燈幻郷奇譚
3章:人と天狼の轍 - 4 -
「一世さん……」
亜沙子は深く安堵したが、男達は恐れをなしたように距離を取った。
「まほろばに住まう、偉大なる天狼主 。この地に参り、お会いできたことを光栄に思います」
凛と通る声で口上を述べ、暁暉は恭しく頭 を垂れた。一世は冷たく睥睨すると、神の声を発した。
「ここは人間がきていい場所ではない。即刻立ち去れ」
「無礼は承知しております。どうか、どうか、お聞きください」
「人の王よ。人間は蓬莱山への立ち入りを禁じられているはずだ。なぜ約束を破った?」
「お怒りはごもっともでございます。しかし、私にはどうしても天狼主にお会いせねばならぬ理由がございます」
天狼達は一斉に牙を剥いたが、一世は重低音の唸り声を発して鎮めた。
「……一世さん、彼等が澄花酒を欲しがるのは事情があるんです」
亜沙子が小声で囁くと、一世はちらと視線をよこしてから、彩国の王に冷たい一瞥を投げた。
「約束を破ったのはお前達だ。結界を破った人間に、澄花酒を渡すつもりはない。諦めて帰るがいい」
「お待ちください!」
「何をいっても無駄だ。即刻、帰れ」
「どうか……!」
深く頭を下げる大王を見て、一世は冷たい笑みを口元に刻んだ。
「浅ましいものだな。そうまでして、生き長らえたいか?」
「死を恐れているのではありません。彩国の未来を護る為ですッ」
「未来?」
「今私が臥せば、覇を競って内乱は激化します。そうなれば、他国に攻め入る隙を与えてしまう。国が滅びかねないのですッ」
「国の滅亡か。我等天狼の祖は、彩国の人間の手にかかり、数万という命の灯を落としたのだがな」
痛烈な嫌味を口にする一世を見て、大王は苦しげな表情を浮かべた。
「この世の全ては因果応報。彩国の窮状は、自分達が手繰り寄せたもの――私の知ったことではない」
「ですが!!」
「二度とくるな。蓬莱山は天狼の住処 、野裾より下は人の住処。境界を違えるな。彩国へ帰って、他の人間にも伝えるがいい」
王は、眉間に皺を寄せて沈黙すると、激情を鎮めるように瞑目した。
紺青の空に、樺色の夕焼けが燃えている。
去りゆく兵士の後ろ姿を、亜沙子は複雑な心境で見送っていた。隣で一世は厳しい視線を投げている。
「――なぜ逃がした」
音もなく、薄闇から黒狼が現れた。烈迦である。怜悧な銀眼で一世を睨めつける。
「不要な争いは避けた方がいい」
「人間は、ずる賢くて冷酷な生き物だ。澄花酒を狙ってまたやってくるぞ」
烈迦の言葉に、一世も殺気立った。
「無益な殺しはしないが、牙を剥くのなら容赦はしない」
フンッ、と烈迦は鼻で笑った。
「天狼主も甘くなったものだ。そこの娘のせいか?」
鋭い視線が突き刺さり、亜沙子は肩をすくめた。一世は重低音の唸り声を漏らすと、烈迦を睨みつけた。
「亜沙子は関係ない。お前こそ、短気をどうにかしろ」
「何?」
「あれは前王を討ち取った評判の傑物だ。手を出せば臣民の怒りを買う。いらぬ戦禍 を招くことになる」
「フンッ、上等よ、返り討ちにしてくれる」
「連中は、蓬莱山に踏み入るほど追い詰められている。手負いの獣を侮ると、痛い目に合うぞ」
「何をいっている? 昔のお前なら、一人残らず殺していたはずだ。さァ、号令を発しろ」
「ならんッ!」
二頭の天狼は唸り声を発し、勁烈 な眼差しが火花を散らす。成りゆき見守る同胞達は、怯えたように耳を伏せた。
「――おやめなさい。同胞で争ってどうしますか」
白靄と共に現れた白銀の天狼、紫蓮が仲裁に入ると、黒狼は興をそがれたように背を向けた。
「烈迦。人間に手を出すな」
一世が背中に声をかけると、烈迦は僅かに顔を横向けた。視線は合わせずに、口を開く。
「群れの長に背く気はない。向こうから仕掛けてくるなら、話は別だがな……」
烈迦は不機嫌そうに尾を揺らしながら、姿を晦ました。
場の空気が緩み、亜沙子が肩から力を抜くと、傍に凛夜がやってきて、大きな顔で頬ずりをしてきた。
「姫様は無茶が過ぎる」
「ごめんね。でしゃばっちゃって……」
「姫様は優しすぎるんじゃ。俺は心配が尽きない」
苛立たしげに尾を振り、大きな頭で亜沙子を小突く。他の天狼も集まってきて、亜沙子の手や顔を舐めたり、身体を擦りつけたりと、やたらと匂いを移したがった。
「わ、ごめんなさい。怒らないで」
