燈幻郷奇譚
4章:天狼と見る夢 - 10 -
霧雨の降る、蓬莱山。
亜沙子は日課の月胡を手にしたものの、欄干 で弾く気になれず、部屋に籠っていた。
あの晩、宴で笹良と一世の共演を聴いてから、人前で、とりわけ一世に聞かせるのが恥ずかしくなってしまったのだ。
「誰かと比べても、しょうがないのだけれど……」
亜沙子は憂鬱なため息を零した。
気分は晴れず、音にまるで魅力を感じられない。
ふと、どこからか、雨の音にまじって月胡の調べが聴こえてきた。
亜沙子の好きな曲だ。
雨滴を地面が吸うように、その音色は、不思議なほど亜沙子の心に染み透 った。
聴き入っていると、ぱたりと旋律が止んだ。少し間を置いて、簡単な和音が聴こえてきた。
「あ……」
これは音遊びだ。お互いの音を真似する遊び。音に誘われて、亜沙子も和音を鳴らした。
また別の音の並び。同じように真似をして、今度は亜沙子が音を鳴らした。一世も同じように音を真似る。
「ふふ」
繰り返すうちに、自然と笑みがこぼれた。言葉はなくても、音が教えてくれる。
もっと遊ぼう。楽しもうよ、と。
音楽を分かち合うのに、言葉なんていらないんだってことを、改めて実感した。
音遊びを繰り返し、やがて美しい旋律を共に奏で始めた。先日の笹良と一世のように。
いや、もう人と比べるのはやめよう……今こうして、共に弾くことが楽しいのだから。
清々しい気持ちで、亜沙子は月胡を弾いた。
一曲を弾き終えると、音が止んだ。もう少し遊びたくて、亜沙子の方から部屋を出た。
欄干へ向かうと、訪 いを知っていたかのように、一世はそこにいた。
「亜沙子。久しぶりだね」
一世は眼を優しく細めて、憂いを含んだほほえみを浮かべた。
「……はい。こんにちは」
「こんにちは。とてもいい音だったよ」
「ありがとうございます」
「寂しかったよ。ここのところ、私の前では月胡を弾いてくれなかったものだから」
「すみません……」
亜沙子は気まずげに視線を落とした。
「こっちへきて、お座りよ。そうしたら許してあげる」
「はい」
隣に座ると、心得たように、灯里が茶を運んできた。
しとしと降る雨を眺めながら、亜沙子は湯呑茶碗を手にとった。
斜めに突き出た庇 から、降り沫 く雨は水晶の連なりのように滴り落ちていく。灰色の石畳に落ちては弾け、濡れそぼったまま貼りつく若葉色の木の葉を、いっそう鮮やかに見せている。
風情のある情景を見ているうちに、心は凪いでいった。
「……雨もいいものですね。癒されます」
「私は亜沙子に癒されるよ」
「……」
甘い台詞に、亜沙子は赤面して言葉を失った。
「雨の音をお聴きよ」
そういわれて顔をあげると、しとしと降る、優しい雨の音に耳を澄ませた。
「心の安らぎに技巧の有無は関係ないことを、教えてくれる。私にとって、亜沙子の月胡そのものだよ」
一世は目を細めると、強く亜沙子を抱き寄せた。覆い被さるように端正な顔を寄せて、そっと唇を重ねた。
「好きだよ、亜沙子」
胸が、じんと甘く痺れた。
「……私も好きです」
「これからも、傍にいてくれる?」
「許される限り」
祈るように告げると、一世は怖いくらいに真剣な瞳で亜沙子を見つめてきた。
「亜沙子を番 にしたい」
しとしと、雨の音が聴こえる。
「……他にも番はいる?」
衝撃に具 えて、心を無にしながら亜沙子はそっと訊ねた。
「何をいう? いないよ」
え、と亜沙子は目を瞠った。一世もまた、驚いたように亜沙子を見ている。
「……天狼は長寿だから、番うのが遅いんだ。その分、愛情深い。生涯ただひとりと添い遂げる」
「でも……」
本当に、生涯ただひとり? 答えを探すように見つめていると、額に柔らかく唇を押し当てられた。
