燈幻郷奇譚

3章:人と天狼の轍 - 8 -

 天狼は美しい。
 烈迦を見て、改めてそう思った。
 琥珀の瞳は、闇夜でも爛と光り、千里を見透すように彼方を見据えている。風になびく艶やかな黒髪。背に広がる黒い双翼は、蒼白あおじろの月光を浴びてきらきらと煌いている。
 亜沙子は、烈迦の逞しい腕に横抱きにされて、闇夜を飛んでいた。彼の住処へ運ばれている途中である。
 遠くで、梟が啼いている。
 梢の揺れる音、夜那川のせせらぎ。夜に息づく鳥獣の声……腹はくくったつもりだが、幻燈郷から離れていくほどに、なんともいえぬ哀愁が胸にこみ上げた。
 もう、一世に会えないかもしれない……
 静かに涙する亜沙子を見て、烈迦は複雑そうな表情を浮かべた。
「……着いたぞ」
 涙を拭うと、亜沙子は顔を上げた。
 前方に、黒い塊が見える。否、夜闇に聳え立つ断崖絶壁だ。黒一色で塗りこめたような絶壁は、点々と篝火かがりびが焚かれており、そこだけ明るく輝いて見えた。
 壁に開いた小さな穴は、近づくにつれて大きくなっていく。
 どうやら、岩場の洞窟が彼の住処のようだ。
 烈迦は亜沙子を抱えたまま、吸いこまれるように洞窟の中へ入った。
 岩場に足がつくと、腕の中の亜沙子を丁寧に下ろす。身体の強張りが解けず、よろめく亜沙子の身体を烈迦は何もいわずに支えた。
「すみません」
「……いや。案内しよう」
 驚くことに、洞窟の中は、外観の威容に反して非常に洗練されていた。
 丸みを帯びた天井には、色彩豊かな絵が描かれており、円環の照明が鎖で吊るされている。てっきり薄暗いのだろうと思っていたが、金色の柔らかな光に照らされて、とても明るい。
 壁に連子窓もあり、外の様子を覗ける造りになっている。瀟洒しょうしゃ屏風びょうぶに青磁の壺、品の良い調度が置かれて、香まで焚かれている。
「すごい……」
 思わず感嘆の声を漏らす亜沙子を見て、烈迦は気をよくしたように尾を揺らした。
「そこに座れ」
 広い居間に入り、烈迦は絨緞を指した。亜沙子が腰を下ろすと、烈迦もあぐらをかいて座った。頬杖をついて、じっと亜沙子を見つめる。
「……あの、黙って出てきてしまったけど、一世さんが心配しているかもしれません。ここにいることを、伝えていただけませんか?」
 烈迦は呆れたような目で亜沙子を見た。
「そんなことをしたら、すぐに連れ戻しにくるぞ。あとで笹良には伝えてやる。彩国へいくのだろう?」
「そうですけど……烈迦さんは、一世さんが怖くないんですか?」
「亜沙子を連れ出したと知れば、あいつは怒るだろうが、怖くはない。最近、力比べをしていなかったから、ちょうどいいな」
 烈迦は鷹揚おうように笑うと、隅に立てかけてあった月胡を手にとり、気落ちしている亜沙子に手渡した。
「何か弾いてくれ」
「……あんまり上手に弾けないのですけれど、それでもよければ」
 恐縮する亜沙子を見て、烈迦はほほえんだ。
「謙虚だな。いい音だったぞ。この俺が、思わず音を探してしまうほどに」
「……ありがとうございます」
 勇気づけられた亜沙子は、心胆を整えると、そっと弦をつま弾いた。毎日のように弾いている曲だが、人に聴かせると思うと緊張する。
 夜の静寂しじまに、月胡が響き渡る。
 弦を押さえているうちに、緊張は自然と解けていった。音を愉しみながら弾けば、烈迦も心地よさそうに瞳を閉じた。
 最後の音を紡ぎ、亜沙子が余韻に浸っていると、ぱん、と手が鳴った。
「いい腕をしている。音が跳ねているようで、聞いていると気持ちが明るくなる」
 まじりけのない賞賛の言葉に、亜沙子は照れて視線を伏せた。
「ありがとうございます」
 俯けた視界に手が映ったと思ったら、肩に流れる髪を一房、柔らかく摘まれた。
「夜那川から流れてきたと聞いたが、本当か?」
「……はい、本当です。川というか、白い霧に浚われたような感じでしたけど」
 髪を梳く指に気を取られながら、亜沙子は答えた。
稀有けうなことだ。天狼の郷はどうだ?」
「はい、とても良くしていただいています。空気も食事も美味しいし、天狼はかわいいし、最高ですよ」
「そうか」
