燈幻郷奇譚

3章:人と天狼の轍 - 5 -

 茂みの向こうに、緋桜邸ひおうていが見えてきた。
 一世の背の上で、亜沙子は密かにため息をついた。道すがら会話はなく、重苦しい雰囲気に包まれている。ついさっきまで、笑いながら川遊びをしていたことが嘘みたいに感じられた。
 玄関灯の明かりが夕暮れの薄闇を照らしている。使用人達は左右に列をなして主を出迎えた。一世の背を下りて、亜沙子がそっと中へ入ろうとすると、
「亜沙子、仕度を終えたら話がある」
 いつになく、固い声で呼び止められた。怒っている。亜沙子は観念すると、視線を足元に落としたまま頷いた。
「……はい」
 このあとに待ち構えている譴責けんせきに怯えながら、身支度を終えて、重い足取りで離れの書院に向かった。
 座椅子で寛ぐ一世は、やってきた亜沙子に厳しい視線を注いだ。
「そこに座りなさい」
「はい」
「亜沙子、勝手に山を下りるな」
「ごめんなさい」
 背筋を伸ばし、亜沙子は正座で頭を下げた。今まで、これほど冷たい瞳で見られたことはない。
 射抜くような視線に耐えられず、瞼を半ば伏せると、一世はため息をついた。
「……亜沙子、おいで」
 声は少し和らいだ。手を差し伸べられ、亜沙子はおずおずと傍へ寄った。手を伸ばすと、指先をきゅっと掴まれる。
「そのように怯えるな」
「……はい」
「だが、判ってほしい。ここへやってくる者は、澄花酒を狙う不届き者ばかり。何をいわれても、簡単に信用してはいけない」
「……」
「天狼が傍にいたとはいえ、武装した集団を前に、無防備に姿を見せるなんて、無謀にもほどがある」
「……はい。申し訳ありませんでした」
「亜沙子は知らぬだろうが、今、彩国の情勢は危うい。同族と油断して近づいてはならぬ」
「情勢って?」
「現王の旭宮あさひのみや暁暉としきは妾腹の生まれで、前王の落胤らくいんながら、悪政をしいた前王を討ち取った経緯いきさつがある。臣民の忠は厚いが、敵も多い」
「確か、内乱の危機だと聞きましたけれど……」
端境期はざかいきでな。前王一派の腐敗が酷く、苦戦しているのだろう」
 そんな大変な時に、澄花酒を飲み損ねたのか。心情をおもんばかり、亜沙子は唇を噛みしめた。
「それにしても、病臥びょうがの王と聞いていたが、澄花酒を求めて自ら蓬莱山にくるとは……あの様子では、またやってくるかもしれん」
 でも、と小さく反駁はんばくを唱えると、一世は強い視線を向けてきた。思わず怯みかけながら、言葉を続ける。
「病気を患っているのなら、澄花酒を求めるのも無理はないんじゃありませんか?」
 一世は眼を細めると、苛立たしげに尾でぱさりと床を叩いた。
「私の話を聞いていた?」
「聞いていましたけど……」
「人間の駄法螺だほらにたやすく耳を貸すな」
 突き放した物いいに、亜沙子は傷ついた。
「嘘だっておっしゃるんですか?」
「これまでに大勢の人間が、あの手この手で、蓬莱山から澄花酒を持ち出そうとしてきた。いちいち真に受けて、憐憫を向けていてはきりがない」
「だけど、嘘か本当かも判らないのに」
「仮に真実だとしても、私の返事は変わらないよ。澄花酒を持ち出すことは許さぬ」
 きっぱりと断言されて、亜沙子はこくりと喉を鳴らした。
「私には、彼が嘘をついているようには見えませんでした。と、澄花酒があれば――」
 冷たい冬の湖水のような眼差しを向けられて、亜沙子は口を閉ざした。
「そもそも、何千何万という同胞をほふった人間を、なぜ助けなければならない?」
「……」
 言葉を失くす亜沙子を見て、一世はため息をついた。
「人間は病気や天災、闘いになると神明の加護を祈るが、そうでない時は尊いものを敬おうとしない。手を差し伸べる気にはなれぬ」
「……私には、こんなにも優しいのに」
 哀切苦悩を顔に浮かべる亜沙子を見て、一世はそっと亜沙子を抱き寄せた。
「天狼の祖は、彩国の人間に狩られた狼だ。幾星霜いくせいそうの月日が流れようと、人と天狼のわだちは変わらない」
 落胆と非難を瞳に宿す亜沙子を見て、一世はかぶりを振った。青と金の双眸は、静かな怒りに燃えている。
「変わろうとも思わぬ。転生を赦されても、涅槃ねはんにいかず、天帝の藩屏はんぺいであり続けることを選んだ。ごう深い人間から、蓬莱山を護る為に」
「……」
「これは彩国と天狼の宿命なんだよ」
 言外に、お前には関係ない、そういわれた気がした。言葉の接ぎ穂が見つからず、亜沙子は顔を俯けた。
 一世は亜沙子の手を引いて、膝の上に横抱きの状態で乗せた。腕の中で身体を強張らせる亜沙子をじっと見つめたかと思えば、悔いるように瞼を伏せた。
「……許せ、厳しいことをいった」
 頭に伸ばされた手に、亜沙子は一瞬怯えてしまった。気まずい思いで視線を逸らす。
「亜沙子、怖がらないでおくれ」
「……一世さんの仰る通り、私は他所者です。さしでがましいことを口にしました」
「他所者ではない。亜沙子は、私の……」
 その先の言葉を躊躇うように、一世は言葉をきった。
「私、ここの皆が好きだし、親切にしていただいて本当に感謝しています……でも……」
「……でも?」
「困っている人がいて、本当に澄花酒で解決できるなら、助けてあげてほしいとも思う……同族のよしみなのかもしれないけど……」
「無論、善行は尊い。だが澄花酒は尽きぬ湯水ではない。限りがあり、ましてや彩国の人間に与えることはできぬ」
「……ほんの少しも、駄目なんですか?」
「駄目だ。人間の欲はてがない」
「話せば、判ってくれるかもしれませんよ?」
「通じるものか。亜沙子は人間を判っていない」
「私だって人間です」
「違う。亜沙子は夜那川が運んできた、私の大切な姫だ!」
 双眸に怒りの炎が灯るのを見て、亜沙子は肩に手を置いて距離をとろうとした。
「逃げるな」
 強く抱きすくめられ、亜沙子は顔を背けた。息遣いが判るほど、端正な顔が傍に近づく。
 長い指が亜沙子の頬を撫でて、髪を耳の後ろにかけた。露になった耳の輪郭に指で触れる。
「ッ」
 緊張を強いられ、亜沙子はきつく瞳を閉じた。
「彩国に澄花酒は渡さぬ」
 耳元で囁かれて、亜沙子は瞳を開けた。そっと顔を上げると、冴えた青と金の瞳と、視線がぶつかった。
 何もいえずにいると、ゆっくりと唇が重なった。拒めなかった。優しい、触れるだけの口づけ。短くも長くもなく、しっとりと唇を塞がれて、離れる時は軽く上唇を吸われた。
「ん……」
 思わず鼻にかかった声が漏れる、頬を染める亜沙子を見つめて、一世は美しい双眸を細めた。
「私のかわいい姫。もう麓に近づいてはいけないよ……いいね?」
 有無をいわせぬ口調には、甘さも含まれている。一世の腕の中で、亜沙子は小さく頷いた。