もみくちゃにされても、いつも優しい一世は助けてくれようとしない。亜沙子を見下ろす神秘的な双眸には、幽 かな苛立ちがうかがえた。哀しみが胸を過ったが、天狼を宥める方に意識が向かう。
「わ、わ!」
両足を踏ん張っていても、よろめいてしまう。紫蓮が止めてくれるまで、亜沙子は天狼達に構い倒された。
亜沙子は深く安堵したが、男達は恐れをなしたように距離を取った。
「まほろばに住まう、偉大なる
凛と通る声で口上を述べ、暁暉は恭しく
「ここは人間がきていい場所ではない。即刻立ち去れ」
「無礼は承知しております。どうか、どうか、お聞きください」
「人の王よ。人間は蓬莱山への立ち入りを禁じられているはずだ。なぜ約束を破った?」
「お怒りはごもっともでございます。しかし、私にはどうしても天狼主にお会いせねばならぬ理由がございます」
天狼達は一斉に牙を剥いたが、一世は重低音の唸り声を発して鎮めた。
「……一世さん、彼等が澄花酒を欲しがるのは事情があるんです」
亜沙子が小声で囁くと、一世はちらと視線をよこしてから、彩国の王に冷たい一瞥を投げた。
「約束を破ったのはお前達だ。結界を破った人間に、澄花酒を渡すつもりはない。諦めて帰るがいい」
「お待ちください!」
「何をいっても無駄だ。即刻、帰れ」
「どうか……!」
深く頭を下げる大王を見て、一世は冷たい笑みを口元に刻んだ。
「浅ましいものだな。そうまでして、生き長らえたいか?」
「死を恐れているのではありません。彩国の未来を護る為ですッ」
「未来?」
「今私が臥せば、覇を競って内乱は激化します。そうなれば、他国に攻め入る隙を与えてしまう。国が滅びかねないのですッ」
「国の滅亡か。我等天狼の祖は、彩国の人間の手にかかり、数万という命の灯を落としたのだがな」
痛烈な嫌味を口にする一世を見て、大王は苦しげな表情を浮かべた。
「この世の全ては因果応報。彩国の窮状は、自分達が手繰り寄せたもの――私の知ったことではない」
「ですが!!」
「二度とくるな。蓬莱山は天狼の
王は、眉間に皺を寄せて沈黙すると、激情を鎮めるように瞑目した。
紺青の空に、樺色の夕焼けが燃えている。
去りゆく兵士の後ろ姿を、亜沙子は複雑な心境で見送っていた。隣で一世は厳しい視線を投げている。
「――なぜ逃がした」
音もなく、薄闇から黒狼が現れた。烈迦である。怜悧な銀眼で一世を睨めつける。
「不要な争いは避けた方がいい」
「人間は、ずる賢くて冷酷な生き物だ。澄花酒を狙ってまたやってくるぞ」
烈迦の言葉に、一世も殺気立った。
「無益な殺しはしないが、牙を剥くのなら容赦はしない」
フンッ、と烈迦は鼻で笑った。
「天狼主も甘くなったものだ。そこの娘のせいか?」
鋭い視線が突き刺さり、亜沙子は肩をすくめた。一世は重低音の唸り声を漏らすと、烈迦を睨みつけた。
「亜沙子は関係ない。お前こそ、短気をどうにかしろ」
「何?」
「あれは前王を討ち取った評判の傑物だ。手を出せば臣民の怒りを買う。いらぬ
「フンッ、上等よ、返り討ちにしてくれる」
「連中は、蓬莱山に踏み入るほど追い詰められている。手負いの獣を侮ると、痛い目に合うぞ」
「何をいっている? 昔のお前なら、一人残らず殺していたはずだ。さァ、号令を発しろ」
「ならんッ!」
二頭の天狼は唸り声を発し、
「――おやめなさい。同胞で争ってどうしますか」
白靄と共に現れた白銀の天狼、紫蓮が仲裁に入ると、黒狼は興をそがれたように背を向けた。
「烈迦。人間に手を出すな」
一世が背中に声をかけると、烈迦は僅かに顔を横向けた。視線は合わせずに、口を開く。
「群れの長に背く気はない。向こうから仕掛けてくるなら、話は別だがな……」
烈迦は不機嫌そうに尾を揺らしながら、姿を晦ました。
場の空気が緩み、亜沙子が肩から力を抜くと、傍に凛夜がやってきて、大きな顔で頬ずりをしてきた。
「姫様は無茶が過ぎる」
「ごめんね。でしゃばっちゃって……」
「姫様は優しすぎるんじゃ。俺は心配が尽きない」
苛立たしげに尾を振り、大きな頭で亜沙子を小突く。他の天狼も集まってきて、亜沙子の手や顔を舐めたり、身体を擦りつけたりと、やたらと匂いを移したがった。
「わ、ごめんなさい。怒らないで」
もみくちゃにされても、いつも優しい一世は助けてくれようとしない。亜沙子を見下ろす神秘的な双眸には、
「わ、わ!」
両足を踏ん張っていても、よろめいてしまう。紫蓮が止めてくれるまで、亜沙子は天狼達に構い倒された。