせた。乱れた着物を直し、優しい手つきで髪を撫でる。
「……部屋にお戻り、亜沙子。少し休むといい」
 眼の前で、扉は閉められた。最後まで、瞳を合わせることはできなかった。
 傍にはいつの間にか灯里がいて、心配そうな顔で、俯く亜沙子の背を優しく腕で支えてくれた。