「おかしいな。かなり率直に、態度で示したきたつもりなのだけれど」
「……え、でも、恋人はいるでしょう?」
首を傾げる亜沙子を見下ろして、一世は不機嫌そうに眉をひそめた。
「……私は亜沙子に求婚しているのだが? なぜ、他の女の存在を疑われねばならぬ」
視線を泳がせると、顎に手をあてがわれた。顔を背けられない。
「いいから、私の番になりなさい。不安に思うことなど何もないから」
「……はい」
亜沙子もようやく、素直に返事をした。一世の言葉を疑う気持ちより、喜びの方が遥かに大きい。
見つめ合ったまま、一世は、徐 に陶製の酒瓶の口をあけた。
馥郁たる香りが辺りに漂う。
ぐいっと煽ったかと思えば、亜沙子の腕を引いて、胸の中に抱き寄せた。端正な顔が降りてきて、唇を塞がれた。
「んっ!?」
唇をしっとりとふさがれる。隙間なく唇が重なり、冷たい酒が喉に流れこんできた。
亜沙子は慌てて腕を突き出そうとするが、びくともしない。
観念して喉を鳴らした。
酒の香の妙 なること。
馥郁たる芳香が口いっぱいに広がり、まろやかな酒精が舌の上を転がっていく。ゆっくりと嚥下すれば、五臓六腑にしみこんでいく。いつまでも味わっていたい、夢のような酒だ。
しばし陶然としていた亜沙子だが、濡れた唇を優しく指でぬぐわれて我に返った。
「一世さんッ」
「ふふ」
額に、ちゅっ、とかわいらしいキスが落ちた。亜沙子の胸は、はちきれんばかりに高鳴ったが、誤魔化すように平坦な表情を装った。
「いきなり何するんですか!」
諫めると、一世はおかしそうに笑った。
「怒る亜沙子もかわいい」
「信じられない! 口移しで飲ませるなんて」
亜沙子は睨みつけたが、一世はどこ吹く風だ。
「もっと飲ませてあげようか?」
「自分で飲め……ン――ッ」
再び唇が重なり、酒を流しこまれた。
「もうやめて……」
喘ぐように小声でささやくと、一世はぴたりと止まった。探るように亜沙子の顔を覗きこんだ。
青と金の双眸に、心の底まで見透かされそうで、亜沙子は目を合わせることができなくなった。
「……かわいい、亜沙子」
耳元でささやかれて、亜沙子は息をのんだ。
かわいい、という言葉に、これまでにない甘さが含まれていることに気づく。
焦燥と喜びを同時に感じながら、もう、と抗議を唇に乗せる。
「亜沙子、好きだよ。どうかずっと傍にいて」
「……いますよ。口移しで与えなくても、自分で飲みます」
青と金の双眸を見つめて亜沙子が告げると、一世は安堵したように、肩から力を抜いた。最近、万能不死の霊薬を口にしていなかったことを灯里から聞いて、心配していたのだろう。
「驚かせて、ごめんね」
「私も、ごちゃごちゃいってごめんなさい……好きです。こちらこそ、どうか傍にいさせてください」
そっと頬に口づけると、一世は眼を瞠った後、花が綻ぶようにほほえんだ。
(なんて嬉しそうに笑うんだろう……)
胸がいっぱいになり、忽 ち視界は潤んだ。
懸命に笑おうとしたが、諦めて、亜沙子は両手で口を被った。幸せで、胸がいっぱいで、笑いたいのに、咽の奥が熱くなる。ぽろぽろと涙が零れた。
「ふ、ぅ、ぅぅ……っ」
一世は蕩けそうな笑みを浮かべると、しゃくりあげる亜沙子を胸の中に抱き寄せた。
「どうしたの、私のお姫様」
しがみつく亜沙子をあやしながら、唇で優しく涙を拭きとる。尽きぬ泉のように、次から次へと、涙は溢れてくる。
泣いて、泣いて、気が遠くなりそうになりながら、亜沙子は心を洗われていくような、不思議な心地を味わった。
一世と出会えた縁を、ただの偶然とは思わない。
蓬莱山に辿る神仏の功徳というものかもしれない。
この先もずっと、彼の傍で生きていきたい。強い想いが、滾々 と胸の底から湧き上がってくる。
閉じた瞼の奥に蘇る、美しい燈幻郷。
