燈幻郷奇譚

3章:人と天狼の轍 - 3 -

「やめて!!」
 亜沙子は両腕を広げて、背中に天狼を庇った。
「姫様!?」
「撃たないでください! この子達は、人を傷つけたりしませんから」
 衣を手にした男は、手を挙げて、家来達に銃口を下ろさせた。
「……天狼を従える天女か」
「え?」
「天狼は決して人に懐かぬ孤高の神獣と聞いております。そのように身体に触れることを許していることが何よりの証拠。蓬莱山の天女とお見受けする」
 戸惑う亜沙子を仰いで、男はその場に膝をついた。
「私は彩国の王、暁暉としきと申します。どうかお見知りおきを」
 絶句する亜沙子を仰ぎ、男は恭しく衣を両手で掲げた。
「天帝のおわしまする神聖なお山をけがしたことを、謹んでお詫び申し上げます」
 衣を受け取りながら、亜沙子は狼狽えた。
「私は天女では……あの、貴方は、何のご用でお山にきたのですか?」
こいねがわくは、幻の霊薬、澄花酒の御加護を給わらんことを」
「ふざけるなッ!!」
 被せるようにして吠えたのは凛夜だ。歯を剥き出し、毛を逆撫で、今にも飛びかかりそうな勢いだ。
 少年の姿に変わった和葉は、両腕で亜沙子の身体をきつく抱きしめた。
 空気は一瞬にして緊張を孕み、辺りは一触即発の雰囲気に包まれた。兵士達は再び遠射の銃を構えている。
「駄目ッ!」
 和葉の腕の中で、亜沙子は叫んだ。
 暁暉は、亜沙子を見つめたまま、片手を上げて兵士達に武器を下ろさせた。
「争うつもりはありません。どうか、話しを聞いていただけないでしょうか?」
「必要ない!」
 凛夜は吐き捨てたが、亜沙子は迷った。
 元はといえば、彩国の王に贈られるはずだった澄花酒が、ひょんなことから、亜沙子が飲んでいたビールに紛れてしまったことが元凶なのだ。
 あれから一年。
 本来なら、亜沙子が詫びにいくべきところを、彼の方から赴いてくれたのだ。謝罪する良い機会ではないだろうか?
 だが、一世がどのように話をつけているか判らないのに、下手に非を認めて謝るわけにもいかない。
「……和葉、ちょっと離して」
 少なくとも、話を聞く分には問題ないはずだ。
「でも」
「大丈夫だから、ね?」
 和葉は迷ったような表情を見せたが、亜沙子が手を握りしめると、仕方なさそうに腕の力を緩めた。身動きが自由になり、兵達を見据えている凛夜の傍に寄ると、優しく首を撫でた。
「お願い、凛夜。ちょっといい子にしていて」
「姫様」
「すぐ済むから、少しだけ話をさせて」
「……」
 凛夜は亜沙子と男を見比べて、渋々といった風に、亜沙子の願いを聴きれた。場所を譲ってくれた凛夜に礼をいってから、亜沙子は男に向き直った。
「……貴方は、なぜ澄花酒が欲しいのですか?
 天狼たちを撫でながら、亜沙子は男の目を見つめて訊ねた。兵士たちは天狼だけでなく、亜沙子のことも畏怖の眼差しで見つめている。
「この身を蝕む、病を治したいのです」
「……重いご病気なんですか?」
「心臓を患っております。国中の医師が力を尽くしましたが、どうにもなりませぬ」
「澄花酒なら、治せるのですか?」
「巫女はそう申しております。信託を授かり、藁にも縋る想いで、幻燈郷へやって参りました」
 それが本当なら、確かに澄花酒が欲しいはずだ。
 救いを求めるような眼差しを向けられ、亜沙子は返事に詰まった。男は、困惑する亜沙子の両手を握りしめると、懇願するように己の額に押し当てた。
「姫様に触れるなッ」
 凛夜が吠えた。天狼たちは威嚇するように牙を剥き、姿勢を低くした。亜沙子は両腕を広げて、再び天狼の前に立たねばならなかった。
「大丈夫だから、落ち着いて、ね?」
「駄目じゃ、姫様。人間に澄花酒を渡せば、もっとよこせというに決まっとる」
 凛夜は唸り声を発した。
「蓬莱山の御遣いに、危害を加えるつもりはありません。お約束いたします」
「姫様!」
 天狼達は、怒気を孕んだ瞳で亜沙子に訴えてくる。
 双方の板挟みになり、亜沙子は困った。逡巡すると、背後の男を振り返った。
「この場ではお答えできかねます。ですが、今聞いた話を、必ず天狼主あめのおおかみぬしにお伝えすることを、お約束いたします」
「天女よ、お教えいただきたい。澄花酒は、この秘境に真にあるのでしょうか?」
「申し訳ありませんが、私には判りかねます。今日のところは、どうかお引取ください」
 亜沙子が深々と頭を下げると、男は困ったような顔をした。
「おやめください! どうかお顔をあげてください」
「お願いです、もしお山で天狼を見かけても、絶対に撃たないでください」
「お約束いたします。鳥獣から身を護る為に武装して参りましたが、天狼を傷つけるつもりは微塵もございません」
 男の言葉に亜沙子が気を緩めた瞬間、天が割れるような雷鳴が轟いた。
 ゴロゴロ……不気味な重低音に、亜沙子は小さな悲鳴を上げたが、耳をろうする雷鳴にかき消された。
 山のいただきから、暗雲が降りてくる。
 全身の肌が総毛立つほど、空気は研ぎ澄まされ、辺りに神聖な霊気が満ちた。この気配の持ち主は、一人しか心当たりがいない。
「――亜沙子」
 白い夜霧の合間から、空を翔ける天狼主が姿をあらわした。艶やかな蒼銀色の毛並み、大きな双翼。なんて神々しい姿だろうか。
 呆然と立ち尽くす亜沙子を見つけると、羽ばたきを抑え、なめらかに着地した。