 烈迦はさして興味もなさそうに頷いた。
「あの……烈迦さんは、どうして郷で暮らさないのですか?」
「群れるのは苦手でな。独りの方が気楽なんだ」
「寂しくありませんか?」
「いや。独りといっても、同胞の住む蓬莱山にはいるしな」
「そうですか……郷は毎日、賑やかですよ」
「知っている。お前は、一世を好いてるのか?」
 返事に詰まる亜沙子を、烈迦は目を細めて見つめた。
「やめておけ。ここにいても傷つくだけだぞ。同族同士、人間の集落で暮らした方がいい」
「……」
「あいつは、歴代の天狼主あめのおおかみぬしの中でも格別だ。傍に侍りたがる天狼も天女も大勢いる。今は寵姫でいられても、すぐに飽きられるぞ」
 亜沙子は茫然となった。眼の前にいる烈迦が陽炎かげろうのように揺らめいて、慌てて目をしばたく。
「一世が笹良にたてついたことは、他の神の知るところでな。少々、顰蹙ひんしゅくを買っている」
「え?」
 我に返って亜沙子が訊き返すと、烈迦は憂鬱そうな顔で腕を組んだ。
「どうやら、お前を彩国へ預けて、郷心がつくことをおそれているらしい」
「私はそんなこと――」
 やれやれ、と烈迦はため息をついた。
「一世は、どうしてそこまでお前に惹かれたのだろうな。確かに、月胡の音色は美しいが」
 唐突に腕を引かれて、亜沙子は烈迦の腕の中に転がりこんだ。
「あ、あのっ?」
 身体を離そうと試みるが、烈迦は離そうとしない。
「……小さいな。こんな手足で、まともに走れるのか?」
 烈迦は亜沙子の手をまじまじと見つめて、感心したように呟いた。
 居心地は悪いが、いやらしさは全くない。子供を見るような眼差しだからだろう……そう思っていたが、こめかみに唇を押し当てられて、背筋がふるえた。
「ひぃっ」
「色気のない声だな」
「ちょっと」
「暴れるな」
「え、ちょっと」
「前から不思議に思っていた。一世は、どうしてお前のようないとけない娘に溺れたのか」
 胸のふくらみを手の甲で擦られて、亜沙子は声にならない悲鳴を上げた。腕を振って暴れても、いともあっさり封じられる。襟の内側に指が入り、前をくつろげられた。鎖骨まで肌が露になると、亜沙子はいよいよ涙目になった。
「すみません、やめてください。本当に!」
 烈迦は亜沙子を見下ろすと、端正な顔を下げて、涙の滲んだ眼淵まぶちを舌で舐めた。
「ッ!」
「……泣いていると、そそられないこともない。濡れた瞳に、心を動かされたのかな」
「ぅ……離して」
 烈迦は首を傾げると、亜沙子の首すじに顔を埋めた。柔らかく肌を吸われて、亜沙子は悲鳴をあげた。
「ッ!? 嘘、やだっ!」
 涙声で訴えるても、烈迦は止まらない。膝で足の合間を割られた。身の危険に恐怖していると、突然、窓の外が昼間のように発光した。
 鉤裂かぎざき状の稲妻が空に走り、耳をろうする雷鳴が辺りに響いた。
 地響きのような雷鳴に、亜沙子は思わず両耳を塞いだ。烈迦も身体を起こすと、窓の外に鋭い視線を投げた。
「……驚いたな。本当に人間の娘を取り返しにくるとは」
 亜沙子は着崩れた服を手で押さえ、ずりずりと尻で後じさった。烈迦は亜沙子に目もくれず、注意深く耳をそばだてている。
 天から、ぽつと雫が垂れた。
 雨の連なりはたちまち牙を剥き、礫のような雨粒に変わった。
 烈しく窓硝子が揺れて、亜沙子は小さな悲鳴を上げた。窓の外は土砂降りの豪雨だ。
「……お前も災難だな」
「え?」
「空が荒れている。天狼主の寵姫である限り、この先も、天帝や彩国の人間に目をつけられるぞ」
 戸惑う亜沙子を振り返り、烈迦は少し気の毒そうな顔をした。
「いとけない姫よ。夜那川に流されるとは、ついていなかったな」
「そんなことありません」
 亜沙子はきっぱりと即答したが、烈迦は、変わらずに憐憫の眼差しを向けてくる。
永久とこしえの暮らしも、そのうち飽きがくる。惚れた腫れたも、百年繰り返せば醒めるぞ。その時にはもう、人間世界に馴染めないだろう」
「……郷の暮らしに、飽きることなんてありません」
「悪いことはいわない。山を下りて、人間の郷で暮らせ」
「……」