萌ゆる緑、清らかな山河、さえずる小鳥の啼き声、土の香り、木々の香り、花の香り、雨の匂い……淡雪のように風に舞い散る桜。
仏様の蒼い蒼い、空の世界。
暖かな腕の中で、亜沙子は声をあげて泣いた。これ以上はないという、幸せをかみしめて。
亜沙子は日課の月胡を手にしたものの、
あの晩、宴で笹良と一世の共演を聴いてから、人前で、とりわけ一世に聞かせるのが恥ずかしくなってしまったのだ。
「誰かと比べても、しょうがないのだけれど……」
亜沙子は憂鬱なため息を零した。
気分は晴れず、音にまるで魅力を感じられない。
ふと、どこからか、雨の音にまじって月胡の調べが聴こえてきた。
亜沙子の好きな曲だ。
雨滴を地面が吸うように、その音色は、不思議なほど亜沙子の心に染み
聴き入っていると、ぱたりと旋律が止んだ。少し間を置いて、簡単な和音が聴こえてきた。
「あ……」
これは音遊びだ。お互いの音を真似する遊び。音に誘われて、亜沙子も和音を鳴らした。
また別の音の並び。同じように真似をして、今度は亜沙子が音を鳴らした。一世も同じように音を真似る。
「ふふ」
繰り返すうちに、自然と笑みがこぼれた。言葉はなくても、音が教えてくれる。
もっと遊ぼう。楽しもうよ、と。
音楽を分かち合うのに、言葉なんていらないんだってことを、改めて実感した。
音遊びを繰り返し、やがて美しい旋律を共に奏で始めた。先日の笹良と一世のように。
いや、もう人と比べるのはやめよう……今こうして、共に弾くことが楽しいのだから。
清々しい気持ちで、亜沙子は月胡を弾いた。
一曲を弾き終えると、音が止んだ。もう少し遊びたくて、亜沙子の方から部屋を出た。
欄干へ向かうと、
「亜沙子。久しぶりだね」
一世は眼を優しく細めて、憂いを含んだほほえみを浮かべた。
「……はい。こんにちは」
「こんにちは。とてもいい音だったよ」
「ありがとうございます」
「寂しかったよ。ここのところ、私の前では月胡を弾いてくれなかったものだから」
「すみません……」
亜沙子は気まずげに視線を落とした。
「こっちへきて、お座りよ。そうしたら許してあげる」
「はい」
隣に座ると、心得たように、灯里が茶を運んできた。
しとしと降る雨を眺めながら、亜沙子は湯呑茶碗を手にとった。
斜めに突き出た
風情のある情景を見ているうちに、心は凪いでいった。
「……雨もいいものですね。癒されます」
「私は亜沙子に癒されるよ」
「……」
甘い台詞に、亜沙子は赤面して言葉を失った。
「雨の音をお聴きよ」
そういわれて顔をあげると、しとしと降る、優しい雨の音に耳を澄ませた。
「心の安らぎに技巧の有無は関係ないことを、教えてくれる。私にとって、亜沙子の月胡そのものだよ」
一世は目を細めると、強く亜沙子を抱き寄せた。覆い被さるように端正な顔を寄せて、そっと唇を重ねた。
「好きだよ、亜沙子」
胸が、じんと甘く痺れた。
「……私も好きです」
「これからも、傍にいてくれる?」
「許される限り」
祈るように告げると、一世は怖いくらいに真剣な瞳で亜沙子を見つめてきた。
「亜沙子を
しとしと、雨の音が聴こえる。
「……他にも番はいる?」
衝撃に
「何をいう? いないよ」
え、と亜沙子は目を瞠った。一世もまた、驚いたように亜沙子を見ている。
「……天狼は長寿だから、番うのが遅いんだ。その分、愛情深い。生涯ただひとりと添い遂げる」
「でも……」
本当に、生涯ただひとり? 答えを探すように見つめていると、額に柔らかく唇を押し当てられた。
「おかしいな。かなり率直に、態度で示したきたつもりなのだけれど」
「……え、でも、恋人はいるでしょう?」
首を傾げる亜沙子を見下ろして、一世は不機嫌そうに眉をひそめた。
