燈幻郷奇譚

3章:人と天狼の轍 - 9 -

 邸に戻ると、一世は人の姿に戻り、引きずるようにして亜沙子の手を引いた。
「一世、その恰好で邸をうろつかないでください。二人とも薄汚れていますよ。湯を浴びてくるとよろしい」
 紫蓮が窘めると、一世は不機嫌そうに眉をしかめたものの、傍に灯里を呼んで、亜沙子の湯浴みを指示した。
「亜沙子、あとで部屋にきなさい」
 平坦な口調だが、有無をいわせぬ響きがあり、亜沙子はこくりと喉を鳴らした。
「……はい」
 返事を聞くなり、一世は背を向けて邸に入った。
「さ、姫様。こちらへ」
 灯里に優しく背を押されて、亜沙子は頭を下げた。
「ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」
「ご無事でようございました。さ、湯浴みをして、綺麗にしましょう?」
「……はい」
 亜沙子は悄然しょうぜんと答えた。
 いつもより時間をかけて風呂に入ると、襦袢に着替えて丈の長い羽織をかけた。
 心胆しんたんを整えて部屋を出たものの、足取りは重い。一世の顔を見るのが怖かった。
 ついつい立ち止まり、廊下の連子窓から庭を眺めていると、対面から紫蓮がやってきた。
「こんなところで、どうしたんですか?」
「……」
「一世が呼んでいますよ」
「……判っています」
「泣きそうな顔をしていますね」
「……」
「そんな顔をするくらいなら、素直に郷に残るといいえばいいものを」
 唇を噛みしめる亜沙子を見て、呆れたように紫蓮はいった。
「もう判ったでしょう? 彩国へいくと強情を張っても、一世を怒らせるだけですよ。やめておきなさい」
「いいえ、もう決めたんです」
「全く、気が弱いのか強いのか、よく判らない子ですね。子供が我慢をするものではありませんよ」
「子供じゃありません」
「そういううちは、子供なのです」
 紫蓮は、薄紫の瞳でじっと亜沙子を見つめると、懐に手を入れて、厚みのある袱紗ふくさを取り出した。
「どうしてもいくのなら、これを持っておいきなさい。好きに使っていいから」
「これ……」
 中に詰まった紙幣を見て困惑する亜沙子に、今度は小さな香り袋を握らせた。
「さしあげます」
 桜の優しい香りが漂い、亜沙子は表情を綻ばせた。
「いい匂い」
「彩国にいっても、寂しくないように。郷に戻るまでのお守りです」
 袱紗と、片手におさまる香り袋を、亜沙子は両手で胸に抱き寄せた。郷に戻ってくることを、当たり前のように示唆されて嬉しかった。烈迦の言葉に傷ついていたので、尚更である。
「ありがとう、紫蓮さん。大切にします」
「一世と、よく話し合うように。明日の昼には、笹良がきますからね」
「……一世さんに、呆れられてしまったかな?」
 視線で先を促す紫蓮を見て、亜沙子はいい辛そうに口を開いた。
「勝手に抜け出して、烈迦さんも巻きこんで、迷惑かけて……結局、ここへ戻ってきたりして……私、何をしているんだろう」
「烈迦に何をいわれたのか知りませんが、傷つく必要はありませんよ」
「でも……私は人間です。皆、口にはしないけれど、私が郷にいることで、嫌な思いをしているのではないでしょうか?」
 紫蓮は呆れたように亜沙子を見た。ため息をつくと、琺瑯ほうろうのように白い手を伸ばし、亜沙子の頭を優しく撫でた。
「人間は嫌いですが、亜沙子は別です」
 きっぱりとした答えに、亜沙子は淡くほほえんだ。
「ありがとうございます。私も紫蓮さんのことが大好きです」
「誰も好きとはいっていませんよ」
 相変わらず、物言いはツンツンしているが、優しい天狼だ。亜沙子がほほえんでいると、紫蓮は眼を眇めた。
「私、さとに戻ってきてもいいですか?」
「当たり前でしょう。第一、自分がどれだけ脆弱か判っていますか? 貴方はそそっかしいのだから、私達が傍にいないと不要な怪我を負いますよ」
「酷い、紫蓮さん」
 亜沙子は非難がましくよろめいて見せたが、紫蓮には通用しなかった。
「一世の前では、間違っても戻らない、なんていってはいけませんよ」
「判っています」
「迷惑をかけるから、という言葉も禁止です。どうせ一世から逃げられやしないのだから、観念して傍にいなさい」
「……一緒にいても、いいのかな?」
「当たり前でしょう。堂々としていなさい」
「……」
「一世は貴方をとても大切に思っていますよ。それくらい、判るでしょう?」
「……でも」
「いっておきますが、亜沙子といると、一世の顔は緩みっぱなしですよ。抑えても抑えても、自然に零れてしまうような笑みを浮かべているのですから」
 不覚にも視界が潤み、亜沙子は慌ててうつむいた。紫蓮は腰を屈めて、亜沙子の顔を覗き込んだ。
「どうして泣くのです?」
「なんでもありません」
 顔を上向けて眼を瞑った。手の甲を瞼に押し当てて、涙が引くのをじっと待っていると、紫蓮は亜沙子の肩を抱き寄せた。
「私が泣かせたみたいではありませんか。泣きやみなさい」
 大きな掌に頭を撫でられて、亜沙子の胸はいっぱいになった。衝動的に背に腕を回して抱き着くと、紫蓮は亜沙子の背中をあやすように叩いた。
「――何をしている?」
 低めた声にぞくっとした。声のした方を向くと、鋭い瞳をした一世がいた。