「一世が何といおうと、天帝の命に背くのは得策じゃない。あいつを想うのなら、何もいわずに彩国へいってくれないか?」
「……始めから、そのつもりです」
 烈迦は意外そうな顔をした。真意を探るように、じっと見つめてくる。
「私のせいで一世さんが困ったことになるのは、不本意です」
「戻ってこれないかもしれないぞ」
「笹良さんは、三日でいいとおっしゃっていました」
「どうだかな」
「……その時は、どうにかして郷に帰ります。どっちにしたって、明日には迎えがくるんですから、いくしかないじゃないですか」
 少し苛立ちながら亜沙子がいうと、そうだな、と烈迦は失言を詫びた。
「俺にいえた台詞ではないな」
「いえ、こちらこそ……迷惑をかけてばかりですみません」
 土砂降りの雨音だけが聴こえる部屋で、束の間、見つめ合った。
「――出てこい! 烈迦ッ!」
 感傷を帯びた沈黙は、怒りの咆哮に破られた。
 烈迦は窓の外に目を向けると、好戦的な笑みを浮かべた。戸口に向かって走ると、外へ飛び出すと同時に天狼の姿になった。
 オォッ! 裂帛れっぱくの気合いで、一世に飛びかかってゆく。
 亜沙子は戸口に座り込み、祈るように空に仰いだ。
 暗闇に、蒼い閃光が走る。
 天狼の衝突は凄まじかった。
 目がおいつかず、その俊敏な動きは、彗星が尾を引いているように見える。
 激闘は、しばらく続いた。
 風も空も山も、神罰が下ったかのように荒れていたが、やがて雨は上がった。
 ものすごい速さで雲は流れていき、重たく圧し掛かかっていた雨雲は、四方へ霧散した。
 雲の切れ目から、満点の星空が覗く。
 洞窟に戻ってくる二頭の天狼を見て、亜沙子は安堵に胸を撫でおろした。
 どんな大惨事になるかと畏れていたが、烈迦も一世も無事だ。ただ、烈迦の方は肩を負傷しているようだ。
 一世は人の姿に変わると、戸口にへたり込む亜沙子の傍に膝をついた。
「亜沙子」
 亜沙子は緊張のあまり、小刻みに震えていた。青い冷気を和らげると、一世は悩ましげなため息をついた。
「……そう怯えるな」
 雨に濡れた冷たい手で、一世は亜沙子の頬を撫でた。その手に、亜沙子が自分の手を重ねると、表情を和らげた。
「きゃっ」
 目を閉じていたら、急に抱き上げられ、亜沙子は慌てて首に腕を回した。
 一世は、壁にもたれかかる烈迦に目もくれず、亜沙子の額、瞼、頬……順に唇を落とす。亜沙子の方は、烈迦の視線が気になって仕方がなかった。
「い、一世さん! 烈迦さんも、怪我はありませんか?」
 亜沙子を抱いたまま、一世は冷たい視線を烈迦に投げかけた。
「暴れたいなら、いつでも相手になってやる。だが、私の元から亜沙子を奪うことだけは許さぬ――次はないぞ」
 声の調子を落とすと、一世はきつく烈迦を睨んだ。烈迦は血の滲む肩を押さえているが、強い視線で応じた。
「一世、本当に天帝に背く気か? 大人しく、姫を彩国へ渡せ」
「ならぬ」
「全く、人間嫌いはどうした? いいから、彩国にいかせてやれ。同族同士で番わせてやるべきだ」
「ふざけるなッ」
 びりびりと空気が震えた。
 亜沙子は、放たれた言葉に頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。郷の全員に受け入れられるとは思っていない。判っていた。それでも、一世の前でそんなことをいってほしくなかった。
「全くお前らしくない。天帝に背くな。たかが三日くらい我慢しろ……離れている間に、内面をかんがみたらどうだ?」
「……何だと?」
 凍てつく針のような視線に臆すことなく、烈迦はひょいと肩をすくめてみせた。
「よく考えろ」
「考えるまでもない。亜沙子は渡さない。何があっても」
 きっぱりと告げると、一世は亜沙子を抱いたまま、踵を返して洞窟を出ていこうとした。
「亜沙子」
 烈迦に声をかけられて、亜沙子はびくりと肩を震わせた。
「いい音色だった。達者に暮らせ」
 烈迦は優しい微笑を浮かべた。亜沙子は言葉が出てこなかった。束の間、一世の肩越しに見つめ合う。
「……帰るよ」
 静寂を小さく破り、一世は今度こそ洞窟の外に出た。