「……私は亜沙子に求婚しているのだが? なぜ、他の女の存在を疑われねばならぬ」
視線を泳がせると、顎に手をあてがわれた。顔を背けられない。
「いいから、私の番になりなさい。不安に思うことなど何もないから」
「……はい」
亜沙子もようやく、素直に返事をした。一世の言葉を疑う気持ちより、喜びの方が遥かに大きい。
見つめ合ったまま、一世は、
馥郁たる香りが辺りに漂う。
ぐいっと煽ったかと思えば、亜沙子の腕を引いて、胸の中に抱き寄せた。端正な顔が降りてきて、唇を塞がれた。
「んっ!?」
唇をしっとりとふさがれる。隙間なく唇が重なり、冷たい酒が喉に流れこんできた。
亜沙子は慌てて腕を突き出そうとするが、びくともしない。
観念して喉を鳴らした。
酒の香の
馥郁たる芳香が口いっぱいに広がり、まろやかな酒精が舌の上を転がっていく。ゆっくりと嚥下すれば、五臓六腑にしみこんでいく。いつまでも味わっていたい、夢のような酒だ。
しばし陶然としていた亜沙子だが、濡れた唇を優しく指でぬぐわれて我に返った。
「一世さんッ」
「ふふ」
額に、ちゅっ、とかわいらしいキスが落ちた。亜沙子の胸は、はちきれんばかりに高鳴ったが、誤魔化すように平坦な表情を装った。
「いきなり何するんですか!」
諫めると、一世はおかしそうに笑った。
「怒る亜沙子もかわいい」
「信じられない! 口移しで飲ませるなんて」
亜沙子は睨みつけたが、一世はどこ吹く風だ。
「もっと飲ませてあげようか?」
「自分で飲め……ン――ッ」
再び唇が重なり、酒を流しこまれた。
「もうやめて……」
喘ぐように小声でささやくと、一世はぴたりと止まった。探るように亜沙子の顔を覗きこんだ。
青と金の双眸に、心の底まで見透かされそうで、亜沙子は目を合わせることができなくなった。
「……かわいい、亜沙子」
耳元でささやかれて、亜沙子は息をのんだ。
かわいい、という言葉に、これまでにない甘さが含まれていることに気づく。
焦燥と喜びを同時に感じながら、もう、と抗議を唇に乗せる。
「亜沙子、好きだよ。どうかずっと傍にいて」
「……いますよ。口移しで与えなくても、自分で飲みます」
青と金の双眸を見つめて亜沙子が告げると、一世は安堵したように、肩から力を抜いた。最近、万能不死の霊薬を口にしていなかったことを灯里から聞いて、心配していたのだろう。
「驚かせて、ごめんね」
「私も、ごちゃごちゃいってごめんなさい……好きです。こちらこそ、どうか傍にいさせてください」
そっと頬に口づけると、一世は眼を瞠った後、花が綻ぶようにほほえんだ。
(なんて嬉しそうに笑うんだろう……)
胸がいっぱいになり、
懸命に笑おうとしたが、諦めて、亜沙子は両手で口を被った。幸せで、胸がいっぱいで、笑いたいのに、咽の奥が熱くなる。ぽろぽろと涙が零れた。
「ふ、ぅ、ぅぅ……っ」
一世は蕩けそうな笑みを浮かべると、しゃくりあげる亜沙子を胸の中に抱き寄せた。
「どうしたの、私のお姫様」
しがみつく亜沙子をあやしながら、唇で優しく涙を拭きとる。尽きぬ泉のように、次から次へと、涙は溢れてくる。
泣いて、泣いて、気が遠くなりそうになりながら、亜沙子は心を洗われていくような、不思議な心地を味わった。
一世と出会えた縁を、ただの偶然とは思わない。
蓬莱山に辿る神仏の功徳というものかもしれない。
この先もずっと、彼の傍で生きていきたい。強い想いが、
閉じた瞼の奥に蘇る、美しい燈幻郷。
萌ゆる緑、清らかな山河、さえずる小鳥の啼き声、土の香り、木々の香り、花の香り、雨の匂い……淡雪のように風に舞い散る桜。
仏様の蒼い蒼い、空の世界。
暖かな腕の中で、亜沙子は声をあげて泣いた。これ以上はないという、幸せをかみしめて。